(児玉町史より)

  古文書 Ⅺ

  文和三年(一三五四年)六月六日、鎌倉公方足利基氏は勲功の賞として武田弥六入道に武藏国秩父郡友経名内の地を宛がう。   

      《一七五》關東公方足利基氏充行狀写〔「諸氏家藏文書」所収〕

武藏國秩父郡友經内嶋□蔵人跡・同伯母跡事、爲勲功之賞所充行也者、守先例可致沙汰之狀如件、
文和三年六月六日       (花押影)(足利基氏)
武田彌六入道殿

(『埼玉県史』資料編 5)

  《解説》
鎌倉公方足利基氏が武田弥六入道文元に武藏国秩父郡友經名内嶋□蔵人跡等を勲功の賞として宛がったものである。秩父郡友経名については不明であるが 『秩父神社文書』には支垣・直弘・武光・恒用等の名や郷が存在するので同類のものと思われる。嶋□蔵人についてもわからないが、児玉党流の島名氏であろうか。

正平九年(一三五四年)肥前國鎮守河上社の神役対捍免田畠並びに役人注文が作成される。その中に同国山田東郷力武名内に富田五郎三郎の知行地が見えるる彼の地は一色方恩賞地という。

      《一七六》肥前國河上社座主増成免田畠等注文写〔河上宮古文書写〕

注進
  肥前國鎮守河上社神役對捍免田畠幷役人等注文事
  鎭西下知狀分
一  燈油免壹一町 力武名内山田東郷 森部次郎入道蓮西孫子盛永跡、嘉暦二年

      十一月廿五日下知狀在之、
正應以來未濟之、  富田五郎三郎知行之、 但件田地者號一色方恩賞、

(中略)
右、  當社々對役對捍免田畠等、且注進如件、
   正平九年六月  日

座主兼御免執行件權律師僧成
                 (『南北朝遺文』九州編三六九二)

  《解説》
v肥前国内に富田五郎三郎の知行地があったことが見える。このと田氏については外に知見もないが、児玉党に富田氏があるので参考として上げておく。

正平九年(一三五四年)十二月二十一日、後村上天皇は備中国草壁莊西方地頭職莊兵衛四郎並びに一族跡を金剛寺に寄進する。

      《一七九》後村上天皇論旨案〔金剛寺文書〕

備中國草壁莊西方地頭職幷一族等跡莊兵衛四郎 爲毎年三月御影供舞樂料所、

々有寄附當寺等也、可令存知者、
天気如此、悉之以狀、
    正平九年十二月廿一日                    右中辨
金剛寺々僧中
(『大日本古文書』)

  《解説》
南朝の後村上天皇が金剛寺に備中草国壁荘西方の莊兵衛四郎並びに一族等の跡の地頭職を寄進したものである。この時期中国・九州方面で足利直冬の勢力が盛んであり、 直冬も南朝より惣追捕使に任命されたりしていた。恐らくはそんな状況からか北朝方の莊氏が草壁荘の地頭職を一時失ったものと思われる。金剛寺は後村上天皇の行宮所 となるなど極めて緊密な関係があり、そのための所領の寄進を得たものと思われる。

正平十二年(一三五七年)九月、足利直冬は児玉五郎太郎(益行)に感状を発給する。

      《一八二》足利直冬感狀〔毛利博物館所蔵 児玉文書〕
(註、第一章・第一節に収録済み。第六号文書)
《一八三》足利直冬感狀〔毛利博物館所蔵 児玉文書〕
(註、第一章・第一節に収録済み。第七号文書)

  延文二年(一三五七年)九月、小幡行綱の妻有道氏幸清は上野國島名郷(高崎市)内の田畠在家について言上する。

      《一八四》小幡行綱妻有道氏女代幸清重申狀〔真福寺文書〕   

小幡因幡守行綱妻有道氏代幸清重言上
欲早依御引付錯亂、被與奪壹岐守政宣奉□於當御奉行方、
被成御奉書、被召上嶋□上野國嶋名郷内田畠在家等事、
副進
一通  御奉□繁 自餘略之、
右、子細者、□所詮重被成下御□嶋名彌三□妨狼藉罪科被沙汰□氏女代爲□件、
延文二年九月  日

  《解説》
 この史料は延文二年(一三五七年)に小幡因幡守行綱の妻有道氏の代として幸清が、上野国島名郷内田畠在家について申し述べたものである。文面の破損が多く内容がよくわからないが、  島名郷の領有に関するものと思われる。小幡氏上野国甘楽郡小幡郷出身の平姓児玉の一族と思われるが、系譜等は不明である。行綱の妻が有道姓を称しているから同じ児玉党の出身者の女性と思われる。  島名郷については現在の群馬県高崎市元島名付近が比定され、史料に島名弥三の名がみえるが、児玉党島名の所領だったものと思われる。  

