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兒玉町史より

正平十八年(一三六三年)十月十四日、足利直冬は勲功の賞として吉河山城守に備中草壁郷地頭識庄駿河守跡を宛がう。

一九三  足利直冬充行状(吉川家文書)
(押紙)城守の代」
備中國草壁郷地頭識庄駿河守事、爲勲功之賞所充行成、早任先例可致、沙汰之状如件、
  正平十八年十月十四日 (花直冬押)
吉河山城守殿
(『大日本古文書』)
解説

足利直冬が勲功の賞として備中國草壁庄庄駿河守跡を吉河山城守に宛てがったものである。 中国方面では以前南朝方の勢力が強く草壁庄の地頭庄氏も一時地頭識を失ったものと思われるが、 後に北朝方の勢力が盛り返すにいたって、再び地頭識を回復している。なお正平九年(一三五四年) に草壁庄地頭識庄兵衛四郎跡を後村上天皇が金剛寺に寄進している。(史料一七九)がこの事情がよくわからない。

貞治四年(一三六五年)、伊豆山権現宗走湯山領の年貢数及び田畠数が書き上げられる。その中に武蔵野國野中郷 ・野中村が見える。

一九九  伊豆國走湯山社領年貢・田畠注文〔伊藤一美氏所蔵文書〕
貞治二二年
幷田畠等数
(空白)
武蔵國
吉田郷三ヶ村     百五十貫文


野中村        卅十貫文
上野國
板倉        十八貫文
相模國
櫛橋郷 百貫文   三十貫文立用
(下略)
(『大日本古文書』)
解説

この史料は貞治四年(一三六五年)に伊豆山権現走湯山(密嚴院)領の年貢と田畠数を書き上げた者で、伊藤一美氏が『埼玉県史研究』 第二十四号に「武蔵國吉田郷と伊豆山神社」として紹介されたものである。それによれば、吉田郷は鎌倉初期に将軍家によつて寄進されたもの と言われている。吉田郷は現在の秩父郡吉田町付近の郷とおもわれる。三ヶ村以上の村で郷が構成されていた。

吉田郷は鎌倉初期に寄進されているが、ここの地頭識については不明であるものの、平姓秩父氏との拘りの強い土地で、児玉黨流秩父氏の所領 だったものと考えられる。秩父神社文書中に延慶四年(一三一一年)の「中村行郷甲状」に「志恒惣領吉田五郎次郎」とみえる。 また吉田郷の外に武蔵國野中村が見えるが、野中村については現在地は不明であが、美里町大字猪俣字野中であろうか。

正平二十一年(一三六六年) 十二月八日、足利直冬は吉河讃岐守に勲功の賞として備中國庄駿河入道跡他を宛がう。

二〇〇  足利直冬充行状〔吉川家文書〕
讃山(押紙)岐入道之代」
(従知)(押紙)行方」

備後國河立庄、備中國庄駿入道之跡、岩見國内田肥前守跡等地頭式事、爲勲功之賞所充行成、 早任先例可致沙汰之状如件、
正平廿一年十二月八日             (花押)(足利直冬)
吉河讃岐守殿
(『大日本古文書』)

解説

足利直冬が吉河讃岐守に備後國河立庄・備中國庄駿河入道跡・岩見國内田肥前守跡の地頭識を宛てがったものである。 吉河氏は正平十八年の段階で吉河山城守が草壁庄庄駿河守跡を直冬から宛がわれているが、ここで言う庄駿河入道跡 は草壁庄以外の所領を指しているのであろうか。

  応安元年(一三六八年)四月、山城金蓮院雑掌の定勝は、 同寺領伊勢國茂永小泉御厨 みくりや 押領せし庄十郎を幕府に訴える。

二〇三  山城國金蓮院雑掌定勝申状〔地蔵院文書〕
金蓮院雑掌勝謹言上

欲早任文永十年官府宣、代々勅裁幷貞和元年御下知旨、被經嚴密御沙汰、披成御教書於守護方、披停止庄十郎不知實名押領、 全寺用伊勢國茂永小泉御厨事、
副進
一通 御下知案 貞和元年十一月十七日
官符宣代々敕裁等依事繁略之、

、 右於彼地者、當寺院領也、仍任文永十年官府宣幷正安元年以來代々勅裁之旨、爲寺院領知行送年序訖、而貞和元年今河式部大夫違 乱之聞、 就訴申、被成御下知、當下知無相違之處、去貞治四年八月以來、庄十郎號守護被管被官仁、募彼武威、以佛性燈油料所、 無是非令神領、追出寺家雑掌、不寄付所務之條、難勘之次第也、所詮被經嚴密御沙汰、被成御教書於守護方、被退彼輩押領、被打渡下地於寺家雑掌、 全寺用、彌爲奉天下安全、謹言上如件、
慶安元年卯月  日
(『大日本史料』六-二十九)
解説

