児玉郡に居住した児玉党一族
(本庄市史 通史編 Ⅰ より転記 p628)
(1)維行 (2)弘行 (3)家行 (4)家広 (5)弘高
(6)阿久原牧の一帯 (7)見馴川水系の条里制水田 (8)本宗家の本拠地の地域
(9)金鑚神社の地域 (10)入西郡における所領分割 (11)肥後古記集覧本庄市小代行平置文
本庄氏系図
家長
維行 弘行 家行 家弘 弘高 家長 依家庄小太郎 家次本庄三郎右衛門 家次本庄三郎右衛門 時次本庄太郎 有次 資房
経行 資行 家遠 忠家 弘定 家次 助次
基行 親家 高家 弘長 定綱 重次
弘方 弘季 時家四朗左衛門尉 家房左衛門 泰房太郎左衛門 国房太郎
弘綱 時長
高綱

(上記系図において、赤の家長は検討の結果弘高の兄になるのではないか。赤の家次は依家が一の谷の合戦で討ち死にしたため依家の後を継いだことになる。)
伝えられている諸系図からは、児玉党の起源について明らかにすることができい。 系図以外の史料に於いても、維行や惟行の祖先について書かれたものは全くみることができない現状である。たびたび述べているように、所系図で 一致しているのは維行きから後の人物たちである。勿論、系図が一致しているからといって、その人物が実在していたとは限らない。そこで、 別の角度から、この点について検討を試してみよう。児玉党一族の名字(苗字)を見ると、その大部分が、児玉郡や入西郡(入間郡)の地域、 それに上野国甘楽郡や多胡郡、群馬郡の南部にまたがった地域にある地名と同じ名称であることが知られている。 そこで地名と系図を付き合わせて地図にしてみると、名字の地が系図の流系と同じ地域に分布しており、両者の関係による所領の譲り渡しを意味し ていることがうかがえてくる。それぞれの名字は、所領の所在地の名であり、親から子へ、子から孫へと譲り渡された土地の名ということである。 この譲り渡された過程を、逆に時代をさかのぼってゆくと、最初に譲渡を始めた人が推測できることとなる。 このようにして、所領を系図に付き合わせて検討してみると、最初に譲渡を始めた人物は維行きということになり、系図と同じようになる。つまり、 維行以降の人物が実在していた可能性が大であるということが言える。次に平安時代における児玉党がどのように所領の分割譲渡を行ってきたかを 推察してみることにする。
維行の代における所領は子孫が名乗った名字の地を総合した地域と考えられる。これを復元してみると、武蔵国では児玉郡と入西郡があり、 上野国には甘楽郡から多野郡・群馬郡にかけての地域一帯と推測される。この所領が、どのようにして維行のものとなったのかという点については明 らかでなく、今後の研究に期待するものである。

(イ) 児玉郡における所領分割

児玉郡を児玉党の本拠地として選んだ理由としては次のことが考えられる。山岳部においては 古来からの阿久原あぐはらまきがあり、豊富な水量を有する河川があること、 平野部においては、 五二〇頁の「条里制」でふれたように、赤根川あかねかわ金鑚川かなさなかわ 水系の条里制水田や身馴川みなれかわ水系の条里制水田など二つの広大な水田を有していることからであろう。

(1) 維 行

維行はこれらの所領のうち、嫡男の弘行に児玉郡と入西郡を譲り、 経行・(貞行・惟親)には上野国こうずけのくにの所領を譲つたものと推測される。 児玉郡と入西郡の所領については、後にふれる維行の子孫の名字の地によっても確かめられる。しかし、上野国の所領については、経行と秩父平氏との関係からも考えられでもないが、 どちらにしても推測の域を出ることができない。なお、弘行・経行とも奥州後三年の役に参戦したと伝えられ、入西郡などは、このとき、源義家などにより所領として与えられたとも考えられる。
以上 本庄市史 通史編Ⅰ 下記 本庄市史 通史編Ⅰ P729

