児玉黨一族の動向

(児玉町史より)

1】 解説   2】 古文書 Ⅰ

解  説
この章では時代を
鎌倉時代(一一八五~一三三三年)、
南北朝・室町時代(一三三四~一五二三年)
戦国時代(一五二四~一五九〇年)
の三つに分け、文書史料を年代順に収録した。

  文書にはそれぞれ編年順に通し番号を付し収録した。
収録した文書は主に児玉こだま郡を中心として、那珂なか郡・賀美かみ郡・榛沢ははんざわ郡・秩父ちちぶ郡及び上野こうずけ国 の一部にわたる地域に関連のあるものを選んでいる。取り上げた文書史料の特徴は、該当地域に発生した武蔵武士(武蔵七党)の児玉党・たん党・猪俣いのまた党武士と、中沢氏関連のもの、 児玉地域に直接関係するもの、戦国時代の鉢形北条氏はちがたほうじょうしに関する 史料を取り上げている。この中で児玉党は武蔵七党の一つで児玉郡を中心に秩父郡・比企郡・入間郡西部(入西郡にゅうさいぐん)と上野国に分布し、児玉郡内に分布する 一族の児玉・しょう蛭河ひるがわ阿佐美あさみ・本庄・四方田しほうでん・塩谷(鹽屋)・真下ましも・富田・今井氏関係の史料がその中心となる。
   今回収録した史料の全体を眺めると、譲状ゆずりじょう売券ばいけん>安堵状あんどじょう等の土地地関係のもの、 軍忠状ぐんちゅうじょう軍勢催促状ぐんさいそくじょう・感状といった軍役関係文書が中心とたっており、残された史料の時代別の密度も 合戦の集中した時期に発給されたものが多い。そのためこれら史料から伺える武蔵武士像は合戦に参加し勲功を重ね新恩地を獲得し、その所領の拡大や維持のために 周辺地域の領主層と紛争し、所領の経営及び一族に相伝させる苦労が見受けられる。これらは武蔵武士の一面を示しているが、特に本貫地(武蔵武士の本拠地)における活動の様子 や幕府や朝廷との結び付きを示すもの、さらに経済面・文化面・宗教上の様子等を知りえる史料に乏しい。これらについては第三章に取り上げた記録史料と併せて利用されたい。 また今回のように限定された地域と限定された武士の史料を取り上げる場合には、現在に伝えられた史料に限りがあるため、その全貌をうかがい知るためには問題が多い。 武蔵武士の多くが西遷せいせん北遷ほくせん (東国御家人が鎌倉幕府によって新たに与えられた西日本や北日本の所領に移住すること) し、その地で活躍するため、武蔵国とのつながりは時代と共に失われて行ってしまう。しかし南北朝内乱期に至るも、本貫地の維持等に苦慮している様子が伺える。今回収録した史料の多くが 移住後のものが多く含まれるが、武蔵武士の動静と武蔵国と鎌倉や京都、西国等のつながりを考えたものとして取り上げている。
    以下、取り上げた史料の概要について所属する武士団別に見てみう。
児玉党関係史料について
児王氏は史料一四〇に見られるように、児玉郡池屋を本拠としていたらしく、この池屋は現在は不明となってしまったが、児玉町金屋かなや地内と思われる。 『新編武蔵風土記稿』しんぺんむさしふうどきこうには金屋村の小字に池ノ谷いけのやがあり、金屋から児玉付近が児玉氏の 本貫地と推定される。児王氏は鎌倉時代初期の史料が残されておらず、その動静が不明であるが、承久三年(一二二一年)に起きた承久の乱で鎌倉幕府方として参戦し、児玉刑部四郎が宇治川の 合戦で活躍したことが『吾妻鏡』に記載されている おそらくはこの合戦の勲功で安芸国竹仁村(広島県福富町)を獲得したものと思われる。史料二Iでは元寇(蒙古襲来)により幕府が西国・九州に所領を持つ武蔵武士に対して、 各自の所領に子息たちを派遣し警固させようとしたもので、児王氏にも安芸国の所領に子息を派遣するよう命じたものである。児王氏はこれ以後、安芸国竹仁村に移住するようになり、史料六二では瀬戸内 海の海賊取り締まりを命じられるなどこの地で活躍し、室町時代の後半ころには毛利氏に従うようになり、毛利氏の発展にしたがって児王氏も発展し、毛利氏の重臣となっている。