  延文二年(一三五七年)十一月二日、室町幕府奉行人眞下入道紗弥心蓮・白井左衛門尉行胤は、祇園社領越中国堀江莊地頭職の半濟の義を停止し、下地を同社雑掌に打ち渡す。

    《一八五》室町幕府奉行人打渡狀〔八坂神社文書〕

祇園社領越中國堀江莊地頭職事、依守護人申請、雑掌承諾間、
〔止ヵ〕濟之儀、所沙汰付下地於雑掌慶〔尋ヵ〕也、仍渡狀如件、
延文二年十一月二日左衛門尉行胤(花押)
沙彌心蓮(花押)

(『室町幕府文書集成』)

  《解説》
  眞下入道沙弥心蓮は白井行胤と共に、室町幕府の奉行人として祇園社領越中国堀江荘地頭職一件につき、同社雑掌に下地を打ち渡したものである。文中に半済(はんぜい・はんさい)の語が見えるが、   これは南北朝内乱期に幕府が国衙領・本所領の年具半分を兵糧米として収納してことから始まり、以後恒常化するようになった。延文二年に半済令が出されたようで、その特徴は寺社等に対する半済の停止・下地の返還などを行ったものである。この史料もこの半済令に対するものと思われる。
眞下氏は天福二年(一二三四年)に下野国足利荘の鑁阿寺ばんあじ大御堂の造営に打ち付けられた棟札に、有道広経(眞下)の名があり、 眞下広経が雑掌として参加していたことが知られる(第三章第二節三八号)。恐らく心蓮は広経の子孫と思われるが詳細は不明である。
眞下心蓮については実名き不明であるが、『遠山文書』や『天龍寺造営記録』・『師守記』(第三章に収録)の記事から考えると、眞下中務丞広仲と思われる。史料一五一の解説を参照。

  延文四年(一三五九年)十二月八日、武藏国兒玉郡塩谷の住人彦五郎入道行印は那智山村松大弐に旦那願文を進める。

    《一八六》旦那願文〔米良文書〕   

武藏國少玉郡之内しをのやの住人ひこ五郎入道行印、又ㇵなかくきとも申候、いまた熊野參詣せす候間、はしめて京都にて師旦那のけいやく申候うへㇵ、 末代まてちかいめなく御坊中へまいり候へく候、のちのために願文如件、
延文二年十二月八日行印(花押)
那智山御師村松大貮 盛甚阿闍梨御坊
是ㇵ畠山殿紀伊國せめの御時、
(『熊野那智大社文書』)

  《解説》
  児玉党塩谷彦彦五郎入道行印が京都にて熊野社の師旦那契約を結び願文を提出したものである。延文四年に鎌倉府の執事畠山国清が足利義詮の命により紀伊国の南党討伐のため   東国の軍勢を率いて上洛した際に、塩谷氏もこれに従って上洛してたものと思われる。塩谷氏は正応二年(一二八九年)に塩谷家時が熊野参詣を果たし願文と系圖を提出している   (塩谷系圖『米良文書』)。熊野信仰は武藏武士にとっておおきな意味を持っていた。文面に行印"なかくきと申候"とあり、安保文書に枝松名内塩谷郷と共に枝松名内長茎郷がみえるが同じ意味であろうか。   長茎郷は現在の児玉町大字塩谷の近くに大字長沖があるがこれに比定できるかも知れない。尚、塩谷郷は暦應三年の安保光阿譲狀(第一章を参照)では塩谷郷・長茎郷は安保氏の所領となっており、   彦五郎入道行印は安保氏の一族の可能性もあるかも知れない。

  正平十八年十月十四日、足利直冬は勲功の賞として吉河山城守に備中国草壁莊地頭職莊駿河守跡を宛がう。

    《一九三》足利直冬充行狀〔吉川家文書〕    「山(押紙)城守之代」
備中國草壁郷地頭職守跡 莊駿河事、爲勲功賞之所充行也、
早任先例可致沙汰之狀如件、
正平十八年十月十四日 (花押)(直冬)
吉河山城守殿
(『大日本古文書』)

  《解説》
足利直冬が勲功の賞として備中国草壁郷莊駿河守跡を吉川山城守に宛がったものである。中国地方は以前南朝方の勢力が強く草壁の地頭莊氏も一時地頭職を失ったものと思われる。 後に北朝方の勢力が盛り返すにいたって、再び地頭職を回復している。尚、正平九年(一三五四年)に草壁莊地頭職莊兵四郎跡を後村上天皇が金剛寺に寄進している(史料一七九)が こし事情はよくわからない。