児玉党一族の名前と家紋
(本荘市史 通史編 Ⅰ)

児玉党一族の名前と家紋

この時代の武士は、今日、私たちが用いられる名前とは異なった使い方をしていた。系図には、忠家・高家・家長とか実名を中心に記載されている。 それに対して、『吾妻鏡』や『平家物語』・『源平盛衰記』などには、庄三郎・庄四郎・庄太郎とかと通称だけで記述されている場合がある。 系図と物語に記載されている人物とを比定する時には混乱が生じてくる。そこで、この点を理解しておくとわかりやすくなる。 中世武士の名前は、左のように書かれる場合が多い。
名字 通称 官位   実名   姓  実名
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本庄 四郎 左衛門尉 時家   有道 時綱(四方田時綱)
姓  実名
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藤原 長家(庄左衛門尉・久米四郎左衛門)

「氏文よみ」とも呼ばれていた。たとえば、『保元物語』には、大庭(おおば)平太(へいた)と弟の三郎が名乗ったとして次のような文がある。 御先祖(ごせんぞ)八幡(はちまん)殿の(ご)三年(さんねん)合戦(かっせん)鳥海(とりのうみ)城落(しゃうおと)されし時、 生年(しゃうねん)十六歳(じゅうろくさい)にて、(みぎ)(まなこ)(い)させて、其矢(そのや)をぬかずして、 (たう)(や)(い)(てき)をうち、(な)後代(こうたい)にあげ、(いま)(かみ)(いはは)れたる鎌倉の権五郎影政(げんごろうかげまさ)四代(よんだい)末葉(ばちょう)大庭(おおば)庄司景房(しょうじかげふさ)(こ)相模國(さがみのくにの)住人(じゅうにん)大庭平太景能(おおばへいたかげよし)同三郎景親(おなじくさぶろうかげちか)とは我事(がこと)にて(そうろう)、」
 (一)  実(じつ)  名(みょう)(本名・名乗・名告・二字)

本名・名乗・名告ともいう。その人のまことの名で、系図に大きく「維行」とか「弘行」とか二字で書かれている名である。そこで、「二字(にじ)」と も呼ばれている。実名は烏帽子(えぼし)名とも言う。元服(今日の成人式、当時は十三歳から十五、六歳)の時、髪をそりあげ、烏帽子を冠せる烏帽子親が、 その名をつけるためである。父親か一族、あるいは近親者などが烏帽子親となり、その家に共通する通り字か、烏帽子親の実名の一字を譲られる ものである。なお、元服前の名を幼名といっている。また、「一字書出(いちじのかきだし)」といって、主人が家臣などに自分の実名の一字を与え、家臣は実名の上字 を、与えられた一字を取り替えて名乗る場合がある。
(二)  字(あざな)
実名のほかに字がある。「中国で、男子が成年後実名のほかにつける別名。わが国では、平安時代、成人男子が人との応答の際に名乗るな。」と『広 辞苑』にある。実名を呼ばれると禍(わざわい)がかかるということから起こった。 『今昔物語 巻第二十五』の第三に『今は昔、東国に源宛(みなもとのあたる)、平良文という二人兵ありけり、宛が字をば箕田の源二と云ひ、良文が字をば村岳(むらおか) の五郎とそ云ひける。』とある。源宛は、源二の次男などで『源二』、そして箕田に住んでいたので『箕田(みのた)の源二(け゛んじ)』といい、良文は、高望王の五 男で『五郎』といい、村岳に住んでいたので「村岳(むらおか)の五郎(ごろう)」といった。これが字ということである