児玉風土記

1》十二の風景 2》私たちの祖先 3》古代 4》国府時代 5》児玉黨祖
6 》武蔵七党の起こり 7》軍馬と七党 8》児玉党 9》団扇の旗印

        十二の風景

北武蔵野の自然は美しく、いたるところに二千年の歴史を秘めた遺跡があって、それが生活化し、 さらに現代の感覚にマッチした造形美となっています。

児玉で最も詩情があるのは、なんといっても寺でしょう。それは、視角効果をねらった日本人の造形感覚の結果でもあります。 児玉にはいい寺があって、それがまた自然とよくマッチしています。

うば桜色あせて、参道にほろほろと白い花びらがふりそそぐあたり、人影もない伽藍(がらん)をじっと見上げる心に、 そのかみのことどもが、しみじみとしのばれて、自然と手を合わせたくなり、涙さえにじんでくるときがありますが、 そんなときに心の奥底に詩情が湧いてくるものです。

色・音・香・味、そして、ものにふれた感触が知性の中ではたらいたときに俳句が生まれます。 児玉には、いい俳句が生まれていまナ。これは、いい鑑賞性風物の所産でありましょうし、 宗教的俳句の多いことも、これまた、いい寺があるゆえんかもしれません。

敬神崇祖の念深い児玉地方の人々が、信仰表現として、舞い、歌い、詠むということは至極当然のことでありましょう。

笹鳴きや石となりゆく目なし仏            精 華

この一句を見ても、宗教心の計り知れない深さかおることに気づくでしょう。 私は、歴史ある俳句の町として 「児玉十二景百人一句」を後世に残すことを提案、児玉カメラクラブ具によって約千二百枚にのぼる写真が撮られ、 またこの十二景をそれぞれ詠み込んだ二千四百句が各地から集まり、長谷川かな女先生に百人一句の選考をお願いしました。

その児玉十二景を、まず北武蔵ハイキングコースからご紹介しましょう。

① 秋山古墳群

塚原はその名にふさわしく、約七十に近い古墳が点在し、前方後円墳のりっぱなものがあって、その昔、児玉は地方文化圏の中心だったことを思わせるものがあります。 この秋山古墳の付近から縄文式や弥生式時代の土器もたくさん発掘されています。

② 秋山十二天山

見上げる石段のあたりには年古りた松並木があって、その垂れ下がった松の枝に小リスが遊んでいるのを見かけることがあります。 登りつめたところに十二天神社が祭られていますが、坂上田村麻呂が天地の十二の神々を祭って戦勝を祈願したところと言い伝えられ、関東第七番めの霊場で、昔から幸を祈り、五穀豊穣、勝負ごとの神として知られています。

③ 陣 見 山

海抜五百メートル、陣具嶺か町の眺望は雄大で地平彼方に筑波をはじめ日光、さらに北へ回って上毛の三山、 その赤城と榛名の間に、雪のアルプスの山がチョツピリ異国的な情緒をのぞかせています。 さらに西へ回って噴煙たなびく浅間がありますが、晴れた日の浅間にはいる陽の美しさは、 まさにモネーの「入り日印象Lといったところです。さらに目を南に向けてください。 累々たる秩父の山並みは、その奥へっづいて、まさに「天と地と」を思わせる右に信州長野、 左に甲州山梨が一目で眺められます。キビスを三百六十度グルツと回してごらんなさい。 関八州がI眺におさめられ、まさに絶景快哉を叫ばずにはいられないでしょう。 夢のような七色の虹が、この美しい武蔵野をひとまたぎしている中に、故郷児玉町を見い出した李陽は、 「ふるさとは小さき町よ虹の中」という名句を残していますが、このあたりから見た児玉町が、 この句に一番シックリします。北武蔵野ハイキングコースはここを頂点として、峰づたいにおよそ五キロで間瀬湖に通じます。

④ 小平百体観世音

天明三年(一八七年前)の浅間山の大爆発のお~多くの人命が失われましたが、この万霊供養の大慈悲としておおぜいの協力を得て建てられたのがこの御堂です。 お堂はさざえ(螺)堂といって珍しい建物ですぐ 一層には秩父三十四所、二層には坂東三十三所、 三層には西国三十三所霊場の観音様を奉祠してあり、合わせて百体観音と言われています。