    庄氏は系譜的には児玉党の嫡流に位置し、蛭河・阿佐美・本庄・薦田・今井・富田・小河原・牧西・四方田・若泉氏等の多くの一族を分出している。 庄氏の本貫地は不明で、庄氏の庄は児玉庄という荘園の名から来ていると思われる。児玉庄の領域も不明であるが、庄一族の分布する地域が概ね児玉庄の領域に近いものと考えられる。 児玉町の北東部から本庄市にかけての地域で、児玉条里水田地帯にあり、庄氏は本庄市北堀・栗崎付近か、或いは児玉町八幡山・吉田林付近に本拠を置いていたものと思われる。 庄氏は『平家物語』によると源平合戦で大いに活躍し、一谷合戦では庄高家は平重衡を生け捕りにしている。(『源平盛衰記』や岡山県庄系図一武蔵七党系図では庄家長)この源平合戦の勲功で庄氏は備中国 (岡山県)草壁庄と小坂庄(史料二二等)を、美作国(岡山県)では広野庄(史料一五等)を獲得した。『吾妻鏡』では庄太郎家長・庄三郎忠家・庄四郎高家・庄五郎弘方等の名前が記載されている。
史料四五は備中国草壁庄に西遷した一族の内での所領争いに関するもので、庄敬願けいがんが死去したあと、その子の松王丸まつおうまると伯父の庄親資ちかすけが敬願の遺領を争ったものである。この史料では庄氏が摂津国(大阪府) 内にも所領を有していたことや、京都に屋地やちを持ち六波羅探題ろくはらたんだいに出仕していたらしいことが推定される。在京した庄氏は史料一二七・二一八等でも伺える。 庄氏は備中国を中心に活躍し、この他、大和国やまとのくに1(奈良県)内の紛争に幕府の使者として派遣されたり(史料三三)、讃岐国(香川県)(史料一〇〇)・伊勢国内(史料二〇三・二I○)等で活動していたことが知られる。 庄氏は備中国守護細川氏の被官となり、守護代として活躍する。
    蛭河氏は庄氏の分かれで、庄四郎高家の一族が児玉郡蛭河郷(児玉町蛭川)に住してここを本貫地とした。蛭川地内の字東廓あざひがしぐるわに館跡がある。蛭河氏関係の史料は極めて乏しく、 史料二八と八四ぐらいしか知られない。二八は但馬たじま国(兵庫県)相博保そうはくほに所領を得ていたことを示している。 また八四は蛭河彦太郎入道が中前代なかせんだいの乱に際して北条時行ときゆき(北条高時たかときの子)に属して捕らえられたことが見えている。
    阿佐美あさみも庄氏の一族で、庄五郎弘方の一族が児玉郡阿佐美郷(児玉町入浅見いりあざみ下浅見しもあざみ)に住して在名を名乗っている。阿佐美氏 に関する史料も乏しいが、中世を通じて関東で活躍した一族が知られる。『吾妻鏡』では阿佐美左近将監さこんのしょうげんが鎌倉幕府に属して活躍したことが知られ、史料二一三・二I四では阿佐美弥四郎左衛門入道が 鎌倉府に属し関東で活躍したことが知られる。また史料三二二では浅見(阿佐美)氏が近江国(滋賀県)内に所領を得ていたことがわかる。
    薦田氏こもだは阿佐美氏の分派と思われるが詳細は不明である。児玉郡薦田郷(美里町小茂田)を本拠とする武士で、史料八三では薦田氏が肥前ひぜん国 (佐賀県・長崎県)神埼かんざき郡内に所領を有していたことが知られる程度である。
    本庄ほんじょうも庄氏の一族で庄太郎家長の第二子家次いえつぐ・第四子時家ときいえが本庄姓を称している。本庄氏は北堀・栗崎郷(本庄郷?・) に館を構え、関東を中心に活躍した。史料五七は本庄国房くにふさ由利頼久ゆりよりひさと本庄郷をめぐって争い敗れている。また国房の曽祖父時宗が筑前ちくぜん国(福岡県)小中庄を獲得していたことがわかる。 史料二六六は本庄左衛門入道が安保氏の所領を横領していたことを訴えられたものだが、本庄氏が上杉禅秀ぜんしゅうの乱に加担していたことを示している。またこの頃には本庄氏は東西に分かれていたようで、 史料二七九は西本庄氏と見える。ほかにも戦国期本庄城(本庄市本庄)主として活躍した本庄氏に関するものがある。本庄氏は後北条ごほうじょう氏(小田原北条氏)に仕え豊臣秀吉の「小田原征伐」の際に本庄城が落城するまでこの地で活躍していた。
    四方田しほんでんも庄氏の一族で、庄太郎家長の弟たちが本庄市四方田に住して四方田を称している。四方田氏の分出は比較的早期に行われ、源平合戦の時には庄氏と共に四方田弘長ひろなが や同弘綱ひろつなが参加している。『吾妻鏡』では四方田弘綱が伊勢国(三重県)に所領を得ていたことが載せられている。史料二六では四方田時綱ときつなが加賀国能美のみ郡野田郷野田村(石川県小松市) に所領を得ていたことを示し、さらに四方田氏が有道ありみち氏を称していたことがわかる。史料一三一は四方田七郎兵衛入道が山城やましろ国(京都府)内で活躍し、史料九四では四方 田太郎左衛門尉父子 が足利尊氏に仕えており活躍していた。また史料四〇四では戦国期まで四方田氏が関東にあって後北条氏に仕えてこの地で活動していたことがわかる。
