(児玉町史より)

古文書

  観応三年(一三五二年)十月二十二日、足利尊氏は今年三月二日の下文の旨に任せ鵤木式部少輔に命じて、 安房国古国府中村眞下中務丞跡の下地を遠山景房に沙汰させる。

《一六〇》某施行狀写〔遠山文書

   「尊氏瑞裏書
遠山安藝守景房申、安房國古國府中村眞下中務丞跡事、早任今年三月二日下文之旨、沙汰付下地於景房、可被執進請取之஬+2376;如件
観応三年十月廿二日(花押影)
鵤木式部少輔
(『岐阜県史』史料編古代・中世一)

  観応三年(一三五二年)十一月、足利義詮が小早河実義に勲功の賞として安芸国兼式名小幡右衛門尉跡を宛がう。 紗弥某はそれを受けて椙原彦太郎に兼武名を小早川実義に沙汰するよう命じる。

《一六二》足利義詮袖判下文〔小早川家文書〕

下  小早河出雲又四郎実義
   可令早領知安藝國兼武名小幡右衛門尉

右、 爲勲功之賞、所充行也者早守先例、可致沙汰之狀如件、
文和元年十一月十五日
(『大日本古文書』)

《一六三》沙弥某施行状写〔小早川書〕

安藝國兼武名小幡右衛門尉

任去十五日御下文之旨、三嶋善遠江守相共、可被沙汰付小早河出雲又四郎実義之狀、依仰執達如件

付紙二而
文和化元年十一月十七日 沙彌執権仁木左京大夫頼章歟(花押影) 椙原彦太郎殿
大日本古文書』)
 《解説》

この二点の史料は、足利義詮が勲功の賞として安芸国兼武名小幡右衛門尉跡を小早川実義に宛がったものであるが、 この史料により児玉党小幡氏が安芸国兼武名に地頭職を得ていたことが分かる。小幡氏は 上野国甘楽郡小幡郷出身の武士で児玉党の一族である。近世期長州毛利家の家臣に小幡氏があるが、 この小幡武右衛門尉の子孫であろうか。この時期には小幡氏は兼武名を失っているが、この後も中国地方 は義詮に敵対する足利直冬の勢力がつよいので、小幡氏は直冬に従い兼武名周辺に関係していたかも知れない。

    正平八年(一三五三)二月十六日、小野(荏原)範貞は但馬国日置郷内の田地を大岳寺に寄進する。

《一六六》荏原範貞寄進狀〔大岡寺文書〕
□□進奉寄ヵ大岳田事
合壹段者坪   河角南寄日置郷内

□□〔郷〕地頭軄者、範貞重代相傳所帯、而依有詣心、以件田、限永代、 所令寄進當寺也ヵ、然者、雖爲子々孫々、更不可致違亂妨、依〔可ヵ〕寄進之狀如件、
正平八年二月十六日               小野(荏原)範貞(花押)
(『兵庫県史』史料編中世三)

《解説》

これは小野範貞が大岳(岡)寺に但馬国日置郷内の地を寄進したものである。小野範貞は猪俣党の荏原氏と考えられ、日置郷の地頭であったと思われる。 日置郷は従来は児玉党越生氏の所領であっつたことがしられるが、越生氏から荏原氏に代わった事情はわからない。
(参考め湯山学「武藏猪俣党の新史料」『地方史研究』二五号)

文和二年(一三五三年)三月十九日、足利尊氏は上野国の所領を長楽寺に寄進する。その中に児玉党の一族と思われる大類五郎左衛門尉後家尼知行分と、 中沢左衛門太郎後家尼知行分がみえる。

《一六七》将軍足利尊氏寄進狀〔長楽寺文書〕

寄附長楽□〔上野國〕〔寺〕普光庵

上野國新田庄徳河内畠五町四段・在家三字尼忍性幷神領□了見知行分天野肥後二郎左衛門尉後家、、柳澤幷西谷内田五段・畠七段・在家壹字知行分顯通
上今居内田貮町九十歩・畠壹町七段・在家四字尼了心知行分��〔瓺〕尻兵衛三郎 女子、 中今居内畠壹町九段知行分爲輔村田田内貮町壹段知行分尼淨心
田中郷内田貮町・畠貮段尼了覺知行分大類五郎左衛門尉後家、同郷内田九段知行分田中五郎三郎經氏、 小角田村内田壹町壹段・畠壹町光義知行分世良田弥二郎
上堀口幷冨澤内田貮町九段・在家九字尼了順知行分中澤左衛門太郎入道後家、小野郷内藤木村田壹町・在家貮字知行分尼了分
高山庄南神田幷下塚田壹町畠三町・在家三字知行分尼慈心、北笠嶋内田三段知行分小野子藤五郎入道尊性事、
右 爲當領所寄附也、者守先例、可致沙汰之狀如件、
文和二年三月十九日
正二位源朝臣(花押)(足利尊氏)『兵庫県史』史料編中世三)
 《解説》