⑤ 間 瀬 湖

新日本百景にふさわしく、四季おりおりに変わる間瀬湖の水面はまた格別、 いつか評論家の吉田健一さんが来られて、この青い湖の色をたいへんほめてくれたことかあります。 なんといっても春は桜、一陣の春風に千片また万片空に香雪をみなぎらし、湖面に落花あやなすさまは間瀬湖ならではの風情です。 卯の花がなぎさを白く染めて、ほととぎすが谷をよぎるころともなれば、湖はボートでにぎわいます。また秋は茸狩り、 栗拾いで紅葉の山はだには若い男女の歌声がこだまします。

⑥ 小 山 川

深い緑の山並みを縫って、かすかなせせらぎの音をかなでて小山川は流れています。 冬の雪の景観はすばらしい。花にほたるにまた新緑に、自然の破壊の手も伸びずに、 夏は涼を求めてハヤつるつり人が岩かげに糸を垂れています。澄んだきれいな水に石をぬらして鳴くかじかの声にほっとすくわれます。 美しい川です。やはり思い出多いなつかしい故郷。の川です。川の流れは生活の裏面史でもありましょう。 あるときは恵みの川に、またあるときは深い悲しみの川に、だが児玉町にとってはまさに命の水、母なる身馴であります。

⑦ 骨波田の藤

高柳から野道をたどること数分、徳川家康公の真筆「護国場」と書いた小粋な額のある山門に突き当たります。その奥に、 いまにも墨染の衣ご深あみ笠をかぶった雲水坊が出てくるかと思われるみごとな山門が見えます。 ここが骨波田の藤で名高い大用山長泉寺です。この藤は樹齢三百年と言われ、五月ともなれば、 身の丈にあまる紫の花房が風にゆれて、一日じゅう藤の花見客でにぎわいます。

⑧ 八幡神社

いまからおよそ九百年前、源義家が奥羽征伐の際、男山八幡宮を遥拝して賊討伐を祈願し、 そのご分霊を移して祭ったと言い伝えられています。本殿は二四八年前、享保七年に再建されたものですが 、入母屋造りで彫刻はみごとなものです。

⑨ 雑岡城跡

山内上杉の臣、夏目豊後守定基の居城でしたが、永禄年間に落城して横地左近忠春が城主とかわりました。 その後、豊臣秀吉の小田原攻めのとき、小田原落城とともに再び落ちて松平宗清の居城となりましたが、 慶長六年(三六九年前)宗清が三河国吉田城(今の豊橋)に移って行ったので廃城となってしまいました。 この古城の跡は昭和十三年に県指定史跡となりました。現在は数百本の桜が植えられていて、児童遊園地や塙記念会館などがあります。
とこしえに花はかるらん雉が岡           光  湖

⑩ 龍 清 寺

この寺は、いまから二百二十年ほど前、盲聖塙保己一が幼少のころ遊んだというゆかりの寺で、 近くに保己一の生家もあります。この生家は、昭和十九年に国指定史跡となりました。近くに保己一の墓や、 芳賀矢一撰文になる大きな記念碑があります。

⑪ 飯倉牧場

三角山のてっ。へんに、ちょうど豆腐を置いたように見えるので、だれ言うとなく「豆腐一丁山」 と呼ばれるようになりましたが、これが飯倉の琴平様です。この琴平様を囲んで飯倉牧揚があります。 牧道はうねうねとつづき、ときにはスマートな自動車が走るので、ちょっとしたスカイラインを思わせてくれます。 ここには百五十頭の牛が草原にゆうゆうと遊んでいます。ここからは高崎観音が手にとるように見えます。

⑫ 生 野 山

標高百三十メートルという低い山ですが、北武蔵野のまっただ中にある島のようなただ一つの小山です。 面積はおよそ百二十ヘクタールで全山松におおわれています。この山に遊ぶのは菜の花のころが一番です。 山の中央に将軍塚があって、ここからはなんのさえぎるものもなく、筑波山をはじめ、雄大な赤城、 そして榛名、妙義、それがら西へ回って噴煙たなびく浅間など一眺におさめられて、まるでパノラマ絵巻でも見ているようです。