    塩谷氏は児玉庄大夫家弘の弟家遠が、児玉郡塩谷郷(児玉町塩谷)に住して塩谷を名乗った。現在の真鏡寺寺域が塩谷氏の館跡と考えられている。史料一は源頼朝が塩谷高光たかみつ の遺領の伊勢国内の所領が加藤光員みつかずに横領されていることに関するもので、史料六四・六五は塩谷定仏じょうぶつ(実名不詳)が六波羅探題の奉行人 として美濃国(岐阜県)に関与したものである。史料一九・二〇は紀伊きい国(和歌山県)阿氐河あてがわ庄の事件に関連したもので塩屋(谷)新三郎入道の名が見える。史料二〇七は安芸国能美のうみ 地頭に塩谷孫太郎入道があったことが見え、児玉文書(史料二一)に見える塩谷左衛門入道と近い関係にあるものと思われる。塩谷氏については、児玉党塩谷氏の外に丹党塩屋氏や下野国塩屋郡出身の源姓塩屋氏(後に藤原姓宇都宮氏と養子関係を結ぶ藤原姓塩屋氏)の存在があり、 今回取り上げた塩谷氏関連の史料ではどちらに属するのか不明のものが多いが、後目の検討のため上げておいた。
    真下ましも氏は武蔵七党系図ではかなり早い時期に分出した一族であるが、系譜的にはやや問題がある一族である。真下五郎大夫基行もとゆきが 児玉郡真下郷(児玉町上真下・下真下)に住して、在名を名乗ったことに始まる。現在の児玉町上真下や同下真下地内に複数の館跡が知られているが、これらに住していたものと思われる。真下地域は南部から西部にかけて条里水田が広がり、 周辺には水田に用水を供給する九郷用水の分派堰が複数設けられている等重要な位置にある。真下氏は『平家物語』には真下重直しげなおが源頼朝挙兵時に平家方にあって、後に北陸にあって木曽義仲と戦い討死にしている。 鎌倉時代は真下氏も御家人として『吾妻鏡』に真下太郎等が名を見せているが、その動静は不明で、僅かに足利氏の被官となった者がいた(真下広経ひろつね)ことが知られる程度である。 建武けんむの新政後、真下氏は足利氏に従い室町幕府の奉公衆や奉行人として名を見せている。史料一五一は真下中務丞(広仲ヵ)の所領があわ房国(千葉県)内にあったことがわかり、史料一八五では 真下心蓮しんれんが室町幕府の奉行人として活躍していたことを示している。史料一三四では真下重氏しげうじが足利尊氏に従い戦功をあげ所領を宛てがわれている。 史料五三七では戦国時代に下るが、真下郷周辺地域で真下氏・下真下氏が活躍していたことが知られる。
    この他に富田とみた今井いまいがあるが、富田氏は児玉郡富田郷(本庄市東富田・西富田)を、今井氏は児玉郡今井郷(本庄市今井)をそれぞれ本拠とし、 富田氏は比較的早期に分派した一族で、今井氏は庄氏流蛭河氏の分派である。今井郷は蛭河郷と隣接している。この両氏については今回数点の史料を取り上げたが、両姓とも他氏が多くあり確実に児玉党に属すると確認できる史料はない。そのため参考として取り上げている。
またこの他にも児玉郡内出身の児玉党武士には 河内氏こうち(庄氏流、児玉町河内)や牧西氏もくさい(庄氏流四方田氏一族、本庄市牧西)等がいるが史料は残されていない。
児玉党に属する武士では以上の外に、秩父郡内に分布する 大淵おおぶち大浜おおはま金沢かなざわ(秩父郡皆野町)、吉田よしだ(同郡吉田町)、 鳥方とりかた(不明)氏等がおり、史料二九では大淵氏が長門国(山口県)内に所領を有していたことが知られる。また史料一六九でも大浜氏の様子がある程度わかる。これ以外の一族については史料が殆ど残されていない。
 この他上野国こうづけのくに内にも、小幡おばた奥平おくだいら倉賀野くらがの白倉しろくら島名しまな新屋しんや大類おおるい片山かたやま矢島やじまがいるが、史料一八四で小幡氏が上野国島名郷に関与していることや、史料一六二で安芸国に所領を持っていたらしいこと、また史料三八~四一で矢島氏が近江国周辺で活動していることが知られる程度である。戦国時代頃になると記録史料を含め て上野国内での小幡・白倉・倉賀野氏等の活躍が目立って来るが、 鎌倉~室町時代前半における動静は不明である。

