児玉党一族

武蔵七党 児玉黨
(武蔵七党 上巻 川又辰次編 より転記 )

はしがき

  平家物語、源平盛衰記、太平記、さらに吾妻鏡、等の軍記物語をよむとき、全編にわたって東国武士団、就中、 「武蔵七党」武将の活躍の事実を至る所に知ることが出来ます。ここで、平家を全滅させた組織の頂点はまさしく源頼朝でありますが、その組織は東国武士団であり、 武蔵七党であったことが如実にわかります。
当時鎌倉御家人の多くは本領地に住み、自らは田畑、牧場の開拓者であり、経営者でありました。当然、武士即ち在地領主 にとってその土地から生まれる収益が全財産でありましたので、その土地こそが一族の存立を支える唯一の経済的基盤でありました。そこで、そうした基盤にある御家人 を庇護し、安堵せしむる鎌倉殿に対し御家人は、戦時、平時を問わず、この「御恩」に報いるに「奉公」の義務を持ったのであります。当時の武士にとって本領は苗字 の付された本貫地であり、まさに一生懸命の地であったのであります。そうした面からも、当時の日本経済は武士が負担していたとみられ、その点鎌倉時代の武士は後世 の武士、江戸時代の武士の有閑徒食とは根本的に違っていたといわれております。(注記:いわゆる荘園領主と 武士団の双務契約、後の鎌倉殿と御家人の双務契約。恩賞がないと働かない。)
さて、そうした鎌倉殿の御家人の中での「武蔵七党」とはと、定義すると、まず「日本歴史大辞典」は、平安時代後期(一〇〜一一世紀)から鎌倉・南北朝時代に活躍した 武蔵国に本拠をおく七つの同族的武士団。七党の数え方は必ずしも一定せず、「武蔵七党系図」によれば、横山党・猪俣党・野与党・村山党・西党・児玉党・丹党の七つとなり、 「書言字考節用集」には丹治・私市・児玉・猪俣・西野・横山・村山を挙げている。「広辞苑」 は、平安末期から鎌倉初期にかけて、武蔵国在住の武士の組織した七個の 集団。丹治・私市・児玉・猪俣・西野・横山・村山、とあります。またある書には、児玉・横山・猪俣・綴・西・丹・私市とあり、横山・猪俣・綴・私市・丹・児玉・野与 とも記している。このような「武蔵七党」は鎌倉時代以降は大躍進をとげ、武蔵国から相模・下總・上野にわたって勢力を拡張しさらに全国的にも進出して永く室町時代 までも活躍するのでありますが、やがて地域的武士団として発生してきた一揆にその座を譲り渡して歴史上から消滅するのであるといわれます。
「武蔵武士」(渡辺世裕 八代国治共著・有峰書店刊)は「武蔵七党」各氏の他に坂東八平氏を含む 関東武士団全般を詳細に記してあります。「新編武蔵国風土記稿」は、徳川幕府の手によって 編纂されたもので十九年の歳月を費やして文政十一年(1828)に完成し江戸時代の最大の地誌であり、同書の特色は時代を遡って「武蔵七党」に関しての軍記と事蹟が詳細 に記載されていて、郷土史料としても最も貴重な地誌であります。「相模国風土記稿」も同様 であります。この風土記稿の記述は、「姓氏家系大辞典」「大日本地名辞書」に多く引用されている。  かく諸々の書物を読み漁っているうちに、関係事項を各書から引用、転載、編集して一冊となしたのがこの 「軍記武蔵七党」であります。