足元から広がる菜の花の武蔵野は、広く黄色く、末はかげろうの中にとけ込んでいきます。

かげろうや紫紺すそひく赤城山       桃  村

児玉の歴史(塁警察署における講演要旨)

四世紀(古墳時代前期)ごろの埼玉では、農業(稲作)を中心として結びついた数家族の人々が低地 に面した台地の端を生活の舞台としていました。やがて、それらの統率者が現われ、また大和朝廷 の勢力が東国に及ぶにつれて、武蔵国が誕生しました。武蔵国とは、現在の埼玉県・東京都・神奈川県の一部です。 埼玉でも河川に沿って台地の奥深くまで開発されたので、朝廷は、ここを治める「国造」(くにのみやつこ)を置きました。 しかし、この武蔵国造については、その居住地や古墳など、いまだに謎につつまれたまま明らかにされず、 埼玉の古代史研究のうえで興味のつきない時代と言われています。

1 私たちの祖先

児玉は、いまからおよそ五千年前の縄文時代から始まると言われていますが、さて私たちの先祖はとなると、千八百五十年前人皇第十二代景行天皇の御代、 あの日本武尊あたりではないかと思われます。しかし、人類はおよそ百万年前から始まると言われていますから、 児玉の人間は、いったいどこから来たものか、ゆょっと知りたいところです。

  私はこう思います。

私どもの住むこの地球は、数十億年前は、百キロメートルに及ぶ厚い雲におおわれていて、 数千度に熱せられていたと言われます。地球の熱度が下がるにしたがい、上空の雲は雨滴となって地表に落>ちてくるものの、 まだまだ地表は暑く、その熱ですぐさま蒸発します。降っては蒸発、蒸発してはまた落ちてくるといった毎日が何千万年つづいたことか、 やがてその水も地表の凹地にたまるようになりますが、もちろん地球を取り巻く厚い雲のために光はなくまっくらやみで、 地表は数百度の熱湯の時代であったと言われます。

  その湯の川も、熱湯の海も、数億年もの間に百度となり、八十度となり、五十度とだんだん下がりある日、 降りつくした雲間にポッカリ青空が見え、いままでまっくらだった地球に初めて明るい太陽光線がさしこみました。

  それからまた数億年、地表も冷えてきて、ある日あるとき、空気とか、たん白質とか、あるいは含水炭素といったものが、衝突か何かによって、地球上に一大異変が起こりました。 それこそが地球上に生物のできた瞬間だったのです。それが進化発達して、あるものは水の中で、またあるものは陸上で、あるものは植物に、またあるものは動物になって進化をつづけていったのです。

   当時の日本列島はまだ海の底にあって、この児玉地方はもちろん、貝や三葉虫の浮遊する水中にあったわけです。 ところが水底のある一部分が地殻変動を起こし、むくむくと盛り上がってきました。それがやがて海上に顔を現わし、さらに発達して細長い八つの島になりました。これが世にいう「バチスカン造山運動Lで、 日本列島は秩父がその起源であると地質学者は言っています。

  しかし、この日本列島は、アジヤ大陸との陸つづきの時代があったとも思われる節もあります。それは元田から出土したもので、 現在今井喜三郎氏が保存しているナウマン象の牙がそれを証明してくれるでしょう。ところが日本の伝説では、いざなぎ、 いざなみのふたりの神様が手に持つ矛(ほこ)でドロ海を七回半かき回し、この矛の先から八つのしずくが海に落ちてできたのが、 大八洲(おおやしま)だと教えてきました。これは、このバチスカン造山運動を神話的に教えたものかもしれません。

  やがて生物は進化発達して、そのうちの一種類は人類となりました。その人類もあるものは白に、あるものは黒に、 またあるものは黄色い膚色になって四十万年後の今日に及んでいるというわけです。 この地球上の住む位置によって、発達した民族は何百種とも言われ、その中にはゲルマン民族、 ツングース民族、ユダヤ民族、漢民族などの優秀民族があって、かつて戦時中、

「紀元は二千六百年、ああ一億の胸は鳴る」

と歌にうたわれた日本民族(やまとみんぞく)は、実は亜細亜(アジア)大陸の黒龍江の沿岸に育った世界でも優秀なツングース民族であったのです。
  いまからおよそ三千年前、黒龍江沿岸に住むツングース民族の一部族の一大将から、

