児玉黨一族

(本庄市史 通史編 Ⅰより転記)
 本庄市や児玉郡には、武蔵七党の一つである児玉党の子孫と言われる家がたくさんある

阿佐美あさみ浅見あざみ久米くめ児玉こだま庄田しょうた富田とみた平児玉ひらこだま本庄ほんじょう四方田よもたなどの名字が付く家で、家紋を見ると 「団 扇うちわ」や「軍配団扇」など共通したものを使っていることも興味深い。
それぞれの家では、治承四(一一八〇)源頼朝の挙兵の後、頼朝に味方をして、義経や範頼の軍に従い、團扇紋を旗印に先祖が犬活躍したと伝えられている、しかし、児玉党の活躍は、 源平合戦ばかりではなく、その前の保元・平治の乱(一一五六・一一五九)、さらに、遡れば、奥州合戦、後三年の役(一〇八三)にも参加している。源平合戦の後にしても、承久の乱(一二二一)や 南北朝の争い、戦国時代においても、敵味方に分かれたとはいえ活躍している。
児玉党の祖は遠峯維行(伊行)であるが、その先祖については明らかではない。維行、あるいは維行の父・維能が、藤原伊周の子ども、孫の子どもいかれ、また伊周に仕えたともいわれる。 姓は有道で、有貫主とも称せられた。その起源については、不明瞭な点が多く、後でふれるように、系図によっていくつかの説が生れている。しかし、いずれにしても維行が児玉黨の始祖であり、 平安時代末期に朝廷の御牧である阿久原の別当(当時牧の管理者)ににんぜられていたこと、そして、任務が終わってもそのまま土着し、旧児玉郡地域を開発して在地豪族となったというのが多勢の意見である。
維行の嫡流(本家の家筋)は、児玉郡内を流れる現九郷用水関連河川の流域に居住し、その土地の地名を名字(苗字)とした。 荘・荘しょう塩谷しおや児玉こだま真下ましも今井いまい浅見あさみ富田とみた四方田よもだ久下塚くげつか北堀きたほり牧西もくさいなどの支族がそうである。
維行の庶流である 経行つねゆきは、阿久原牧の経営を引継ぎ、その流れは秩父平氏と結びついた。その子孫は、平児玉を名のり、秩父郡のほか 上野国甘楽郡かずさのくにかんらくぐん鏑川かぶらがわ流域や群馬郡の島川・井野川流域に居住した。 大河原おおかわら片山かたやま小幡おばた奥平奥平/rt>大類おおるい倉賀野くらがの島名しまな多子たこなどの支族がそうである。
弘行の子、つまり維行の孫相行(資行)は、大西郡に居住し、子孫は越辺川流域を開発した。浅羽あさば小見野こみの粟牛田あわうだ小代しょうだい/rt>越生おごせ鳴瀬なるせ黒岩くろいわ岡崎おかざきなどの支族がそうである。

  児玉党の一族は、『武蔵七党系図』によると、次のように五六氏に分かれる。
    有道氏 改藤原
庄(莊・荘) 本庄 東久下塚 西久下塚 若水 四方田 宮田 蛭河 今居 阿佐美
小中山 塩谷 児玉 富田 薦田 長岫 新生 中条 新里 鳴瀬
黒岩 岡崎 入西 浅羽 堀籠 長岡 大河原 小見野 粟牛田 小代
越生 高坂 平児玉 秩父 興島 吉田 竹澤 多子 小幡 倉賀野
大類 稲島 狛島 片山 新屋 大渕 鳥方 真下 御名 大濱
奥平< 白倉 吉島 山名 島名< 大河原 牧西
    上記のほか児玉郡には桜沢・平児玉姓を持つ家があり、児玉黨の子孫と伝えられていれ、「軍配団扇」の家紋を用いている。
児玉黨の諸支族
1)真下氏
遠峯 弘行 真下五大夫 弘忠真下太
有弘 弘長 重盛兵右 成胤 成氏 成実
胤氏
□ □ 重親 重延孫太
弘親 弘常中務丞 □ □小太