児玉氏  児玉黨

「姓氏家系大辞典」

  児玉 コダマ 武蔵にあり、 和名抄に古太萬と註す、後郡内に児玉御庄あり。其先は有道氏より出ず。有道氏は姓氏録にある丈部氏にして、丈部氏道のときに、有道の宿称を賜わりしより有道氏を称す。 有道刑部丞維弘、関白藤原道隆の家司となる。その二子維能、道隆の子内大臣藤原伊周に仕へしが、後に武蔵介となりて武蔵に下向し、児玉郡を開墾し、終に土着して、 児玉庄に居住し、其子維行、有貫主と称す。武蔵守となり任満ちて帰らず、父祖の地、児玉庄に住して児玉を氏とす。系図一、丈部氏道が有道を称す。・・維弘・道隆の 家司刑部丞維能・伊周に仕ふ、武蔵介維行・有貫主・武蔵守。
一説に藤原伊周妾腹の子有道道峰(維行か)武蔵に下り、有貫主と称し、其子有大夫弘行より一族繁桁せりと云う。蓋し両説いづれに従うも之を要するに、有道氏が藤原 の勢力を借らんが為に、児玉庄を当時勢力のある大臣家伊周の所領となし、自ら其庄司となりて、之を支配し、終に其の本家の姓をおか して地方に於ける勢力扶殖をはかりしなるべし。
治暦(一〇六五・後冷泉帝)延久(一〇六九・後三條帝)の間に維行あり、皇室御領の阿久原牧を管領して阿久原に居住す。今、阿久原に有明神あり。有は有道の略称にして、 児玉氏の祖先を祭りしなるべし。維行の長男有大夫弘行、二男二郎経行あり。共に児玉、庄を氏とす。これより児玉、庄の両家に分れぬ。而して弘行の子家行は武蔵権守となりて、 益々武蔵国に勢力を振ひぬ。それより一族繁栄して、児玉、秩父、大里、諸郡より上野国に及び、引て全国に其の余流拡がりぬ。
有道氏とは如何なる氏か。「姓氏家早大辞典」次に私見を述べむ。児玉党の有道氏なることならん。 系図も、しかく明記し、又此の氏の人が、有貫主、有大夫、有三郎など、有字を通称に冠するは、他の例より類推して有道の略と思わるるが故なり。而して有道氏は如何なる氏かと云へば、
続日本後紀、天長十年(八八三)二月条に
「常陸国筑波郡人散位正六位上は丈部長道、一品式部卿親王家令外従五位下丈部氏道下総少目従七位下丈部継道、左近衛大初位上丈部福道、四人に姓を有道宿弥を賜ふ」