「南に暖かい住みよいところがあるにちがいない。弟よ、おまえは一部隊を引き連れてそこへ行くがよい」

と言われて、弟は南へ南へと旅をつづけ海岸へ出ました。カヌーに乗ってこの海を渡り、やがて上陸したのが出雲地方で、これを出雲民族と呼んでいます。
  それからおよそ六百年ものちのことになりますが、南に行った部隊が暖かくて米が豊かに実る島を見つけた、という言い伝えがあるから、 おまえが行ってその島を治めるがよい、という、いわゆる

「豊あし原の瑞穂の国は我が子孫の君たるべき地なり、なんじ皇孫行きて治めよ」

というあの神前をいただき、一部族を引き連れて南へ南へと下り、玄海灘を渡って九州の日向に上陸しました。 しかし、あたりは原始林におおわれ、、視界はきかず、途方にくれてしまいました。幸い近くに商い山がありましたので、 尊の一行はこの山の頂に登って方角を見ることにしました。登った山は高千穂の峰であったわけですが、一行が方角を見きわめて下山したとき、ふもとの土人と出会いました。 尊は土人たちと戦いこれを征服しました。このとき土人たちは地にひざまずき。ことばがわからないながらも、身ぶり手ぶりで、

「おそれながら、どこからおいででございますか?」

と問うたのでしょう。尊は彼の山を指さしたとき、高千穂の峰は雲におおわれていたのかもしれません。 すなわち『天孫降臨』(てんそんこうりん)ということばはこのときに生まれたのではないでしようか。
   一行は大和の国にはいり、出雲民族に会いますが、尊は出雲民族の大将の娘『五十鈴姫』と畝傍山(うねびやま)で、 二月十一目に結婚式を挙げました。これが紀元元年、神武天皇となるわけですが、この神話を私は私なりに説明づけてみました。   これら伝説の中に日本武尊という英雄が出てきますが、この神様は一部隊を引き連れてご東征ということになります。
関東入りをした尊は荒川をさかのぼり、秩父へはいり、山を越えて武蔵国へ向かう途中、太駄(おおだ)付近で道に踏み迷い、 一番商い山へ登って方角を見ました。神が登ったという伝説から、この山を「神山Lと名づけました。また、 尊の一行は山のふもとを流れる川を見つけ、この川を下り、いまの金銀へたどりついたというのですが、 神が下った川ということで「神流川」と名づけられました。
   彼ら一行は、この金鑚付近一帯を住居圏として生活を始めたわけですが、尊の落とした金鑚神社のご神体と言われる火打石もこのころのことで、 それはいまからおよそ千八百年前と推定してもよいのではないでしょうか。
  この時代を基点として児玉文化が形づくられ、やがて児玉地方に点在する古墳時代となりますが、 青柳、金屋、長沖、秋山、生野などの一連の古墳群がそれで、八百以上を数え、いずれも千年から千五百年の年代を経ております。
  これら一連の古墳群と、大和地方や日向地方の前方後円墳、さちに大陸に渡って黒龍江沿岸にある古墳などの形態から、その移り変わりを知ることができましょう。
  その後、漢民族や高麗民族が陶芸や絵画、それに織物や鋳物等のいろいろの文化をもって移住しますが、 なんといっても仏教の伝来は文字を伝え、文化を急速度に進展させました。それから中央アジアからは精悍な民族が南九州に上陸しましたが、 これを薩摩隼人(さつまはやと)と呼びます。そのすぐあとヘネグロス民族が同じく九州南端へ上陸しますが、 薩摩隼人に、女だけ残して男はことごとく駆逐されてしまいます。これらと、もともとこの島に住んでいた手先のきわめて器用 な民族であるアイヌなどの血液が統合され一つになっているわけで、児玉の私たちの先祖はツングースを主体とした五つの民族から成り立つたいわゆる複合民族であるわけです。