維行は、児玉党の党祖である。有貫主と称せられたことも、有(道)氏をたばねる人・統率者という意味からであろう。維行は、系図によって、尹行・伊行・惟行の字を当てているが、 「これゆき」と訓読する。系図によっては遠峯とあるが、どのように訓読するのか不明である。これを実明とすると、当時の一般的な名とはやや異例な使われ方である。また、「遠」や「峯」の通り名が、 子の弘行・経行に使われなく、あるいは「遠峯維行」と仮名として使われたとも考えられる。そうした場合に「遠峯」をなんと読むかという点になると明らかでない。維行の子は「児玉ノ有大夫弘行」と呼んでいる。 この児玉は「児玉郡」の「児玉」である。そこで「遠峯」を「こだま」と訓読できればよいのであが、不明である。維行は、系図によって年代を求めると、十一世紀中頃の人である。平忠常が反乱を起こし、 甲斐源頼信が討伐した頃である。
維行は、阿久原牧の別当(牧の管理者)であったといわれる。牧は、神流川右岸の断崖上にあり、現在は、児玉郡神泉村上阿久原と同村下阿久原に跨っている。夏の牧場と冬の牧場があったといわれ、 夏の牧場が一般に阿久原といわれる地域である。
夏の牧場の最北端にあたる下阿久原地内秩父瀬に、維行を祀る有氏神社がある。地元では「アルジ神社」と呼んでいる。有氏については、 有道氏の省略とする説や、有道の転化からとする説がある。しかし、児玉党系図などには、維行は有貫主、弘行・経行は有大夫と書かれており、はじめは「有氏」で、後に「有道し」となったとも考えられる。 そして「有道」は「和名類聚抄」の丹後加佐郡有道の訓に「安里知アリシ」とあるように、最初から「アルジ」または「アリシ」と呼ばれていたのであろう。「道」を「チ」と訓じているのは、 「津道知都」の例にももみられる。牧の中心部にあたる上阿久原地内門野と下阿久原地内中居に跨って、政所と呼ばれる場所がある。北側と北西部に土塁が残っており、 維行が居住したところと言い伝えられている。いうまでもなく、当時は、政務や庶務をつかさどる所、役所を政所と言う。牧の別当が居住し、牧全体の業務をつかさどっていたことから、政所とよばれていたのであろう。
この付近の字境界を見ると、「門野」と「中居」が複雑に入り込んでいる。また、政所から東へ約五〇〇㍍離れた所、下阿久原地内中居の中に上阿久原の飛地がある。地元の人は「ほうれんじ」と呼んでいることから、 寺があった地域であろう。このようなことや地形などから考えてみると、牧が廃止された後、政所やほうれん寺の地域が村の共有地として残り、応永一一年(1404)十月一二日に村が分れる時、個々の共有地を分割したと考えられる。 このような例は本庄市にもみられ、旧小島村の清万寺は、杉山家と下野堂村に分村する過程で飛地となっている。政所の西側には「西堀」と呼ばれる堀がある。現在、小倉沢と呼ばれ、以前の堀を改修して道路が平行してある。 此の堀は南方の知徳山東方院般若寺の西側から続いている。般若寺附近の地籍図をみると、堀と寺との間に林が細長く続き、現在は、その部分が道路で一段高くなっているので、あるいは当時の土手の一部とも考えられる。 小倉沢(西堀)の内側に土塁があったと考えられる。北西隅にも土塁の幅は約七㍍、高さは四〇センチメートル程で、南方に二〇㍍程残っている。北側も土塁が残っている。幅約八㍍、高さは内側が約三十センチメートル、 外側は一五〇センチメートルぐらいである。以前には、此の土塁の外側に西堀から続く堀があった。南は、般若寺の南方にまで延びていると考えられるが、不明である。東は、上阿久原字門野の最東端を南北に通っている道路までと推測される。
門野の下阿久原字中居へ短冊状に入り込んでいる部分である。維行が、阿久原の別当であったということは、系図には註記されていない。ただ、維行の子 弘行・経行の二人が註記に別当とあることからの推測である。 弘行が、奥州後三年の役の時、源義家の副将軍として活躍した話には誇張があるるにしても、それに近い武将であったことは充分にうかがえることである。そのことは、すでに、 維行の代において、武蔵・上野国にかけて随一の豪族であったということになる。その背後に阿久原の牧の経営があったと考えても差し支えないであろう。系図から見た維行の所領は、 児玉郡・入西郡と上野国の群馬郡・多野郡・甘楽郡に跨がる地域と推測される。その内、児玉郡・入西郡を嫡男弘行に譲り、上野国の所領を経行に譲ったことになる。