   
児玉黨一族関係の古文書(児玉町史より)

  文永十年(一二七三)十二月十七日、幕府は庄四郎太郎入道に対し庄頼資の訴えにつき、美作国広野庄一件について対決することを命ず。

《一五》  関東御教書〔毛利家文書〕

庄除一頼資申美作國廣野庄事、重訴状遣之、子細見状、度々被仰下之處、于今不參、何様事哉、所詮、 明春三月十日以前可今參對、若猶令違期者、殊可有其沙汰之状、依仰執達如件、

文永十年十二月十七日                 武蔵守(北条義政)(花押)

相模守(北条時宗) (花押)

庄四郎太郎入道殿    (『鎌倉遺文』一一五〇三)
(解説〉この史料は美作国広野庄地頭の庄氏一族の争いに拘わるもので、逆にこの史料から庄氏がこの地に地頭職を有していたことが知られている。 文面に庄余一頼資と庄四郎太郎入道が名を見せているが系譜的には不明な点が多い。庄氏は源平合戦・奥州征伐・承久の乱等の度重なる勲功で広野庄の外に備中国草壁庄・小坂庄や 近江国内・大和国内・奥州等に所領・所職を獲得したと思われるがそれを裏付ける史料に乏しく、児玉党庄氏については研究すべき点が多く残されている。庄頼資の″資″を通字 として用いる一族が備中国草壁庄に西遷した庄氏に多いことから同じ流れであろうか。この系譜は『武蔵七党系図』では全く追えない流れであり、岡山県内に伝わる旧家の諸系図も 疑問な点が多く今後の検討が必要である。