2 古代

児玉の歴史は古く、田島三郎・柳進・金銀俊雄・児玉勲の各氏の説を総合すると、おおむね次のようです。

古事記や日本書紀により古代を研究し、さらに数多くの出土品等により推定しますと、児玉地方を開発しはじめたのは縄文時代からであろうと言われます。 また、それらの出土品の分布から考えて、十二天の山稜を中心として南東は美里村を経て寄居町末野にいたる線と、北西は小山川を渡って塩谷、宮内を経て神川村新里、 池田にいたる地帯を同一の文化圏として、住居村落を形成していたものと考えられます。
  弥生時代には、秋山丘陵や金屋小学校付近、それに生野山の住居跡などの一連のつながりから見て、丘陵から稜線へ、 さらに平坦地へと移行し広がっていったようです。古墳時代になっては、大和朝廷の勢力が大いに影響してきます。埋原、塚原、生野の三大古墳群には八百六十基の古墳が点在して、 県下でも集密度の高いところとして有名です。これらから推察して、当時児玉地方は進んだ大文化地帯であったと考えられ、人口の増加した今日の児玉町の基礎となる要素がすでに千五、 六百年も前に形づくられていたことを物語っています。

3 国 府 時 代

大化の改新に伴い武蔵(牟邪志)の北西にある児玉(遠峯、蚕玉、古太萬などの文字を用いた)、上毛野一族と、知々夫(ちちぶ) 国造一族の文化と伝統とを吸収して大いに開発されたようです。特に上毛野文化が、 条里制を実施して貢献したことは明らかです。それは上毛野一族が十条里開発について、大和朝廷の命令に従い この地に集団移住し、地区に分かれ住んでいたことでもわかります。そして赤城神社を守護神とした上毛野一族は、 赤城明神をこの地に移して祭り、ご本社に向けて北向五社明神を建ています。

児玉から出土したはにわ(児玉中学校蔵)

こうした、律令国家の発展に伴う条里制の施行や、官有牧場ならびに軍団等が開設されて、児玉地方の文化が急速度に成長しました。
  児玉地方の牧場には、阿久原牧と檜前牧(ひのくままき)これは美里村広木ですがiかおり、いずれも天皇直轄の御牧場でした。また軍団では遠峯(こだま)軍団と弘紀(ひろき)軍団がありました。   条里制については、児玉全域に開発されている水田のほとんどが当時の条里制にもとづくもので、とりわけ、美里村十条里、上里村七本木の久城(九条)が有名なものです。国府時代の農政の偉大 さにはほんとうに驚かされます。
  また、この当時は王朝文化を最高度に吸収したころとも考えられます。十二天山開山をはじめ、骨波田の長泉寺や小山川全域にわたる多くの伝説も当時をよく 物語っておりますし、坂上田村麻呂来訪説なども、高崎の観音山清水寺の開基と考え合わせ、遺跡と史実を研究したならば、郷土児玉史に更に新しい事実が発見されるものと思います。

児玉から出土した古鏡(大沢浄氏蔵)

4 児 玉 党 祖

大和朝廷による律令国家の成熟は、反面において行政上の矛盾などがあって、朝廷の恩恵にあずかれない者などは、 自ら力をたくわえて自分を守るようになりました。それが豪族として成長し、ついには隣の豪族と権力を争うようになりました。
  これらは行政の矛盾と思想の進歩から起こったもので、その結果は人意的施策や、制度の改変等を行なっても、どうすることもできなくなり、全国的に豪族が頭をもちあげ、 兵農の分離の基となっていったのです。

このころ、特に児玉に関係のあるのが、関白藤原道隆の一子伊周公とその家令です。公は、長徳二年(九七四年前)筑紫に移されていますが、 その家令、有道惟能は長徳二年二月にはその職を解かれ、その子惟行(遠峯=こだま)は式部大輔従五位下武蔵守となり、京都からその年に御牧の阿久原牧場別当として下向しています。 これは有道系図に記されていますが、藤原一族の生活が華やかであった裏面には、こうした犠牲者も少なくなかったようです。    惟行は武蔵守となって藤原氏の荘園を掌握して庄司になりましたが、のちに解任されています。しかし、解任されても阿久原牧場にとどまり、牧監を務めながら、 その子弘行、孫の家行とともに阿久原に住み、一族の勢力増強に努めたのです。 かくして武家発祥の風潮は処々に起こって、世はまさに戦国動乱となりますが、 後日、武蔵七党の雄として勇名をとどろかせた「児玉党」は武蔵守有貫主阿久原牧、牧監有道惟行の一族によって形づくられたのです。