(2) 弘 行

弘行の所領については「小代行平置文」(資料編)に
「余の国々ノ分マテ二ハ注ス及ハス武蔵一ケ国ノ分ニハ 児玉 入西両郡并二久下 村岡 中條 忍 津戸 野村 広田堀須 小見野 三尾乃野弘行ノ所領タリキ此外ニモ猶有リキ」とある。児玉郡と入西郡が弘行の所領 であったという記述がある。こののち弘行の子孫が分割相続する過程を見てもこのことは確かめられる。ただ、久下・村岡付近は秩父平氏の祖先である平良文たいらのよしぶみの根拠地 であったといわれている地域であり、この点についての関係は不明である。弘行は、この所領のうち、入西郡を三郎相行すけゆき(資行すけゆき) に譲り、児玉郡の真下ましもの地域を五郎基行ごろうもとゆきに譲った。真下は現在の児玉町上真下、 下真下地内と神川村八日市地内九郷用水堀北部にかけての地域と推定される。この地域をのぞいた児玉郡は嫡流の家行が相続した。
以上 本庄市史 通史編Ⅰ630 下記 本庄市史 通史編Ⅰ736
弘行の嫡男である。系図の註記には、有大夫、別当とある。別当は牧の管理者である。永保三年>(一〇八三)九月に起こった奥州後三年の役に、 源八幡太郎義家の副将軍として、清原家衡・武衡軍と戦ったと伝えられる。このことは、弘行の曾孫にあたる小代八郎行平の置き文と伝えられる文章の中に書かれている。 副将軍として朝敵を追討したことが絵図にかかれていた。奥州征伐の後、有大夫弘行と弟の有三別当経行は、児玉郡を屋敷として居住するよに命ぜられた。およそ、児玉党の先祖代々が君のために忠勤を励んできたことは、 諸家の記録にもあり世に隠れもない。また、平賀朝雅が京都守護として京にいたとき、蓮華王院の宝蔵にある絵を拝見してことがあった。奥州後三年の合戦の様子が書かれ、絵の中には、坂東八カ国の人々がみな大庭に敷皮を敷いて列座している。 大将軍八幡太郎義家が屋形に座り、その対の座に児玉有大夫弘行朝臣が副将軍として赤皮の烏帽子かけをして座っている絵で、同席した平児玉の倉賀野八郎公行も拝見したという。
其の後、関東の人々の中で、はかりごとをし、有大夫弘行と書かれた銘を消して、別の人の名に書き替えてしまったという噂があった。弘行が副将軍でなければ、八幡太郎義家の対座に書かれることはないと考えられる。 どうして書き替えられたのだろうか。したがって、児玉一門の者で蓮華王院のこの絵を拝見したときに、噂のように名前が書き替えられていたならば、申し上げて元のように有大夫弘行という銘に書き直してもらうべきである。
この「奥州後三年が線の絵巻」は、たしかに平安末期に後白河上皇の命によって作成され、蓮華王院の宝蔵に保存されていと別の記録もあるという。蓮華王院は三十三間堂のことで、 平賀朝雅が京都守護にあったのは、建仁三年(一二〇二)十月三日から元久二年(一二〇五)閏七月二五日の間である。(石井進『日本の歴史』 小学館)
今日、この「後三年合戦絵巻」はなく、確かめることが出来ないが、このような銘を書き替えることは、他にもある。蒙古襲来合戦の様子を描いた「竹崎季長絵詞」の画面に奮戦する武士たちの銘の中には、名前をすり消し、絵巻の旧蔵者 の祖先の名が書き込まれているという。また小代行平置文を偽物とする説もあるが、内容を検討してみると、他の事柄や地名などから、かなりの信憑性がある。置文には、更に弘行の所領について書かれた部分がある。
行平の曽祖父、児玉有太夫弘行の所領の事。他の国々の事は書かないが、武蔵一か国の分は、児玉・入西両郡、ならびに久下・村岡・中條・忍・津戸・野村・広田・屈須・小見野・三尾乃野などが弘行の所領であり、この他にもあった。
そのように、弘行は分限も多く、武芸の立つ人であったから、児玉から入西へ来る時は、隋兵を一〇〇騎従えていた。また、児玉郡と入西郡は六十里であるが、弘行の二男入西三相行(行平の祖父)は、父の弘行に会うために、 三日に一度は必ず入西から児玉に参上した。その時は、隋兵五十騎従えていた。(後略)
ここで、置き文にかかれているように、弘行が後三年の役で八幡太郎義家の副将軍として活躍したのかという問題が生じる。後三年の役について書いた『奥州後三年記 上・中・下』、あるいは、その前の前九年の役が書いてある 『陸奥話記』、その他の管見した記録の中には、弘行が義家の副将軍であったということは見られない。いや、弘行の名前すらみあたらない。そこで、弘行の所領について考えてみたい。置文にある武蔵国内の所領は、児玉郡・入西郡、 それに久下・村岡・忍など現在の熊谷市と行田市に跨る地域であるとかかれているが、実際にはどうであったのだろうか。児玉郡は弘行の嫡流が相続し、相続したものは、その所領の一部を庶流に分割譲与し、残りの全部を嫡流が相続 している。庶流においても同様にで、相続した所領を分割して、分家する庶流に譲与している。このことは、児玉党の系図でうかがえる。二男相行についても同様で、入西郡に分布している子孫と系図を照らし合せると明らかである。
このようにして、児玉党の子孫の分布を合計して、さかのぼってゆくと、弘行の所領は、置文のとおり児玉郡と入西郡を領有していたことが確かめられる。ただ、この当時の児玉郡は、「中世の児玉郡の郡域」でも記したように、 現在の児玉郡より狭い地域であるが、九郷用水関連河川や見馴れ川沿岸にある広大な条里制水田地帯を有する地域であった。入西郡は現入間郡のうちで、当時は入西郡と入東郡に分かれていた。このような広い豊かな水田地帯を所領 としていたということは、すでに豪族的在地領主として発展しいたことになる。所領の規模から見ても、義家の副将軍の話しは別としても、それに近い地位が与えられても不思議でもあるまい。また、置き文に「武州児玉郡ヲ屋敷トシテ 居住セ令メ給フ」とある。児玉郡を屋敷(所領の意もあるとして与えられたのか、児玉郡を所領として安堵されたのか二つ意に下位せられるが、どちらにしても、此れだけ豊かな水田地帯を領有することは、かなり高い地位にあったと推測できる。
児玉党の祖先は児玉郡を開発したが、他の武士団と異なる有利な点は、谷地の開発を後回しにして、直接、平地の水田地帯を領有できたこと。また、荒れた田であっても、少し手を加える程度で水田になったことである。
弘行は、児玉郡と入西郡の所領の内、入西郡を三郎資行(相行)に譲り、児玉郡の真下を五太夫基行に譲り渡した。なお、児玉町蛭川地内の駒形神社の由緒に 当社は延喜年中有道宿弥氏道、牧宰惟継・旧字富田(現在鳥居田)の地に勧請する所にして、 延久年間武蔵守維行の男弘行、当国御牧の別当の時、牛馬守護の神たるを以って良馬蕃殖を本社に祈り、社殿を修理し神田若干を寄附すとあるが、明治二十一年ごろ書かれた『蛭川地誌』にも弘行についての記述がある。
駒形権現伝記ナシ、倭名抄ニ武蔵国貢馬五十疋ト載セ、又右ニ関スル職務ヲ上野ハ牧監ト云武蔵ハ別当ト称スト児玉黨ノ□祖遠峯有 別当弘行トアレハ  右等ノ尊奉セシ社ナルモシルヘカラス□モ駒形権現ノ禁スル処ト云フとある。
下記 本庄市史 通史編ⅠP630~631