 伊勢国茂永小泉御厨を押領したとして訴えられたとして庄十郎の名がみえる。文面によれば庄十郎は(実名不詳)は 貞治四年(一三六五年)以来、守護の被官と称して武威を募り、押領を行って来たと言う。伊勢国内における庄氏の所領 の有無や、動静は全く不明である。伊勢国の守護は貞治四年八月の頃は土枝頼康で、同五年八月以降は仁木義長で 応安元年の守護は細川頼之である。  

この時期、他の史料で庄駿河入道・庄近江入道等の名がみえるが、庄十郎を含めそれぞれの関係は分からない。

 応安二年(一三六九年)六月十五日、足利氏満(金王丸)は勲功の賞として藤田越中入道に比企郡竹沢郷内竹沢左近将監    入道跡を預け置き、上杉能憲はそれを受けて上杉憲方に下知を沙汰させる。同三年十月三日、大石能憲は下知を打ち渡した旨を報告する。

二〇四  關東公方足利氏滿(金王丸)御教書安〔円覚寺文書〕
(端裏書)
「□□」(竹沢)
藤田(押紙、モト端裏書參河入道所應永十二□
校正華

武蔵國比企郡竹澤郷竹澤左近将監入道跡事、爲勲功之賞所被預置也者、早守先例可被致沙汰之状、 依仰執達如件、
    應安二年六月十五日         沙彌在判道□ 上杉能憲
     藤田越中入道殿
二〇五  關東管領上杉能憲施行状案〔円覚寺文書〕
   同前(校正華)
武蔵(合点)國比企郡竹澤郷内竹澤左近将監入道跡事、任去十五日充状、可沙汰付下知地藤田越中覺能入道之状、依仰執如件、
    應安二年六月廿七日         沙彌在判道□ 上杉能憲
     安房入道殿(道合、上杉点方)
二〇六  武蔵國守護代大石能重打渡状案〔円覚寺文書〕
   同前(校正華)
武蔵(合点)國比企郡竹澤郷内竹澤左近将監入道跡事、任去十五日充状、可沙汰付下知地藤田越中覺能入道之状、依仰執如件、
    應安三年十月三日      隼人佐能重大石在判
解説

この三点(二〇四、二〇五、二〇六) 鎌倉公方金丸王(氏滿₌基氏の子)が、藤田越中入道(覺能₌藤田越中守能員)に勲功の賞として、 比企郡竹澤郷内竹澤左近将監入道跡、を預け置いたものである。勲功とあるのは前年に起きた平一揆の乱(平一揆とは河越氏・高坂氏・江戸氏・豊島氏等 平姓秩父氏を出自とする一揆の集団で蜂起した理由は不明)に、この藤田能員が鎌倉府に属して勲功をあげたからだと思われる。逆に竹沢氏は平一揆に属したため 所領を没収されたのであろうか。

藤田越中入道は後揚の史料で法名を覺能といったことが見え、猪俣党藤田氏の者と思われ、文和四年と延文五年に播磨國の法光寺に所領を寄進した越中守能員と同一人と考えられる。(史料一八〇)

尚竹沢氏の系譜は分からないが、兒玉党竹沢氏があったことが『武蔵七党系図』に見える。兒玉党竹沢氏は平兒玉流であり平姓を称していから、平一揆に属した可能性がある。文和二年 (一三五三年)に足利尊氏が行った安鎮大法供養に竹沢右京亮が従っている(杉本家文書)が同族であろう。
    参考 湯山学「武蔵猪俣党の新史料」『地方史研究』二十五号         同  「藤田宗員とその妻記春」『武蔵野』六十ノ一

 應安四年(一三七一年)閏三月十二日、室町幕府は小早河貞平の勲功の賞の替地として小早河春平に安藝國能美島塩谷孫太郎入道跡を宛がう。

二〇七  室町幕府管領細川頼之下知状〔小早川家文書〕

可令早小早河美作守春平領知安藝國内部庄三戸彦七跡・同國能見嶋鹽谷孫太郎入道跡事。〘入道跡 鹽谷孫太郎

右、爲父貞平法師勲功之地下總國阿玉郷之替、所充行也者守先例、可致沙汰之狀、依仰下知如件、
    應安四年閏三月十二日       武蔵守源朝臣(細川頼之)(花押)
(『大日本古文書』)
解説

応安四年(一三七一年)に室町幕府が小早河美作守春平に安藝國内部庄と能美島塩谷孫太郎入道跡を春平の父貞平が勲功の賞として得た下総国阿玉郷の替地として宛がわれたものである。
   兒玉文書中元応に年(一三二〇年)の六波羅御教書(第一章参照)に塩谷左衛門入道が兒玉七郎入道と共に安藝國亀頸の海上警護を命じられていることから、 塩谷氏の安芸国内に所領を有していたと思われ田がこの史料によって兒玉党塩谷氏が安芸国能美島に地頭識を得ていたことが判明する。おそらく兒玉氏と同様に弘安四年(一二八一年)に 安芸国の所領に下向するよう鎌倉幕府より命じられ、一族が西遷していたたものと思われる。 安藝國における塩谷氏の行動は全く不明であが、同国竹仁上下村を領した兒玉氏が 南朝方の足利直冬に属し活躍していたことをかんがえると、塩谷氏の同様な行動をとったことが考えられ直冬の役落とともに北朝方によって没収されたのではないか思われる。 しかし塩谷氏は近世期毛利氏の家臣に塩谷氏があるので、所領をうしなったあとも安芸国周辺で活躍し後に毛利氏に従った者であろう。