児玉黨系統図

有道惟能 惟行(遠峯) 弘行 家行 家弘 弘高 家長 頼家 庄小太郎
  塩谷家遠 河内忠家 四方田弘長 本庄家次
富田親家 蛭河高家
真下基之--- ---真下弘忠 阿佐美弘方--- ---実高
 

5 武蔵七党の起こり

第四十三代元明天皇は、秩父黒谷郷から日本で初めて銅が採掘されたので、ことのほかおよろこびになり、西暦七〇八年に年号を和銅と改めて、 わが国最初の貨幣である和同間弥を鋳造しました。

″青丹奈よし奈良の都は咲く花の
におうが如くいま盛りなり"

と、当時うたわれ、きらびやかな物語がたくさん残されています。その反面、七代の天皇のうち、四代が女帝であったことや、天皇の近親者の争いや、 武力による権力等の争いがくりかえされました。さらに政治に手落ちが重なり、大和朝廷が建国の当初打ち立てた理想から遠ざかり、やがて起こる僧道鏡の非法や、藤原一族の皇位継承にからむ問題等、 奈良、平安の中央政治のびん乱から、これが地方政治へと波及し、それぞれの立場の役人も、自分の考え方で行政をつかさどるようになったため、民心の動揺をきたし、 武人が頭をもちあげてくるような結果になっていったのです。

この当時から、ナでに勇敢だと定評のあったのが武蔵国の武人で、これらは一族の団結を強固にして勢力の増強に努めていました。 やがて一党を組織して騎馬戦法を研究するようになり、日常は農耕に従事し、ときには弓や馬の訓練を行ない、一旦事件が起こると一族を引き連れて出陣し、 武勲による恩賞や勢力の増強の機会をねらっていたのです。

これらの組織を持って勢力のあったのが武蔵に七つあって、これを武蔵七党と呼び、その中で最も名の高かったのが児玉党でした。

このような武力本位の結党が高く評価されて、軍団の制度を根底からひっくりかえすほどの真価を発揮したのが保元の乱と平治の乱の二戦役であったのです。 つづいて源平二氏の争いを経て南北朝の争乱となりますが、このころの武人の物語中の大半は、これら武蔵の武人に属するものが多く、勇ましい話や、哀れにも悲しい物語などたくさんあります。

雨の夜、いずこからともなく来て桜の木を削り、矢立の筆で

″天こうせんを空しゅうするなかれ、
時にはんれいなきにしもあらず"

と、書き残して、いずこへともなく立ち去っていった哀れにも美しい物語など、これらに属する人ではないでしょうか。下浅見の真福寺をたずねでごらんなさい、 ここの古い墓石に『児島高徳』の文字が彫られてあるのを見ても、この歴史的人物は少なくともなんらかの形で児玉に関係ある人であったように思われます。

また、万葉集の中に大伴部真足女(おおともべのまたりめ)の歌として

″まくらたち腰に取り佩(は)き真愛(まかな)しき 夫(ろせ)がまき来む月(つく)の知らなく″

と、いうのがありますが、これは、お隣の美里村広木舎人山(とねりやま)の武人で「檜前舎人石前」(ひのくまのとねりいわさき) という二十二、三歳の若い武士の妻真足女が、夫を防人(さきもり)に送り出すとき、別れを惜しんで歌を作り夫に差し上げたものです。

「歌の意味は、いっも身近に離さず、 寝るときも枕元においていた武士の魂である刀を腰にさして、防人としていま遠い筑紫におもむくのであるが、任期は三年と決まってはいても、ほんとうに帰って来られるのか、その日がわからない、 待ち遠しいものである。からだをたいせつにして任務を果たし、一日も早く私のもとへ帰って来ておくれ。という真心こめた妻のせつない願いの歌で、」

いまから千数百年前の新妻のやさしい心境が脈々としていまに伝え残されています。過ぎし日の大東亜戦争に応召された軍人とその妻の心境を思うとき、さこそと感慨無量なものがあります。  