真下氏の祖は、弘行の子 五郎大夫基行である。所領は現在の児玉町上真下・下真下地内と、それに神川村八日市と、本庄市北共和の一部をわずかに含む地域とみられる。 真下氏一族も他の一族と同じように軍記物語や記録にみられるが、系図と一致する人物は見あたらないようである。真下四郎重直も系図には見られない人物であるが、 『平家物語 巻第七』の「篠原の合戦」に出ている。(詳細はp751を参照してください)
真下太郎が建久元年(1192年)十一月、頼朝入洛の際、後陣隋兵の四十五番に加わっている。系図上、基行の太郎は弘忠であると思われる。
嘉禎かてい四年(1238年)藤原頼経の入洛の際、真下右衛門三郎が、先陣隋兵一番に見える。
また鎌倉・室町時代の弓始の行事「御的」での射手の成績を記録した「御的日記」に真下一族の名がみえる。
文和三年(1354年)正月十四日、京都小路御所の御的の一番に真下弾正忠
応安四年(1371年)正月二十八日の三番に真下左衛門太郎
応安七年(1374年)二月十五日の二番に真下勘解由左衛門丞
永和二年二月二十一日の二番真下勘解(由)左衛門丞
さらに、康永元年(1342年)十二月五日、足利尊氏・直義が天龍寺参詣に際し、真下中務丞広仲が供をしていることが、『天龍寺造営記録』にみえている。

2)鹽谷氏

家行 家弘

家遠
塩屋平五大夫

平家以往死去
経遠塩屋太郎 高光小太郎

高光小太郎 経光二郎(奥州戦死) 経高 経氏 信経児玉 光経

光信

光氏 光家児玉弥六

忠氏

時高 時貞 光口

信重

助家 信家 信村 信親

家胤ー|- 信胤

盛家四郎

   |-   親朝

維弘五郎 維盛 維光

家経民部大夫
承久合戦之時
於宇治河死去
歳七十一
家朝太郎右衛門尉
寛喜年中死去
熊野参詣二ヶ度
家氏同刑部左衛門尉
文永元年死去
熊野参詣二ヶ度
盛家同右衛門太郎
弘安三年死去
熊野参詣二ヶ度
時家又太郎(家時)
熊野参詣三ヶ度
文永五年初度
弘安八年二度
正應二年三度
家重

家範

貞家

親家

塩屋氏の祖は、家行の子平五大夫家遠である。平五とあるから、五男であったのだろうか。児玉郡塩谷の地を譲られ、その地名を名字とした。 現在の児玉町塩屋から同金屋・同八幡山町・同長沖それに、神川村八日市円良岡を含む地域であったと推測される。年代的には保元・平治の乱 ごろの人である。武蔵七党系図では、息子に太郎経遠・五郎維弘・六郎民部大夫家遠が記載されている。家遠の後裔も他の児玉党一族と同じように 源平合戦や、それ以降の時代に活躍している。それらは『軍記物語』や『吾妻鏡』などの中に名前がみられるが、系図の名前と一致しないものもある。 正月二十日、名高い宇治川合戦の宇治川の先陣争いがあり、佐々木高綱・梶原景季に続いて、塩谷五郎維弘も川をわたった。(この詳細はp755~756を参照)
維弘は、この時、範頼軍に加わり、二月五日、摂津国(兵庫県)に着き、同月七日に一の合戦に参戦した。その後、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いに参戦、 その後、鎮西(九州)に滞在。
上記系図のグリーン色は六郎家経の家系。
家経は家遠の六男で、没年から逆算すると、仁平元年(1151年)に生まれたことになる。源平合戦・奥州合戦にも当然、参戦していたと考えられまが、 軍記物や記録には見られない。記録に残こるのは『吾妻鏡』の建久元年(1190年)十一月の源頼朝が入洛した時からである。この時、先陣隋兵十四番に参列している。 承久の乱(1221年)には、武蔵守北条泰時に従い、六月十四日の宇治橋合戦に参戦したが、戦死してしまった。『承久記』(元和四年古活字本)には