とあれば明かに丈部の後にして、猶ほ丈部と云ふも各地にあれど、こは常陸筑波郡の丈部たりしが如し但し氏道、福道は在京し、継道は下総に居りしも、こは任官して其の地に赴任せしにて、 その実、常陸の人なることは、続日本後紀、承和元年(884)十月条に、氏道の事を「常陸の国外従五位下有道宿弥氏道の本居を改めて左京七條に貫附す」見ゆるにて、一層詳か也。 故に若し児玉氏の祖維能が其の父惟広以来道隆伊周の家令となり、武蔵権介に任ぜられ、而して一族、武蔵にはびこりしものとすれば、恐らく此の一品式部宮の家令となるを職とせしならん。
当国に下りし真相は明白ならざるも、当国司として在任中、恐らく児玉郡地方に私田を墾開して、自家の荘園となしありし為、中関白衰運の顕著なるを察し、中央に断念して、 当国の豪族となりしものと考へらる。けだし達識の士と云ふべし。
風土記稿児玉郡総説条(姓氏家系)に「按ずるに、本郡は当国七党の一児玉党の住せし地なり。七党系図に拠るに、 児玉の先祖は、武蔵権守家行の男、児玉庄大夫家弘に出で、末裔近郷に散在して、在名を名乗りし者数十家に及べり。」
出自に関しては、「有道氏、元藤原」又、遠峰に註して、「遠峰は、藤大納言、成人・云ふ。儀同三司伊周公の子云々」と見え、又、一本系図には「師内大臣伊周公の男、父左遷の時、 外祖有道氏遠行に依り、武州に下向し、姓を有道と為す」と見ゆれば、藤原道隆の長子内大臣伊周の後裔なる如く思はる。故に 大日本氏族志も藤原の条下に入れ、「児王氏は師輔の子、摂政兼家の長子、関白道隆より出づ。道隆の長子伊周内大臣、道雅、顕長を生む。其の後世、に聞ゆるなし(尊卑分脈) 其の下りて武人となる者を児玉氏と曰ふ。武蔵七党の一也。伊周・有道氏をめとり、少子伊行を生む。伊周のおと せらるに及び、伊行・外祖父に従ひ、□りて武蔵に居る。是を児玉党の祖とす。
(系図を按ずるに、伊行・有貫主と称す。弘行・行を生む、弘行・有大人と称し、径行は有三郎、益々伊行・外祖有道氏の釆邑を受け、ついに其の姓を おかすを知る。故に有を称となす也。附して以て考に備ふ)」とあり。
しかもその非なるは中条氏児玉党考、既に説あり、曰く「それれ児玉氏の東遷は、維能君の時にあり。維能君の父・維広(弘)君、かっ て関白道隆の家令に任ぜられ、維能君は武蔵権介に任ぜらる。後亦、道隆の子内大臣伊周の家令と為り、長徳二年(九九五)二月に官を解かると。(大河原系譜に曰ふ。 維能は伊周の事に坐して官を解かると。是れ誤なり。伊周の敗は四月に在り、維能の解官は二月に在る也)武蔵に移る、けだし伊周の 驕悸きょうきを見るに忍びず、桂冠けいかんして去る也。其の年四月、伊周果して敗る。維広、維能二君の追随、 伊周と、相関する此の如き者あり。
氏人は、平家物語、源平盛衰記には児玉党。承久記巻二に児玉云々。東鑑二十五、児玉刑部四郎、太平記八、丹児玉が勢、十四、児玉庄左衛門、二十二には児玉五郎左衛門。

有道姓(後藤姓) 「姓氏家早大辞典」

  武蔵の大族にして、七党の一なり。児玉郡児玉庄より起る。武蔵七党系図に 「有道氏。藤原に改む」とし、史料本には「元藤原」とあり。而し遠祖遠峰に註し、「有貫主と号す。又伊行とも云ふ。延元元年八月七日死去。帥内大臣伊周公の男、父左迂の時、 外祖有道氏遠行に依り、武州に下向し、姓を有道となす」と云ひ、又遠峰(有貫主遠峰は、藤大納言、或る人云ふ。儀同三司伊周公の子云々)
藤姓 小代系図に「遠峰(武蔵国友綱郷地頭職と為す。児玉党祖。)また中興系図に「児玉、藤原、本庄太郎家長、これを称す。」と。又「庄四郎兵衛家定・これを称す」と見ゆ。
次に「武蔵武士」によると、
「児玉党の分布は、児玉郡を中心として武蔵の各郡より全国にからみりて広く繁衍はんえんす。 児玉氏にして最も顕はれしものは安芸にありしもしなり。これ維行の次男経行の子保義豊前守となりしより九州に赴きしが、安芸に所領を有せしより、子孫この地に住し、其地方の豪族となる。 世々相承けて安芸にありしが、戦国時代に毛利氏に従ひ其重臣となりぬ。今の児玉男爵家はこの系統なり。長門周防に其一族滋繁じはんす。 周防徳山の旧藩士児玉伯爵家も此系統ならん。又薩摩にも其一族広まりぬ。而して児玉党の嫡流は始めには児玉を氏としたりしたが、後には唯庄と呼べり。乃ち武蔵権守家行の子児玉庄大夫家弘、 其子弘高は庄権守と称す。弘高の子家長庄太郎と云ふ。頼朝に仕へ、元暦元年(一一八四)二月に範頼に従て一ノ谷城を攻め名を挙げたり。家長の子家次本庄次郎と称し左衛門尉となり本庄を氏とせり。 これ本庄に住せしを以てなり。本庄は新編武蔵風土記稿に若泉庄の本庄の義なりとあれど、古く若泉庄ありしや詳ならず。