(3) 家行

家 行は十一世紀末期から十二世紀前半頃の人と推測される。家行は、三人の子、家遠・親家ちかいえ、 それに嫡男の家弘に所領を分割譲渡した。家遠が相続した土地は現在の児玉町塩谷地内を中心とした田端・飯倉いいくら金屋かなや・児玉(八幡山はちまんやま・児玉町)地内と神川村八日市地内の九郷用水堀の南部にかけての地域と考えられる。それは『新編武蔵風土記稿(塩谷村』に「豆洲龍江寺に蔵する 応永二十七年足利持氏寄進状に、梅原村塩谷孫太郎入道跡とあり、梅原は、今隣村金屋村の小名に残り、殊に村名西光院に塩谷某の古墳あれば、かたがた云々」とあること、家遠の子経光が児玉氏を名乗ったことなどから推測できる。 家遠は塩谷に居住し、塩谷氏を名乗った。家遠はその庶子経光に児玉の地を譲った。旧児玉町の地域と神川村八日市地内の九郷用水堀南部の地域と推測される。 経光は児玉氏を名乗った。家遠はその庶子経光に児玉の地を譲った。旧児玉町の地域と神奈川村八日市内の九郷用水掘り南部の地域と推測される。経光は児玉氏を名乗った。この場合の 『児玉氏』は、弘行・経行の頃の児玉郡全体をあらわす広い意味の『児玉』でなく、今日でいう村単位の狭い意味の『児玉』からつけられたものであろう。親家は家行から富田を譲り受けた。現本庄市の東冨田から西冨田地内である。 富田氏を名乗り、その居館は西富田地内本郷の『堀ノ内』と推定される。これらの地域をのぞいた所領は嫡流の家広に相続させた。平五大夫に塩谷を譲った。以上下記家行は、本宗を継ぎ、児玉郡のうち真下をのぞいた地域を領有した。 諸系図には、武蔵権守・河内権守とある。そして、子の三郎家親に富田を、平五郎太夫に塩谷を譲った。本宗は家弘が継いだ。

(4) 家弘

家弘は庶流の三郎忠家に身馴川(小山川)の上流部流域にある河内現児玉町河内を譲ったようである。 身馴川は、平野部において、浅見山南東部の条里制水田地帯を灌漑する重要な河川である。四郎高家には蛭川と今井を譲った。蛭川は現児玉町蛭川地内で、今井は市内の今井地区である。 高家は蛭川に居住して蛭川氏と称し、そしてその子三郎行家に今井を譲った。蛭川は嫡男の定重が継いだ。 五郎弘方には、浅見を譲った。現在の児玉町浅見・下浅見地区と推測される。弘方は浅見氏を名乗った。本宗家を継いだのは嫡男の弘高である。
    以上P631          下記P736
家弘は児玉庄大夫と系図の註記にある。本宗の名字「児玉」から「庄」になったのは、この代からと考えられ、家弘の子は「庄」を名乗っている。系図によると、 三郎忠家に児玉郡の見馴れ川(小山川)上流部の河内付近を譲っている。見馴れ川下流部の水田地帯の水源確保のためと考えられる。四郎高家には 蛭川から今井にかけて譲り、五郎弘方には浅見から下児玉にかけてを譲った。

(5)弘高

弘 高は、二郎弘定に久下塚を、四郎弘季に牧西を譲ったと推定される。 久下塚は北堀地内にある久下塚集落を中心とした地域であろう。牧西も市内で、牧西地区内には集落の中央部に「堀ノ内」と呼ばれる館跡がある。三郎弘長、七郎高綱は共に四方田姓を名乗っているが、 どちらが四方田の地を譲られたのだろうか。この場合の四方田は市内の四方田地内と児玉町高関地内にかけての地域と考えられる。高関地内にある金鑚神社は一説には四方田金鑚神社の末社といわれ、また、 高関地内字東は牧西村の飛地であったことなどから推測できる。弘家の嫡男・家長の所領であるが、これまで分割譲渡した所領の合計を児玉郡全域より差し引いた地域は、次の四ヶ所になる。 そして、この地域に近いものが、平安末期における本宗家の所領と考えて差しつかえないと思われる。
下記 737
弘高は家弘の嫡男である。弘高の代における本宗家の所領は、九郷用水堀下流部の現本庄市四方田・北堀・栗崎・西五十子・東五十子・本庄地内と身馴川流域の条理水田地帯と推測される。時期的には、保元・平治の亂から源平合戦 の頃の人物であるが、軍記物語ゃ『吾妻鏡』などに記載がみられない。『保元物語』に記述されている庄太郎は、一般には家長としているが、弘高ではないかとおもわれるふしがわずかながらみられる。 それは、弘高の兄弟が庄三郎忠家・四郎高家・五郎弘方と「庄」を字(通称)としており、弘方が長男であるので「庄太郎」と称することも有り得ること、そして、この戦に家長が参加したとすると、かなり高齢になることからである。

下記 本庄市史 通史編Ⅰ P632~P634

本宗家の所領として、最後まで残った地域は、逆に見ると、本宗家にとって重要な地域であるという意味を持つ土地ということとなる。諸氏家に対して分割譲渡を行わなかったのも、 そのような理由であると推測される。

(一)阿久原牧の一帯   阿久原牧がある地域で、現神泉村上阿久原・下阿久原地区の地域である。馬は当時の騎馬戦術において欠かすこちができないもので、この飼育を行う牧は最も重要な地域であると推測できる。
(二)見馴川水系の条理制水田

児玉党の農業経営の場として、見馴川水系の条里制水田と金鑚・赤根川水系の条里制水田地帯の二ヶ所の水田地帯があげられる。本宗家は、当初から、見馴川水系の水田地帯を重要視し本宗家のものとして残し、 金鑚・赤根川水系の水田地帯は庶子家に分割譲渡することにしていたものとのと推察定される。多くの郎従をしたがえ、戦闘に参加するためには、それにかかる軍事資金はもとより、 それらの家族の生活を維持することができる資産が必要である。金鑚・赤根川水系の水田地帯のうち、家行の代で残った水田は明治時代頃の水田で見ても、町ぐらいである。児玉党の経営規模としては少ないように感じられ、 やはり、見馴れ川水系の水田地帯を主体として農業経営を行っていたとするのが妥当であろう。そのため、最後まで庶子家に譲渡しなかったものと推察される。