  文永十一年(一二七四)十一月、大嘗会だいじょうえの開催にあたり児玉郡より年貢の徴発が行われる。

《一六》  大嘗会雑事配賦〔金沢文庫文書〕

  □□□勤仕大嘗會だいじょうえ□□□雑事等事

枝松 布五反二丈八尺、白米一斗八升一合、中口三ゝ、裏飯三ゝ、房士三人、夫馬二疋、魚七ゝ、しゅ七束、ねぎ五太、うまや二間、菓子五合、木十束、以上
同久ごう仮名 布八尺、白米一升六合、酒一ゝ、次えん(むしろ) 一枚、以上
富光(郷) 布三丈六尺、白米六尺四合、酒ヵ二ゝ、しゅ一束`うまや一間ヽ油一合、木二束、以上
同保木(野)・村 布三丈六尺、白米六升八合、酒二ゝ、秼一束、□菓子一合、以上
富安新里 布二丈四尺 白米四升五合、酒一ゝ、〔魚ヵ〕□菓子口合、以上
同阿奈志村  布三丈六尺 白米六九合、油一、□木二束、菓子□合、以上 
近古 布一丈六尺、白米二升八合、酒一ゝ、木十束、
薦田 布一反四尺、次莚一枚、木二束、白米八升四合、酒二ゝ、魚一ゝ、秼一束、葱一太、直物三太、以上
右、雑事等任前符之旨、無爾怠可令勤仕之状如件、
    文永十一年十一月 日
                      (『神奈川県史』資料編I)

  〈解説〉
この史料は中世初期の児玉郡内の状況を知る上で極めて貴重なものである。文面に″枝松″の記載が見えるが、これについては既に峰岸純夫氏が「武蔵国児玉郡枝松名について」『埼玉民衆史研究』 第四号で解説されている。それによれば、文永十一年(一二七四)に即位した後宇多天皇が、その年の十一月の大嘗会開催にあたって、児玉郡内の金鎖神社関係の所領と思われる 枝松・枝松久恒・富光・富安・近古等の名に国術の徴発を行わせたものと推定されている。
  この枝松名については、暦応三年の安保光泰譲状(史料一二〇)にも記載があり、名内に宮内・塩谷・長茎郷を含む規模の大きな名であったことがわかり、 かついずれも児玉郡内に分布している。又、この外にも富光(郷ヵ)保木野村・富安新里・富安阿奈志村・薦田の記載があり、いずれも児玉郡内に分布している。このことは 『玉葉』安元元年の条(第三章参照)に見える″児玉庄″との関係が注目されよう。児玉庄については庄名が知られる程度で実態は全く不明で位置の比定も出来なかった。 これらの名が児玉庄に含まれる名か、それとも含まれないかによっては児玉庄の庄域が限定されよう。枝松名及び外の名が旧児玉郡の南西部に広く分布しており、 郡の北東部にその地名が見えないことなど注目にあたいしよう。


  文永十二年(一二七五)四月二十三日、幕府は庄頼資の訴える美作国広野庄地頭職の件につき、庄四郎太郎入道に対し重ねて参上すべきことを命ずる。

《一七》 関東御教書〔毛利家文書〕    

庄與一頼資代政景申廣野庄(美作国) 地頭職事、重訴狀遣之、爲有其沙汰 來六月廿日以前可令參上之狀、依仰執達如件、
   文永十二年四月廿三日           武藏守〈北条長時〉
(花押)

相模守(北条時宗)(花押)

庄四郎太郎入道殿           (『鎌倉遺文』一一八七二)
   (解説〉  史料一三・一五参照。   

建治元年(一二七五)五月、京六条西洞院の若宮八幡宮の造営注文が作成される。この中に武蔵武士の名が多く見られる。

《 一八》 京都六条八幡宮造営注文写
            〔田中穣氏収集文書   国立歴史民俗博物館所蔵〕

六條八幡宮造管注文
   文治二年四月被廣御敷地四丁被仰付諸大名等被遂御造營功畢、
            (中略)
 (一) 承元二年閏四月十五日戌晴御廻錄、
       {中略)
 (一) 造六條八幡新宮用途支配事   建治元年五月 日  

