兒玉氏の系譜
児玉町史 中世資料編り

この第一章では特に児玉町に関係の深い史料や、児玉町周辺地域(旧児玉郡内)に現存する中世文書を取り上げ収録した。全点写真を掲載し下段に書き下し文を付した。地名や難解な用語については頭註を付した。
第一節で取り上げた児玉文書は山口県防府市毛利幸公会博物館に所蔵されるもので、武蔵七党児玉党児玉氏の伝世文書である。児玉文書は弘安四年(1281年)の文書(一号文書)が最も古く、 鎌倉時代から室町時代にかけてのもの八点を収録した。児王氏は児玉党の中でも本貫地や系譜等が不明な一族で、特に鎌倉時代前半の動静は全くわからない。 承久三年(1221年)に起きた承久の乱で、宇治川の合戦に初めて児玉刑部四郎の名前が登場する(『吾妻鏡』)。おそらくはこの承久の乱における 宇治川の戦功で安芸国竹仁上下村(広島県福富町)を獲得したものと思われ、弘安四年の一号文書に見られるように鎌倉幕府の命で蒙古襲来に備えて西国の所領 (安芸国竹仁村)へ移住したものであろう。児王氏は一号文書に見られるように鎌倉時代も末期には当時横行した悪党・海賊に対処するため瀬戸内海の警備等も行っている。 この文書には 塩谷氏の名前が見られ同国能美島の地頭となった児玉党塩谷氏と推定され、児王氏と塩谷氏の関係が興味深い。 (追記 広島市佐伯区海老園に「塩屋神社」がある。徳島県の海岸沿いにも見受けられる。塩谷氏と関係があるのかなぁ) 児王氏はこの後三号文書以降の史料に見られるように足利直冬に属して活動しているが、以後の動静は残された史料が少なくわかりにくい。戦国時代には毛利氏の重臣として活躍している。
児玉氏の所領(特に本貫地)については、四号文書に見られるように児玉郡池屋を載せている。この池屋については現在この地名は失われているが、文政十一年に江戸幕府によって編さんされた 『新編武蔵風土記稿』金屋村の項に″池ノ谷″の小名があり、おそらくはこの地が児玉氏の本貫地であったのであろう。金屋村の地名については鋳物業と深いかかわりが想定され、 実際に金屋村には金屋鋳物師の集団があり、その起源については不明であるものの残された作品により室町時代まで湖ることは確実である。史料に現れる金屋の地名は室町時代頃が最初で、 鋳物師の活躍と金屋の地名が密接であることが理解できる。それ以前については史料上確認できないが、隣郷の児玉郷や塩谷郷の一部に属していたのであろうか。 児玉の地名を称していることから児玉郷に属していたかも知れない。先に触れたように塩谷氏との関係(武蔵七党系図では児王氏は塩谷氏の庶流)があればより理解しやすいが問題点も多く今後の課題である。  

(1)児玉文書 〔毛利博物館所蔵関東御教書〕

鎌倉幕府は児玉六 郎・同七郎に対し、元軍(蒙古)の来襲 に備えて子息を安芸国の所領に派遣し、 瀬戸内海の沿岸の警固にあたるよう命じる。
(1)蒙古襲来を指す。文永・弘安の役 と二度の来襲があったた、幕府は九州・ 中国地方に所領を持つ武士遠の派遣を行った。同じ児玉党の小代氏(肥後国に所領を持つ) にも同様な内容の文書が残っている。
(2)竹仁村(広島県福富町)
(3)安芸国守護は武田信時
(4)一二八一年。
〔備考〕
縦三二・二、横四六一 六、表装のため天地 左右多少切断あり。 宛所の「同七郎殿」の 殿を抹消し、御中と 書き直ししている

(1)児玉文書 〔毛利博物館所蔵関東御教書〕
異賊1、御用心嚴密也、
來八月中、差下子息於安藝國
所領2、賊船若人門司關者、早
守護人3之催促、屬長門國
軍陣、可令致防戦忠之状、依仰
執達如件、
  弘安四年4閏七月十一日相模守(北条時宗)(花押)
兒玉六郎(繁行)殿同七郎(家親)殿「御中」

六波羅探題の大仏 維貞は児玉七郎入道(光行)に塩谷左衛 門入道とともに瀬戸内海の警固を命じる。
(1)広島県倉橋町。
(2)児玉党に塩谷氏 があるがその一族 か。能美島地頭に塩 谷氏がおりその一族 とも考えられる。
(3)一三二〇年。
〔備考〕
縦三二・二、横四九・ 六

(2) 六波羅御教書
海上警固事、自今年所結番
也、安藝國龜1警固人注文九月分
幷事書遣之、任彼状鹽谷しおや左衛門2
入道相共、巌密可致警固、且及緩怠
者、可有其とがめ、且召捕賊徒者、
可注申交名於關東、可存知其旨之由、
普可被相觸候也、但執達如件、
元應3年八月十七日 陸奥守(大仏維貞)(花押)
兒玉七郎光行入道殿