(三)本宗家の本拠地の地域

家長が相続した所領の内、市内の栗崎・北堀・西五十子・東五十子地内の本庄地区の台地上にかけての地域は児玉党本宗家の本拠地であったと推定される。栗崎・北堀地内には「掘ノ内」と呼ばれる館跡があり、さらに、 北堀地内東本庄にも館跡がある。ちょうど、この地に、見馴れ川水系の水田地帯と、金鑚・赤根川水系の水田地帯の合さる地点で、両者を管理運営する場所として最適な位置にある。この地域に本宗家が居住し始めたのが、 誰の代からであったか明らかでないが、所領の分割譲渡の過程から推察すると、かなり古い時期と考えられる。そして、家行以降も、本庄(荘)氏の本貫地であったことが伺える。それは、 後世本庄宮内少輔実忠が弘冶二年(一五五六)に、北堀地内東本庄の居館を本庄地区城跡(本庄三丁目)に移した事も、北堀・栗崎付近から本庄地区にかけての地域の所領であったということであろう。 また、浅見山丘陵も、児玉党の聖地として残っていたと考えられる。

(四)金鑚神社の地域 本庄市史 通史編 Ⅰ

式内社金鑚神社の鎮座する地域も譲渡の対象となっていない。この地域は、本宗家の所領というより、金鑚神社の神領であったと考えられる。なお、児玉郡に居住した児玉党の諸氏(維行の子孫たち)は、 金鑚神社を敬拝し、居住地に勧請した。平安時代末期における児玉郡の所領の分割譲渡過程は、以上のようになる。このように系図にみられる嫡子家と庶子家の分立過程が、平安時代末期の児玉黨諸氏の分布と一致している。 これは入西郡を譲られた入西三郎相行すけゆき>(資行)の子孫についてもみられる。児玉郡に所領を譲られた維行の子孫たちは、その土地の名を名字とした。そして、其地に館を構え、 館の周囲には堀と土塁をめぐらせた。今日の四方田・栗崎・北堀地内に「堀ノ内」と呼ばれ、堀や土塁の一部が残っている場所が、其館の跡である。このほか、西富田・牧西地内にも「堀ノ内」と呼ばれる場所がある。これも当時の館で、 堀や土塁があったが、埋められたり削られたりして、平地になってしまい面影は見られない。また、児玉郡に居住した維行の子孫たちは、金鑽神社を居住地に勧請したようである。『延喜式』にも記載されており、 古来から児玉郡の人々に敬拝されていた神社である。市内の今井・富田や、児玉町の真下・浅見など、児玉党支族の名字のつく旧村々にある金鑽神社がそれである。いかし、この中には、本庄地区の金讃神社のように、 元の鎮座の所より移されたり、後世新たに勧請されたもの、由緒の不明のものもある。館との関係を検討すると、児玉郡の秘められた歴史が浮かび上がってくる。金鑽神社は、児玉郡のうちでも九郷用水堀関連河川流域を中心に分布しているが、 見馴川(小山川)流域にも分布している。このようであるため、金鑽神社を用水の守神として崇めている。本庄宿、本庄領の総鎮守で創建は欽明天皇の頃と伝えられて居り、其後寛永十六年(1639)本庄城主信嶺の孫関宿の 城主小笠原忠貴が社殿を寄進した云ふ。鳥居前に樟の大木がある。形よく成長しているその偉容に圧倒されて、ただただ見上げるばかりである。今でも神域をはみ出しているのであるから、 この後ももぐんぐん成長して本庄の町をその枝の下に抱え込んで仕舞うかもしれない。

(ロ)入西郡における所領分割

入西郡にゅうさいぐん(入間郡の西部)を譲られた相行の所領は、児玉郡における分割譲渡過程から推察すると、越辺川流域の現入間郡 越生おごせ町付近から坂戸市・東松山市正代しょうだいにかけてと市野川流域南部の川島町町小見野おみの を含む地域と推定される。相行は、そのうち、二男遠広に正代の地域を譲った。遠広は小代氏を名乗り、重泰の代に肥後国の野原庄に下向している。三男有行には、現越生町付近を譲った。有行は生越氏を名乗り、さらに、 その子有平は、成瀬の地域を有光に、岡野地域を有基に譲った。そして、それぞれ、成瀬氏・黒岩氏・岡崎氏を名字とした。相行の嫡男行業は入西郡のうち遠広・有行に分割譲渡した残りの地域を相続した。 浅羽あさば(坂戸市)に居住し浅羽氏を名乗ったが、相行も浅羽に居住していたと推測される。行業は、その子盛行に小見野(川島町)の地域を譲り、行直に粟生田あおうだ (坂戸市>)の地域を譲った。