 應安四年(一三七一年)六が六日、幕府は庄駿河入道に命じて、竹鼻入道覺知の山城國円城寺敷地、山林等を押領するのを停止させ、下知を仁和寺の雑掌に交付する。

二〇八  室町幕府管領細川頼之奉書写〔東寺百合文書〕

仁和寺雑掌宗尋申山城國圓城寺敷地・山林等事、解状副具書如此、子細見狀、勅裁以下證跡分明也、早小串次郎右衛門尉相共莅彼所、不日退竹鼻新左エ門入道覺智知行、 沙汰付竹下地於雑掌、可莅執請取之狀、依仰執達如件、
    應安四年六月六日          武蔵守(細川頼之)
  庄駿河入道殿
(『大日本史料』六ー三十四)
解説

この史料は幕府が、庄駿河入道・小串次郎左衛門尉に命じて、仁和寺雑掌宗壽の訴える同寺領山城国円城寺敷地・山林等を押領する竹鼻新左エ門尉入道覺智の知行を退け、 下地を雑掌に渡せたものである。管領武蔵守細川頼之が庄駿河守に将軍の命を奉じて出したものである。
   庄駿河入道の実名も不明で、兒玉党の流れをくむ備中國(岡山県)草壁庄の地頭庄氏一族の武士と思われが、詳細は不明である。正平十八年(一三六三年) と同二十一年(一三六六年)の『吉川家文書』に、備中國草壁庄庄駿河守・庄駿河入道跡の記載が見られるから、同一人であろう。管領細川頼之から直接文書が出されている ことから、幕府の奉行衆の一員であろうか

 應安五年(一三七一年)十二月十七日、後光嚴上皇は民部大輔(西園寺実俊ヵ)に、幕府に春日社領山城國葛原新庄菊末・定宗両名に於ける塩谷入道の濫坊を停止させるよう伝えさせる。

二〇九  後光嚴上皇院宣案〔東寺百合文書〕

春日社領山城國葛原新庄菊末・貞宗名鹽屋入道以下輩押坊事、興福寺學侶僉議狀幷盛深儈正狀副具書如件、子細見狀候歟、可沙汰居雑掌於下地之由、可被仰遣武家之旨、 新院御氣(御光嚴上皇)色所候也、仍言上如件、
 忠光恐惶謹言、
   應安五               十二月十七日  権中納言忠光(柳原)              進上  民部大輔殿(西園寺実俊ヵ) (『大日本史料』六ー三十六)
解説

この史料は興福寺より、春日大社領の山城國葛原新庄菊末・貞宗名が、塩屋入道等によって押領されていることを訴えられたものである。塩屋(谷)入道については、兒玉党流塩谷氏と宇都宮氏流の下野國出身の塩谷氏 があって、どちらに属する武士か不明である。
鎌倉期の永仁元年(一二九三年)九月に小山氏の被官塩谷入道が京都で活躍していたことが知られるが(『新玄僧正日記』)、この塩谷入道が宇都宮氏系塩谷氏と見て間違いないと思われるが、ここに登場する塩谷入道戸は、 凡そ八十年もの時間差があり、どちらの武士か不明である。

 文中二年(一三七三年)九月八日、南朝方(北畠顕泰ヵ)は伊勢國古和一族に同國飯高郡深田御園地頭識志村方半分 (庄近江入道知行分)を、兵糧料所として知行させる。
  二一〇  兼顕奉書写

(北畠兼顕ヵ)

伊勢國飯高郡深田御園フカタ ミソノ地頭ショク志村方半分、知行文、庄近江入道知行分爲兵糧料所可令知行之狀、仍仰執達如件、
   文中二年九月八日              中務大丞兼アキ
    古和一族中
(『大日本史料』六ー三十八)

 應安七年(一三七四年)九月二十九日、備前國守護守護代浦上助景は、御教書及び施行状の旨に任せ、富田五郎左衛門尉(康知)に命じて備前國金岡東庄領家職を額安寺雑掌に打渡させる。

二一一  備前國守護代浦上助景遵行狀〔額安寺文書〕

額安寺雑掌申、備前國金岡東庄領家事、任去年十二月廿日御教書幷當年九月十四日施行狀之旨、退兵粮方預入、可被渡雑掌一圓所務之狀如件、

   應安七年九月廿九日         左衛門尉浦上助景(花押)
   富田五郎康知左衛門尉殿
(『大和郡山市史料』)