6 軍 馬 と 七 党

武蔵七党が、多くの戦いで勇名をほしいままにした理由はいろいろありましょうが、特に考えられることは、七党とも「牧場」に関係のあったことです。

これら牧場は、皇室が直轄して軍馬を養成していた「御牧」と、兵部省に属していた「国牧」に分かれていましたが、武蔵国の牧場はほとんど御牧で、 児玉の「阿久原牧」と秩父の「石田牧」が、ともに承平三年(一〇三七年前)に勅使をもって「御牧」となっております。お隣の美里村広木にあった「檜前牧」は当時の武蔵ではただ一つの「国牧」でした。

これら御料牧場や国牧のほかに武蔵にはいたるところに、駅の伝馬や農耕駄馬を飼育した牧揚も相当あったようで、牧場に関係ある地名や、 馬頭観世音が各地にあるのもその証拠の一つと思われます。

当時の戦争は、なんといっても騎馬隊が最高の武器で、いまの戦車にも匹敵するものです。したがって馬の良し悪し、 乗馬の上手下手、また、騎馬隊の数によって、勝負が決まったと言っても過言ではなかったようです。    

牧場で育った七党勢は子供のころから乗馬はお手のもの、良馬に打ちまたがって馬術を習い、 兵馬一体の訓練が大化の昔から伝わっていて、他国の武人のとうていまねのできないものを持っていました。七党勢は騎馬隊を先頭に、大地をひづめでけ散らし、 喚声と怒号の砂塵うずまく戦場をみるみる席巻して、関八州はおろか、日本八百余州を馬蹄でじゅうりんしたのでした。 武蔵七党とは、横山党、猪俣党、野与党、村山党、西党、丹党 それにわが児玉党の七つを指しております。特にこの七党中三つまでが現在の児玉郡下の武人が中堅であったことを思うとき、私たちの祖先の勇敢さを大いにたたえなければなりません。

児玉町に関係ある党人は、児玉党をはじめ猪俣党の河内郷木戸氏と丹党の塩谷氏(児玉党にもあります)がありますが、 このほか篠党があったという説もあります。また田島三郎氏の研究したところによりますと、美里村十条の熊谷が熊谷次郎直実の出生地ではないかということです。こうしたことで、   あまり文献に出ていない篠党についても今後研究する必要かおるように思います。

7 児  玉  党

武蔵権守となって児玉に移り住んだ家行は有道惟行の孫で、阿久原御牧に住み、この一族はそれぞれその地域 に分かれて児玉党の下地をつくり始めました。

家行の子家弘は弟家遠を塩谷に分家させ、三男を富田に住まわせています。真下に住んだ基行は家行の弟で、その子弘忠とともに、 児玉小中山の保家父子と助け合って、本家である家行の後ろだてとなり勢力増強に努めました。

児玉庄大夫家弘の子弘高は、源平の争いに一族でありながら、別かれ別かれに行動しているのは不利と知り、一族に相談をもちかけ、児玉党は強力に結束して、 他の党人にいためつけられないようにしました。

 いまから八百年前、家長のころには、児玉の地内にも、児玉、小中山、真下、阿佐美、塩谷、河内と一族の根拠地ができ、 さらに富田、四方田、北堀、今井、本庄、若水、薦田、新里、庄、若泉とその勢力が広がっております。これらの地名を、当時、その頭領がそれぞれ自分の姓にとり入れているのもおもしろい話です。

このころ歴史上有名な保元の乱が起きています。家長はこのとき後白河天皇の勅令を奉じ、源義朝に従って崇徳上皇がたを攻めに出陣しておりますが、 武蔵七党がその真価を認められ始めたのもこのころからです。つづいて平治の乱が起こり、児玉党勢は源義朝に従い苦杯をなめています。義朝のあとを継いだ頼朝は、石橋山に兵をあげましたが志ならず、 あわや一命を古木のウロにゆだねる結果となりました。しかし、おごる平家は久しからず、やがて京都は木曾勢に握られますが、義仲の横暴は頼朝を怒らせ、範額。義経による義仲追討となります。 この軍に従った児玉党の勇士は、河内庄三郎忠家とその従兄弟の塩谷太郎経遠、五郎維弘などです。世に言う宇治川の先陣争いや、また、四条河原の塩谷兄弟の奮戦はこの当時のことで<、 塩谷太郎が木曾方の信濃の住人長瀬判官と水中で格闘し、物具を取り、みごと首を討ち取って勇猛をとどろかせた話は、のちの語り草になっています。  