肥後古記集覧小代行平置文文写・同伊置文

『肥後古記集覧』に収録されている児玉党小代氏に関する文書から、本庄市史氏に関すると思われる二点を選んだ。同署は大石磨呂が文政四年(1821)から翌年五月にかけて 肥後国に関する軍記・系図・地誌などを書き写したもので、全35巻から成っている。現在、熊本県立図書館の蔵書となっている。
「小代八郎行平注置文」は、小代八郎行平から数えて四代目の伊重(宗妙」が、八郎行平の行状を子孫のために書きとめたものである。偽文書とする意見もあるが、石井進氏『日本歴史、中世武士団」(1974年・小学館)によると、 蓮華王院の奥州後三年の役の絵図にある信濃三原野の狩り、小代の村の御霊の条々は、史実と一致しているという。
そのほかにも、地名や人名などに史実と一致していところが多分にあり、児玉党に関する初期の史料少ない現状では、参考になるものと考えられる。
また、「小代八郎行平置文」のうしろに、 塩谷太郎高光にかんする御教書が収録されている。高光は塩谷平五太夫の嫡男で、一の谷合戦で先駆けの戦功があったが、奥州合戦で戦死している。

「自此奥段段皆校合畢」
小代八郎行平注置條々内 此外事等者別記録在之
一、

右大将ノ御料、伊豆ノ御山二御参詣ノ時、行平御共随兵ヲ勤メタルニ、御時石橋ヲ下セ給フトキ行平カ肩ヲ抑ヘサセ給ヒテ、御心安キ者ノニ思シ食ス由ノ御定ニ預カリキ、面目ヲ施コシタリキ、

一、

右大将ノ御料、伊豆ノ御山二御参詣ノ時、行平御共随兵ヲ勤メタルニ、御時石橋ヲ下セ給フトキ行平カ肩ヲ抑ヘサセ給ヒテ、御心安キ者ノニ思シ食ス由ノ御定ニ預カリキ、面目ヲ施コシタリキ、

一、

右大将ノ御料、信濃国三原ノ狩ヲ御覧ノ為メニ御下向(干時建久四年也)武蔵国大蔵ノ宿ニ付給ヒテ、小代八郎行平ハ参 リタルカト御尋ね有処ニ、梶原平三景時、御前ニ候ケルカ、行平ハ御堂(興仏寺是也)造立、明日供養ニテ候間、彼ノ営アルニ依リテ、遅参仕マツリテ候由ヲ申上ケタルニ、其ノ儀ナラハ近隣ノ者ノハ、皆ナ行平カ御堂供養ニ逢ヒテ、後チ参ル可キ由ヲ、 梶原ニ抑セ下タ被ルル上へ、梶原ノ三郎兵衛尉宗家ヲ御使ニテ、黒キ御馬ヲ給ハル、御使其日ノ装束ハ、薄布村濃ノ水干ナリ、烏帽子ヲ引キ立テゝ、御馬ヲ導師ニ引被タリキ、御定ノ旨ニ任セテ、御堂供養過キテ後チ、 行平并ニ御堂供養ニ逢タル人々、上野(こうずけ)国(東山道の一国、現在の群馬県にあたる。北は岩代・越後、西は信濃、南は武蔵、東は下野(しもつけ)(現在の栃木県、平安後期に藤原秀衡が土着し、子孫は小山氏を称した。 中世、小山氏とともに宇都宮、那須の両氏が勢力をふるった。野州。)山名ノ宿ニ馳セ参ル、御時鎌倉ニ入ラセ給ヒテ後チ、行平参リテ、御馬ヲ給ハリタル面目ノ子細ヲ申上クル処、免田十二町充(あて)テ給ハリテ、 弥(ますます)面目ヲ施コシタリ、且ハ彼免田事、十二町トテ充給ハリタレトモ、内検廣ク屋敷数ケ所有リ、仍(よって)テ供[ 」数輩有間、御願所トシテ長日ノ上ノ御祈祷ヲ致シ御巻数ヲ奉者也、

一、

比企判官謀叛ノ時、行平在鎌倉間、北條殿ヨリ田代藤二ヲ御使ニテ(ひょう)恩食(おんしょく)ス由ノ仰セヲ罷(ひ)蒙(もう)、依時ヲ替ヘス行平手勢皆ナ相具シテ、北條殿へ馳セ参リテ守護シ奉マツル処ニ、 比企判官名越ニテ討レ奉マツリヌト聞キ、彼一族等北條殿へ寄セ奉マツルカ、行平大勢ニテ馳セ参リテ守護シ奉マツルト聞テ引返滅畢(めっひつ)ヌ、然レハ北條殿ノ奉為メニ行平程ノ大功ノ人ハ有可ラ不ル欤(よ)、 爰(ここに)ニ田代藤二後日ニ行平二語リ申、比企判官ノ謀叛ノ企タテヲ北條殿御存知有リテ、我身其レヘノ御ニ立テ被レタル事ハ、二位殿ヨリ夜ニ入テ彫リ穴通りニ女房達ヲ御使ニテ明日小御所ヨリ御使トテ何カニ 召サ被給フトモ穴賢シコ御参り有ル可ラ不事也、其故ヘハ御所ノ召シトテ呼奉マツランニ定メテ参リ給 ハンヌラン、其時取り籠メテ討奉マツラント比企判官相儀シタル由ヲウケ給ハリ定メタル間、 其御心得ノ為メニ参リタル御使ナリト申すサルゝ通リヲ、北條殿聞セ給ヒテ、其旨ヲ御存知有ル処ニ、案ノ如明クル朝シタ小御所ノ召シトテ比企ノ判官北條殿へ使者ヲ奉マツリタルニ、兼テ御存知有ル事ナレハ、 相労ハラセ給フ由ノ故障有リテ、我カ身其レヘノ御使ニ罷向フニ、比企判官謀叛ノ企タテヲハ事ナラヌ体ニ取成シテ、御労ハリノ御訪シト号シテ乗替ヲハ相ヒ具セ不シテ、只身一騎、葛(かずら)ノ水干ニ徒(か)チ 走シリ許リニテ名越へ参セ披レシニ、小町ニテ我カ身比企ノ判官ニ行合テリキ、内儀ヲ存知シタル事ナレハアハレ組マハヤト、心ハ頻(しき)りニハヤリシカトモ、又思フ様ウ比企ノ判官究継ノ勢モ有ルマシキ者ナラハ 尤組(ゆうぐむ)ム可シ、而ルニ比企ノ判官名越ニテ討レ奉マツリヌト聞カハ、彼ノ一族等定メテ大勢ニテ寄セ奉マツランスランニ、我カ身是ニテ組マテ行平ニ告ケ申ササフンハ思慮モ無キ犬死ナル可、翻カヘス心有リテ打テ通リテ、 北條殿ノ仰ノ旨ヲ申就(つけ)テ時ヲ替ヘス、行平手勢皆ナ相ヒ具シテ北條殿二馳セ参リテ守護シ奉被処ニ、案ノ如ク比企ノ判官名越ニテ討レ奉マツリヌト聞テ彼ノ一族等北條殿へ寄奉マツルカ、 行平大勢ニテ馳セ参リテ守護シ奉マツルト聞テ引キ返リテ滅亡シタル事ヲ田代藤二小町ニテ、組マ不シテ打チ通リテ行平ニ相告ケタル所存臆特有ル者ノニテ有リケリト北條殿ノ御感二預カリテ面目ヲ施コシタル由ヲ田代藤二語リキ、