児王家氏は九州太 宰府に参陣した旨を奉行所に報告する。

(1)この着到状は、軍陣に馳せ参じ、味 方として参加したことを証明するため、 文末に確認の証判を受け、後日の恩賞の 証拠書類としたもの。
(2)福岡県太宰府 町。
(3)一三五一年。観 応二年(北朝年号) にあたるが、当時こ の地域で勢力を有し ていた足利直冬は、 実父の足利尊氏と対 立し、年号も改元せ ず貞和年号を用いて いた。
〔備考〕
縦三二・二、横四三・ 七、三号文書より五号文書まで、児王家 氏の通称弥五郎の五」の文字に、書 き直しが見られる。

(3) 児王家氏着到状着到(1)
兒玉彌「五」〔重ね書〕郎家氏申軍忠之事
右、於家氏者、馳參鎮西大宰〔府〕(2)
致宿直忠節上者、以此旨可有
御披露候、恐惶謹言、
貞和七年(3)三月 日
進上  御奉行所   「承了(証判) (花押)」
きょうこう‐きんげん(キョウクヮウ‥)【恐惶謹言】:
 つつしんで申し上げることの意。特に、書状などの末尾に記して敬意を表わす語。恐惶敬白。
きょうこう‐けいはく(キョウクヮウ‥)【恐惶敬白】:
 (「きょうこうけいびゃく」とも)うやまって申し上げる意で、恐惶謹言と同じように用い 

児玉家氏は安芸国 竹仁上下村・武蔵国児玉郡池屋等の所領 の安堵を願い出る。
(1)広島県福富町。
(2)埼玉県児玉郡児 玉町金屋付近か。
(3)一三五一年。前 号文書と同様、九州太宰府にいた足利直冬に提出したもの。
〔備考〕
縦三〇・三、横三七 〇

(4) 児王家氏申状
兒玉彌「五」〔重ね書〕郎家氏謹言上
安藝國竹仁上下村・武蔵國兒玉
郡池(2)・同宿在家半分地頭職事、
右、於彼所々地頭職等者、家氏重代
相傅、當知行無相違上者、下賜安堵御
下文、爲備末代龜鏡、恐々言上如件、
貞和七年(3)三月 日

きけい【亀鏡】(「亀」は吉凶をうらなうもの、「鏡」は物の形をうつすもの。ともに人々の従うものであるところから)
1 証拠。証文。

これは児王家氏の 所領の安堵の申し出に対して、足利直冬 がその旨を領掌したことを証明したもの。

(裏書)
「任此状、可令領掌、
若構不實者、可處
重科之状、如件、
貞和七年三月三日(花押)(足利直冬)
(端裏書) 「表左(端裏書) 裏書兒玉彌五郎申狀三三貞和七

足利直冬は太宰府 に参陣した児王家氏を賞す。
(1)太宰府へ参陣したことを示す。
(2)一三五一年。
〔備考〕
縦三〇・六、横四四・ 〇

(5)足利直冬感状 
(1)條、尤神妙也、
彌可抽戦功之状、
如件
貞和七年(2)三月廿三日(花押)足利直冬
児玉彌「五」〔重ね書〕(家氏)郎殿

足利直冬は児玉五 郎太郎(益行)に恩賞を与える旨を約束 する。
(1)一三五七年。南朝年号。北朝年号で は延文二年。足利直冬はこの時足利尊氏 に対抗するため南朝に属したため、南朝 の年号を用いてい た。
(2)「萩藩譜録」によれば益行とし、児王家氏の孫にあたる。
〔備考〕
縦二九こ、横三八 五

(6)  足利直冬感状
恩賞事、追可有
其沙汰之状、如件、
正平十二年(1)九月十八日<48>(花押)(足利直冬)
児玉五郎(益行)郎殿(2)

五郎太郎(益行)の安 芸国における戦功を賞す。
(1)安芸国(広島県)を指すか。
〔備考〕
縦一四・六、横一二・ 四  (切れ目より) 横七・一

(7)足利直冬感状
(1)、致忠節、令馳付
條、尤以神妙也、彌可抽
戦功之状、如件、
正平十二年九月十九日(花押)足利直冬
    (益行)児玉五郎(益行)太郎殿

義氏は児玉孫八(国行)に対し、天下 争乱になれば至急馳せ参じるべき旨を通 達する。
(1)この年、応仁の乱が起きたが、この 間の事情を指すか。
(2) 一三九九年。
(3) 不詳。守護大内氏の一族・配下か。
(4)「萩藩譜録」によれば国行。益行の 子とする。
〔備考〕
 (包紙) 縦二〇こ、横一四・ 九  (本紙) 縦一五・九、横二二・ 五

(8)  義氏書下
兒玉孫(包紙ウハ書)八殿  義氏」
就天(1)事、諸
國申付子細候、現形
事侯者、早令馳參、
可致忠節侯、仍狀如件、
應永六年(2)十月廿七日(花押)(義氏)(3)
兒玉(国行)殿(4)