 
  鎌倉中
  相模守(北条時宗) 最明寺跡寄合 武藏前司入道跡幷 五百貫 武藏守(北条義政) 幷武藏入道跡 所相模陸奥入道跡 三百〔貫〕
  (中略)
矢野和泉前司跡矢野政景 七十貫 畠山上野泰国入道跡 廿五貫
  (中略)
中民部入道跡 六貫 足立八郎元晴 左衛門尉跡 廿貫
同九郎左衛門跡 十貫 刑部大輔入道跡 十五貫
狩野宗茂ヵ入道跡 十二貫 鹽屋兵衛入道(宇都宮朝業ヵ) 二十五貫
  (中略)
武藏國
河越次郎(重時) 廿貫 三郎重員ヵ 十貫
江戸入道跡 廿貫 戸石入道跡 八貫
押垂辨藤左衛門尉跡 十五貫 豊嶋右衛門尉跡 十五貫
同兵衛尉跡 五貫 大河戸四郎(行平) 十貫
廣澤左衛門尉跡 五貫 毛呂豊後(季光) 入道跡 五貫
岩淵山城前司跡 五貫 泉入道 四貫
(中略)
片山人々 六貫 若兒玉二郎跡 五貫
鹽屋民部太夫跡 十貫 浅羽小太夫 八貫
大串野五跡 六貫 長井斎藤五郎左衛門尉跡 五貫
阿佐美右衛門尉跡 七貫 庄太郎同次郎跡 八貫
蛭河刑部丞跡 七貫 越生人々 七貫
小代人々 十貫 秩父平太入道跡 六貫
秩父武者次郎跡 七貫 藤田右衛門尉跡 八貫
(中略)
金子十郎跡 十貫 同餘一跡 七貫
阿保刑部(實光)丞跡 廿貫 加治人々 廿貫
古部右近將監跡 七貫 中村新馬允跡 八貫
中村八郎(光時)ヵ馬允跡 五貫 青木左衛門入道跡 八貫
瀧瀬左衛門入道 五貫 勅使河原俊四郎跡 四貫
(中略)
高麗左衛門尉跡 三貫 志村人々 五貫
(中略)
中澤三郎跡 八貫 同後家跡 五貫
(中略)
須賀入道跡 七貫 眞下右衛門尉跡 四貫
土渕矢三入道跡 五貫 小田彌二郎跡 三貫
安房國
(中略)
      建治元年六月廿七日於關東將軍改所定同法眼下向之時書寫畢
(下略)
          《解説》
田中勘兵衛教忠氏収集文書中の一点で、国立歴史民俗博物館の紹 介により世に公開された(一九九一年新収蔵品展)。源為義にゆかりの深い京六条西洞院の若宮八幡を、文治二年(一一八六)、承元 二年(一二〇八)、建治元年(一二七五)の三次にわたって修造した時の御家人に対する用途賦課のための台帳である(永和二年〈一三七五>の写し)。
 特に建治の造営では、総計六六四〇余貫を、鎌倉方・在京・諸国(三三箇国)ごとに四六九人の御家人に配分した空前絶後の史料。 中でも武蔵国には八四人もの御家人が書き出されており、これは諸 国の中では最高の数である(二位は相模国三三人、三位は信濃国三 二人)。しかも「跡」の記載からもわかるように、この注文は、以 前に所領知行者を書き出した大田文類を台帳として割り宛て貫高を 算出しており、鎌倉中期頃における武蔵国の所領の知行者と規模を 客観的に確定できる。系図と記録類を中心とした従来の研究を一新 できるであろう。武蔵御家人と鎌倉方から、児玉党を中心に抜き書 きした。いわゆる武蔵七党系の武士団の中で、 児玉党と丹党(各九 人)の勢力は他を圧しており、北武蔵一帯が御家人の集中分布地域 であったことは明らかである(村山党六、横山党五、野与党四、西 党・猪俣党三、私市党二)。太田文に記載された所領の模様をみる と、児玉党には傑出した大領主はすくないが、塩谷氏・小代人々が 各一〇貫、庄・浅羽氏が八貫、阿佐美・蛭河氏・越生人々・片山人 々が七貫、真下氏が四貫と勢力の微妙な差が浮き彫りになる。因に 丹党阿保(安保)氏と加治人々は二貫、勅使河原氏が四貫、猪俣 党の藤田・岡部氏が各八貫、秀郷流若児王氏が五貫となっている。                            (海津)