一、

行平カ曾祖父児玉ノ有大夫弘行ノ所領ノ事、余ノ国々ノ分マテニハ注スニ及ハス、武蔵一国ノ分ニハ児玉・大西両 郡并ニ久下・村岡・中條・忍・津戸・野村・廣田・堀須・小見野・三尾乃野、弘行ノ所領タリキ、此外ニモ猶ヲ有リキ、然レハ弘行ハ分限モ廣ク、武芸道立テ被ルゝニ依リテ、 児玉ヨリ入西へ越へ被ルゝ時ト謂(い)ヒ惣ヘテ行被(こうむる)時ハ、随兵百騎ヲ相ヒ具セ被レキ、又児玉ノ郡ト大西郡ト行程六十余里タルヲ、弘行ノ二男大西ノ三郎相行(行平ニハ祖父也>)父弘行ノ見参ニ入ランカ為メニ、 三日ニ一度ハ必ラス大西ヨリ児玉へ参被ケルニ、毎度ニ随兵五十騎ヲ相具セ被レキ、而ルニ分限次第ニ成り下リテ、行平カ分限狭少ナリト雖エトモ、父祖ノ余風ニ依リテ、鎌倉ノ大将ノ御料ノ御時ハ、御椀飯ノ頭役ヲ相勤メテ、 又自然ノ御大事モ出テ来ラハ、先組ノ吉例ニ任テ、定メテ一方ヲハ仰セ付ケ被ル可キ由ヲ心挿ハサム身タルニ、鎌倉右大将ノ御料御隠レノ後チ、不思議ノ讒奏(ざんそう)ニ依リテ、只小代許リヲ残コ被レテ、 所々ノ所領等皆ナ以テ召シ上被(こうむ)レヌ、子孫等ニ至リテ人ノ数スニモ入ラ不シテ重代ノ名誉失可キ事コソ浅猿(せんえん)ケレ、爰(ここ)ニ行平カ誤マリ無キ子細ヲハ聞コシ食シ被事ナレハ、召上ケ被ルゝ所領等、 縦ヒ行平カ世ニコソ返ヘシ給ハラ不ト雖フトモ、子孫等身ノ不肖ヲ顧ヘリミ不シテ、奉公ヲ致シ御大事ニ逢ヒ奉マツリテ、召シ上被レタル所領共ヲ返へシ給ハリ、重代奉公ヲ相継テ身立家ヲ興コス可者也、 一、小代ノ岡ノ屋敷ハ源氏ノ大将軍左馬頭殿(源頼朝)ノ御嫡子練倉ノ右大将ノ御料ノ御兄悪源太殿(源義平)伯父帯刀ノ 先生殿(源義賢)ヲ討チ奉マツリ給フ時、御屋形ヲ造ク被レテ其レニ御座ハシマシテ、仍テ悪源太ヲ御霊卜祀ヒ奉マツル、然レハ後々将来ニ至ルマデ小代ヲ知行セン 程ノ者ノ惣領主ト謂、庶子等ト謂ヒ怠タリ無信心致シテ崇敬シ奉マツル可者也、

一、

小代ノ岡ノ屋敷ハ源氏ノ大将軍左馬頭殿(源頼朝)ノ御嫡子練倉ノ右大将ノ御料ノ御兄悪源太殿(源義平)伯父帯刀ノ 先生殿(源義賢)ヲ討チ奉マツリ給フ時、御屋形ヲ造ク被レテ其レニ御座ハシマシテ、仍テ悪源太ヲ御霊卜祀ヒ奉マツル、然レハ後々将来ニ至ルマデ小代ヲ知行セン 程ノ者ノ惣領主ト謂、庶子等ト謂ヒ怠タリ無信心致シテ崇敬シ奉マツル可者也、