この史料は足利尊氏が上野国(群馬県)新田郡の世良田の長楽寺普光庵に所領を寄進したものである。新田庄内の土地や高山庄内の土地で、 その中に上野国の児玉党一族大類五郎左衛門尉後家分や武藏国那賀郡出身の中沢左衛門太郎入道後家分が含まれていることが見える。

文和二年(一三五三年)十二月二十日、土岐頼康は幕府の命により、本荘河内守をして禅林寺新熊野若王子雑掌の訴えし、 尾張国下門真莊内における肥田伊豆守の濫妨を停止させ、下地を同寺の雑掌に 渡させる。

《一六八》尾張国守護土岐頼康施行狀〔若王子神社文書〕

禪林寺新熊野若王子雑掌申、尾張國下門眞莊内山腰・同八箇名事、去十月十七日御奉書如此、案文遣之、肥田伊豆守濫妨云々、早任被仰下之旨、 止彼妨、沙汰付雑掌於下地、被執進請取狀、更不可有緩怠之狀如件、
文和二年十二月廿日大善大夫(土岐頼康)
      本荘河内守殿
(『大日本史料』六―十八)
《解説》

文和二年(一三五三年)十二月に、土岐頼康は、幕府の命により、禅林寺雑掌が尾張国下門眞莊を濫妨する肥田伊豆守の濫妨を、本荘河内守をして停止させたものである。 本荘河内守については不明である。児玉党に本荘氏があるので、参考に上げる。なお、土岐一族にも本荘姓を名乗る者がいる。

文和三年(一三五四年)二月十二日、足利尊氏は小串光行に勲功の賞として播磨国下揖保莊内の欠所地大濱彦左衛門尉入道跡を宛がう。

《一六九》将軍足利尊氏袖判下文〔前田家所蔵文書〕
(花押)(足利尊氏)
下小串五郎左衛門尉光行、
可令早領知播磨國下揖保莊内大濱彦左衛門尉法師跡、
右爲勲功之賞、所充行者也、守先例、可致沙汰之狀如件、
文和三年二月十二日 (『大日本史料』六ー十八)

《一七〇》室町幕府執事仁木頼章施行狀〔前田家所蔵文書〕

小串五郎左衛門尉光行申、播磨國下揖保内大濱左衛門尉入道跡事、
任去一二日御下文之旨、可被沙汰付光行之狀、依仰執達如件、
文和三年に月十六日 左京大夫(仁木頼章)(花押)
  赤松律師御房(則祐・妙善)
                     (『大日本史料』六ー十八』

《一七一》播磨國守護赤松則祐(妙善)遵行狀〔前田家所蔵文書〕

播磨國下揖保内大濱左衛門尉入道跡事、任今年任二月十六日御施行之旨、 可被致其沙汰也、仍執達如件、
文和三年十二月一六日權律師赤松則祐(花押)
小串五郎左衛門尉
   「(包紙)〔串〕五郎左衛門尉殿、   權律師野理由」
                           (『大日本史料』六ー十八)

《解説》

将軍足利尊氏が勲功の賞として、小串光行に播磨国下揖保莊内大濱彦左衛門尉跡を宛がったものである。尊氏は幕府の執事仁木頼章に命じて光行に所領を与えたものである。 執事頼章は播磨国守護赤松則祐に命じて沙汰させ小串光行に所領を渡せたが、この様な形式の文書を施行狀という。守護赤松氏は通常守護代へ、守護代から守護使へと命じて 遵行させるが、これを遵行状といい、守護使が所領を宛がわれた本人に土地を渡す場合発給される文書を打渡状という。
大濱彦左衛門尉入道については不明であるが、児玉党に大濱氏があるので参考に上げておく。児玉党大濱氏は秩父郡大濱郷(皆野町に小名が残る)出身の武士である。