(實光と家經の所領も境も隣り合っていて)て、 朝夕申通ずる中にて、今日も一所に打連れ云合て、同心に川端に進で渡さんと仕けるが、我等が子共数多有、我こそ空からめ、子共失はん事悲ゃ思けん、 武蔵守殿(北條泰時)へ 使に進らせければ、是等も心得て、「御供にこそ候はめ」と申す、「小賢き奴原哉」とて追遣す、 「我等己に八句に及んで、病にてぞ死んずらんと思つるに、今懸る御大事出来て、人数一分に成て、此河にて命を失はん事、もっとも本望也、民部丞殿」、 「左様候、刑部丞殿」とて、岸破と落す、二目共不目流けり、其の後は馬次第にぞ渡ける、
とある。
これは、『吾妻鏡』の承久三年(1221年)六月十八日の条の「六月十四日宇治橋合戦超河懸時御家人々死日記」にも記載されている。
六郎家経の後裔については、有道入家時が熊野参詣の際、父ゃ祖先の来暦を誌して差し出した「有道家時注進熊野参詣道者系図案」がある。 米良文書にある正應二年(1289年)三月二十三日、家時が三度目の参詣の時に書いたものである。これには実名・通称のほか、熊野参詣の回数や、没年の記載している。 また塩谷氏に関すると考えられる遺跡が、児玉町塩谷地内で発掘された。

3)富田氏

家行 家弘児玉莊大夫

 

富田氏の祖は、富田三郎親家である。三郎とあることから家行の三男であろう。富田の地を譲られ、現在の西富田地内の「堀ノ内」に居住していたと推測される。強力の持ち主として知られているが、 源平合戦の物語や記録の中には名が見られない。記録にみられるのは、源実朝が将軍になって十年余り過ぎた建保元年(1213年)に起きた和田合戦のときである。 幕府の北條家(北條泰時)と和田義盛・三浦義村・小山朝政連合との合戦。原因は信濃国(長野県)の泉親衡が二代将軍頼家の子千寿をおしたてて将軍の座につけようとしたことによる。
この合戦で和田方についた児玉党の者には、塩谷三郎維盛(維守)、同太郎家光、それに稲島友行・友重がいる。捕らわれの身となった親家が、持ち前の強力を披露する機会がおとずれた。 七月十一日、北條実朝の献杯の時、奥州産の大鹿の角を二本を一度に折ったため、捕らわれの身を解かれた。  

家遠塩谷平五大夫

親家富田三郎 近重太郎 近行小太郎 親氏又太郎

惟近

長家六右衛門承久京方

『吾妻鏡』建保元年の条には次のようにある。

十一日 <庚戌かのえのいぬ天晴れる 相州御所に参り給ひ盃酒を献ぜられる。其の間 相州申されて云うく、 「去五月義盛にクミスル所の富田三郎、強力人に勝れ 鼎扛ママげ石を砕く」云々。
将軍家其の芸を御覧せんが為に富田を召さる。伊東七郎具し参じ寝殿の西面のの子に候ず。御所自り大きなる鹿の角の 二つを出ださる。長さ三尺方七寸奥州の角也。仰せによりて相州之を尋ね進ぜめ給う。 二つの角一度に之を折る。満座感嘆せざるなかれし。又御感の余り囚人をユルサされるべき旨仰せ出される云々。
承久三年(1221年)五月十四日、承久の乱が起こった。後鳥羽上皇が倒幕のために兵をあげたためである。この時、親家の子、六郎兵衛尉長家は上皇方に着いたが討死してしまった。 また、北條泰時に従った富田小太郎近行は、六月十四日の宇治川合戦で敵一人を討ち取り、勲功を賞を受けた。
寛元二年(1244年)八月十六日、鶴岡八幡宮の馬場と競馬が行われた。競馬の二番に、富田次郎兵衛尉の名がみえるが、親家の後裔であろうか。 翌年八月十六日に行われた時にも名が載っている。
正平六年(1351年)十二月、駿河薩多山合戦の時、足利直義に着いた児玉党の中に富田氏があり、『太平記 巻三十』薩多山合戦には、
「(略)・・少し引色に見えける處へ、南部羽切抜きつれて懸りける間 、 大類弾正富田以下を宗として、児玉党十七人一所にして討たれりけり。」とある。