このころの七党勢は、源氏兵力の本隊であって、源氏に忠誠を誓い各地で功名をあげていますが、義仲追討は源氏同士の勢力争いであったため、不幸にも児玉党の中には義仲の配下の武士も少なくなかったのです。 その中のひとりに蛭川刑部庄四郎高家がいました。高家は、河内庄三郎忠家や阿佐美庄五郎弘方と兄弟ですが、兄弟でありながら敵味方に分かれてしまいました。
兄の忠家は弟を心配して、            

「木曾殿(義仲)をあきらめて義経につけ」            

とすすめましたが、高家は、

「弓矢の道にある私としては、兄上のお心はよくわかるが、そのような不義はできない」 と断わりました。

その後、義仲は近江の粟津で大敗し討ち死にしてしまいましたが、義仲の四天王のひとり樋口次郎兼光を中心にして、 高家はなおも義経に戦いをいどもうとしていました。それを知った兄忠家は。再び使いを立てて、

「御大将の亡くなられたいまとなっては、もう義理も立つたであろうから、義経がたで一族が力を>合わせて勢力を大きくしよう」

と相談をもちかけました。しかし、高家は

「兄上の私を思ってくださる情はよくわかりますが、兄弟の情と主従の情は別です。武士と心得て>いる私は、 ふたりの主人に使えることはできませぬゆえ、このことだけは兄上どうかあきらめてください。 そのかわリ兄上の面目をたてるために、今度の合戦にはまっ先に打って出て討ち死にし、 後世に名を残す覚悟です。お腹だちでもありましょうが、私の意のままにさせてください」

と使いを返しました。いかに兄忠家でも、弟高家の固い決意にとるすべもなく、こうなったからには弟を人手に渡さず、 自分の手で首をはねてやることだと心ひそかに時のくるのを待っていました。因果はめぐって、 弟蛭川高家は、児玉党旗である団扇の旗差し物に身を固め、馬上豊かに先陣きって進んで来ました。 かたずをのんで待ちかまえていた兄河内忠家も、これまた回扇の旗を背中になびかせて義経の陣中から打って出て、 馬上の組み打ちとなったところ、義経勢の郎党に取り押えられて、高家は兄にいけどりになってしまいました。 戦いが終わっていままでのことを義経に申し上げると同族相争う源氏のありさまにひきかえ、 主従の心の持ち方や、兄弟の情の美しさに感激した義経は

「高家の心がけは武士の手本である。そちの一命をこの義経にくれ」

と申し入れたので、高家は、義経のりっぱな大将ぶりに感服し、 死を思いとどまり、義経に忠誠を約しました。それからの義経の先陣にはいつ全局家の姿があって、その奮戦ぶりが目だっていました。

その後、平家追討の源氏車は一ノ谷の総攻撃となり、武蔵七党勢は言うに及ばず、畠山、熊谷等の豪族もくつわを並べ、 風に波打つ旗差し物は物々しく絢爛絵巻をくりひろげ、勇ましい多くの物語が伝えられていますが、 児玉党の勇士の活躍もまた目ざましく、中でも蛭川高家は平家の大将但馬守経正を討ち取る殊勲をたてたり、 また、児玉庄太郎家長は、従三位左近衛中将平重衡(たいらのしげひ)を須麿の浦でいけどって、 おじ高家とともに児玉党の名を天下にとどろかせました。

団扇の旗印

文学博士沼田頼輔氏の著した「日本紋章学Lによりますと、「源平盛衰記の中に『団扇ノ旗サシテ児玉党七騎ニテ追ケ奉ル』とある。 この団扇紋が初めて史籍に見えているので、家紋として用いたのは児玉党の順扇が元祖といえる」
とあります。

団扇の旗印

文学博士沼田頼輔氏の著した「日本紋章学」によりますと、「源平盛衰記の中に『団扇ノ旗サシテ児玉党七騎ニテ追ケ奉ル』とある。 この団扇紋が初めて史籍に見えているので、家紋として用いたのは児玉党の順扇が元祖といえる」
とあります。