一、

此段ハ小代ノ古老ノ人々ノ語ラ被ルニ就テ宗妙(小代伊重)見ヲ注置ク、小代ハ郎行平鎌倉ノ右大将ノ御料ヨリ充給 ハ被(られ)ルゝ所ノ数通ノ御下文・御教書、不思議ノ御状等ノ事、行平皆ナ以テ妻女河越ノ尼御前ノ許ラ預ケ置カ被ル間、行平他界ノ後チ家嫡ヲ相ヒ継カ令ル 小代小次郎俊平(宗妙仁和曾祖父)行平預ケ置カ被御下文・御教書・御状等ヲ河越ノ尼御前ニ乞ヒ奉マツリ給ヒケレトモ、正文ヲモ案文ヲモ終ニ出シ給ハサリケル事、 河越ノー門ヲ養セ被レケル間、彼ノ養子に給ヒ 与可キ所存ニテ有リケル由ヲ語被キ、凡先段ニ申右大将ノ御料ノ御下文・御教書・御状等ヲ捜求(サクリ)メテ持ツ可也、其故ヘハ御下文・御教書等ハ、彼ノ地ヲ当時知行セ子トモ恩賞ニ預カル事モ有ラン時ハ、望ミ申タキ子細モ有可シ、 又色々ノ不思議ノ御状等ハ、当世ノ人々ハ存知セ被レヌ事モ有ル可キ上へ、重代奉公ノ名誉ヲ顕サンカ為メニモ、尤モ上ノ見参ニ入レタキ者也、又大将ノ御料御隠以後行平充テ給ハ被ル所ノ数通ノ御下文等モ、 行平皆ナ以妻女河越ノ尼御前ノ許ニ預ケ置カ被ケル間、是又正文ヲモ案文ヲモ終ニ以出シ給ハス、爰ニ右大将家以後ノ御下文等ノ内、建仁三年ノ御下文三通ノ正文ハ、小代三郎左衛門人道(法名道念)跡ニ有ル間、 案文ヲ写シ置ク者也、
副将軍トシテ相並ヒテ朝敵ヲ追討ノ次第絵図ニ書カ被キ、奥州征伐ノ後有大夫弘行・同有三別当経行、武州児玉郡ヲ屋敷トシテ居住セ令メ給フ、凡ソ児玉ノ先租代々君ノ奉為メニ忠勤吉例ノ事、 諸家ノ記録ニ載セ被ルゝ上、世以テ其隠レ無歟、又右衛門(平賀朝雅)佐朝政関東ノ御代官トシテ在京ノ時、蓮華王院ノ宝蔵御絵ヲ申出シテ拝見セ令メケルニ奥州後三年ノ合戦ノ次第書カ被タル所ニ、 東八箇国ノ人々ハ皆ナ以テ大庭ニ敷皮居烈レリ、八幡太郎義家ノ朝臣大将軍ニテ屋形ニ御座ハシマニ、児玉ノ有大夫弘行ノ朝臣副将軍ニテ同屋形ニ赤革ノ烏帽子懸シテ八幡殿ノ御対座二書レ給ヒタルヲ 平児玉倉賀野ノ八郎公行当座ニ有合テ拝見シタリキ、 其後関東ノ人々ノ中ヨリ内義ヲ作クリ上セ秘計ヲ廻ラシテ有大夫弘行ノ銘ヲ消シテ、別ノ人ノ銘ニ書キ替へ被レタル由ノ風聞有事、 副将軍ナラ不シテ八幡殿ノ御対座ニ書カル可シトハ覚へ子トモ不思議ニ書キ替へ被レタル事モヤ有ルラン、然レハ児玉一門等ノ中二蓮華王院ノ宝蔵ノ御絵ヲ拝見セシニ風聞ノ説ノ如クニ、 絵図ノ銘ヲ書キ替へ被レタラハ奏聞ヲ経テ儒者ニ仰セ下タ被レテ、本ノ如クニ有大夫弘行ノ銘二書キ直サセ奉マツル可キ者也、
児玉乃先祖乃次第並系図、又小代八郎乃條々記録乃状事、 所領共お□し上け被礼天身乃置所毛なしといえとも、我加身仁おきては一塵乃誤なき間、定天立直らんすらんとたのもしくおほゆ、爰仁物書せつる仁等ハ皆退出しぬ、心仁相叶天物書幾つる、 寺乃蓮敬房波他界しぬ、誂証書寿へき人波なし、先祖乃御名残仁御名字許於毛残志留免奉末ツ里たき心さし切奈留余里、宗妙今年七十三仁なる間気力毛衰江たる上、今乃歎仁恩恰天筆乃立所毛定加 千見別けられぬとも押江天書しむる間、書幾損寿留所多久天切里継々々したり、然者、よく物かゝん人仁よからん紙仁天清書せさすへし、但志宗妙加書多留状紙毛わろく継目かちに、 或波反故乃裏たりといへとも、宗妙懇切乃心さしにて書たる状なれハ、引失なハすして清書乃状仁加仕置久へき者也、且ハ裏仁行平乃記録乃状書たる反故ハ、年来志深く申承はる人々の文にて記念にも置きたき間、能と彼の文の裏に書たる者也、

彼正文者塩谷家嫡許仁在之>
塩谷太郎ハ系図ニ書キタル塩谷平五太夫末孫也、

鎌倉右大将家御教書案 校正畢
塩谷太郎高光奉公者也、一谷合戦ニも前を懸たり而奥州合戦ニ死去畢、其か給たる所知ハ子息相伝、無相違之        処 至干伊勢所知 光員致妨之条不便事也、たしかに可令停止其妨也、且子息所追折紙遣之者 依仰執達如件
    建久九年一二月廿六日                             中原奉在判
加藤左衛門尉殿

右大将家ヨリ塩谷ノ御堂供養ノ時御馬下給御消息案在御判
彼正文者塩谷家嫡許仁在之、
(なお、漢字については、新活字に直し、万葉仮名は、ひら仮名に直した。)

   
 
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