3)蛭川氏と今井氏

遠峯 弘行 家行 家弘児玉大夫 弘高庄権守 高家庄四郎 定重蛭河大 家氏小大左 泰家 泰氏

光弘 家氏

行家 行助今居太兵 經行四左 資經

有助 助經 行經

家国蛭河(末国」 時国久米 經家四郎左衛門尉 長家肥前守左衛門尉従五位下四郎
元弘三年十一月二十日如元可爲藤原氏由被宣下。  武者伺候之時被書藤原長家華。
宗家

景家五郎左衛門尉

庄四郎高家は、現児玉町蛭川から本庄今井にかけて所領を譲られたと考えられる。蛭川に居住し、嫡男の太郎定重に蛭川を、 三郎行家には今井の地を譲った。
高家の子四郎左衛門尉家国は、暦仁元年藤原頼経上洛には隋兵として先陣二十番に、四方田三郎左衛門尉・塩谷六郎左衛門尉 と共に行列に加わっている。今井行家は川高家の三郎家行と「武蔵七党系図」にあり、児玉党系図には行宗とあるが、『吾妻鏡』 や軍記物語には今井行家の名はみられない。しかし、承久の乱の時、六月十四日の宇治橋合戦で手負いした者に、蛭川刑部三郎の名がある。
庄四郎左衛門長家・宗家
高家の四男・四郎左衛門時国は、久米川を領有し、久米氏の祖となる。その曾孫に庄左衛門長家がいる。建武元年(1334年)八月、領地についての争いを 裁く雑訴決断所の二番に庄左衛門尉藤原長家の名がみえる。二番は東海道を受け持ち、伊賀・伊勢・志摩より東の関東まで含まれる。
長家の子に四郎左衛門実家がある。延元元年(1336年)四月、武者所結番が定められた時、四番に名がみえる。

4)四方田氏

四方田の祖は弘高である。弘高の子としては、系図に家長 、弘定、弘長、弘季、弘綱、快照、高綱を記している。しかし、家長 については、 通称などを見ると、弘高の子ではなく、兄ではないかとも考えられる面もある。四方田のよびかたであるが、ちめいとしては「シホーデン」、 本庄の四方田氏は『ヨモダ』と呼んでいる。米良文書の「児玉在所引且那名字注文写」(年代不詳)には「しほうてん」とあり、別の「越生一門名字書立写」 には「「四方田」ヨモダ」とある。居館は本庄市四方田地内「堀ノ内」である。
兄弟の中で、記録に出てくるのは家長 を除くと、三郎弘長、五郎弘綱である。
四方田三郎弘長は『吾妻鏡』の文治元年(1185年)十一月二十四日の条に、源頼朝が勝長寿院の供養の時、隋兵として参列している。 文治五年(1189年)七月十九日、藤原泰衡討伐の奥州合戦に頼朝の大手軍に加わって鎌倉を立っている。
建久元年(1190年)十一月七日、頼朝が上洛の時には先陣隋兵の十三番に参列し、同元年の東大寺供養の時にも隋兵として参列している。
五郎弘綱については、文治三年(1187年)四月二十九日伊勢国地頭御家人等の公卿勅使駅家雑事対捍目録に「丹生山子公田四方田五郎」とある。 建長二年(1252年)三月の閑院内裏造営の雑掌分担目録には、二条面南油小路西の分担として「四方田五郎跡」の記載がある。この頃には没していたのだろう。
七郎高綱の子 三郎左衛門尉景綱は、歴仁元年(1238)二月十七日、将軍藤原頼経の上洛の時、御所隋兵の先陣二十番に見えている。頼経は左大臣九条道家の子、三代将軍 実朝が亡くなった後、京都から迎えられたものである。
正嘉 しょうか元年(1257年)九月十八日(鎌倉時代、後深草天皇の代の年号。康元二年(一二五七)三月一四日改元。将軍宗尊親王、執権北条長時の時代。正嘉三年(一二五九)三月二六日正元となる。 出典は「芸文類聚‐歳時中・元正」に引かれた、傅玄の「朝会賦」の「採二秦漢之旧儀一、肇二元正之嘉会) には勝長寿院造営の事始にあたり雑掌をつとめている。
正応元年(1288年)(鎌倉時代、伏見天皇の代の年号。弘安一一年(一二八八)四月二八日改元。将軍惟康親王・久明親王、執権北条貞時の時代。正応六年(一二九三)八月五日、永仁となる。出典は「毛詩注」の「徳正応レ利」。)と推定される『新編追加』(傍例八十)には、 四方田景綱父子が出羽國平泉寺内の毛越円隆寺六口供僧田の押領を停められていることがみえる。追加は、御成敗式目以後、幕府が発布した単独法令である。
また高綱の子、五郎資綱も将軍に随行して上洛した。そして、将軍が同月二十二日(暦仁元年二月)、西園寺公経と九条道家亭へ参向する時の行列に加わっている。 よく二十三日には