系図の検討
児玉黨の系譜と系図
(本庄市史 通史編 Ⅰより転記)
児玉党の系譜 (本庄市史 通史編 Ⅰより転記)
(イ)藤原伊周の子とする系図

武蔵七党系図
鈴木真年蔵本「武蔵七党系図」
武蔵総社文庫蔵本「武蔵七党系図」
小代氏文書「児玉系図」
四方田家系図
菊池系図

(ロ)藤原顕長の孫とする系図

庄氏系譜
児玉三郎右衛門広長家系図
児玉主計広高家
小幡氏系図
藤原朝臣姓 藤氏 廿八

(ハ)物部氏を起源とする系図>

児玉党の起源と系図 

有道惟行きを児玉党の祖とすることは、伝えられている大部分の系図が一致している。有貫主(ありかんじゅ)と称せられたことも 有氏のかしらだった人という意であろうし、今日までの研究からも疑う余地がないようである。しかし、有氏あるいは有道氏の起源や惟行の父・祖父などの点になると、いろいろな説がある。
惟行の出自については、系図などによって、大きく三説に分かれる。

(一)藤原家(北家)の流れをくむとする説。
(二)藤原家(北家)の家令であったとする説。
(三)物部氏の流れをくむとする説。

このように、出自についていくつかの説があるのは、児玉党の系図に限ったことではなく、他家の系図でも、同じように、起源については不明瞭な部分があることが多いものである。 しかし、作為があったから、書き間違えがあるからといって、その系図の史料的価値がなくなったわけではない。おのずから、それらが解明され、かえって隠された歴史、事実を知ることも可能となろう。 このことは、系図ばかりでなく、歴史書に於いても同様である。児玉党の系図は十数点ある。その系図は、次のように大きく三つの種類に分けられる。

(イ)藤原伊周(ふじわらのこれちか)の子とする系図>

惟行きが北家藤原氏の流れをくむとする系図は二通りあり、その一つは藤原伊周の子とする系図である。その代表的なものが、「武蔵七党系図」にある児玉党の系図である。 「武蔵七党系図」は、児玉党を調べる上で、根本史料とも言うべき存在の系図で、南北朝頃に成立されたと考えられる。
武蔵七党系図

続群書類従(ぞくぐんしょるいじゅう)続巻第百九』(続第五輯上)収録較的、利用されている系図で、児玉党についての始めの部分には、
號有貫主又伊行首イ 惟イモ云延久元年八月七日死去

とある。遠峯の註記{有貫主又伊行モ云 延久元年八月七日死とある。「首イ」とか、「惟イ」とか書かれている部分の「イ」は異本のことである。照らし合せて本には「主」が「首」と書かれ、 「伊」が「惟」と書かれているということである。つまり異本には、「首又惟行片云 延久元年八月八日死去師内大臣伊周二男。」と書かれている。
鈴木真年蔵本「武蔵七党系図」
『系図綜覧 下巻』収載

鈴木真年旧蔵本と呼ばれる系図で、活字本となって『系図総覧 下巻』に収められている。児玉党の系図の始めには、「○児玉有道氏 元藤原」とあり、 次に前記の本と同じように児玉党一族の名字が連記してある。
薦田弾正左衛門 {太平記冊二、文和四年二月四日、 神南合戦、属佐々木道譽手打死}

この系図は、前の「続群書類従」のものと類似しているが、始めの「児玉 有道氏 元藤原」とあるのが、前記の本では「有道氏 改藤原」とあり、また「遠峰者藤大納言」ともある。
武蔵総社文庫蔵本「武蔵七党系図」

埼玉県さいたまけん東松山市ひがしまつやまし冑山かぶとやまの根岸家に伝来したものを、慶応四年に、根岸武香 はなわ氏本しほ゜んと校合したと言う。そして塙氏本は水府本すいふぼんと校合したと言われる。

この系図は、他の「武蔵七党系図」に比べると、大分異なっている。惟行きを遠峯の子としていること、経行の子重行を保義の孫としていることなどである。 遠峯の註に「高城藤原三条院隆家卿師時師重清高木也」とあるが、これは、鈴木真年本の庄弘定の頭書に「高木城、藤原、三条院時隆家卿高木也 師時重清」とあるのと同じ文意である。この高木氏は、後で述べる菊地系図の菊地氏と同族である

小代氏文書「児玉系図」
「肥後古記集覧」収載

児玉党小代氏に伝わっていた系図で、大石真麻呂が文政四年に編集した「肥後古記収覧」に収録されている。

継女也経重者畠山庄司 次郎重忠一腹舎兄也
この系図には武蔵七党系図に見られない記載がある。
(1)遠峯の兄に、政則(菊地氏の祖)がいる。
(2)経行の子 行重の妻を秩父武綱の娘としている。また、秩父氏との記載が詳しい。
四方田家系図

本庄市四方田七八番地の四方田家(四方田義雄氏)に伝わる系図である。巻子仕立てとなっており、明治時代にそれまで四方田家に伝わっていた系図を書き替えたようである。
最初に藤原北家の系図が書かれ、次に「武蔵七党系図」と同じ系統が書かれており、四方田七郎高綱の後裔で四方田七郎村重に続くものとしている。そして、村重の後に智応  元慶  実明  実忠を加えている。
この部分は武蔵総社蔵本「武蔵七党系図」の巻末に、収載されている系図と同類である。その後に、四方田重忠儀定以降、四方田賢重までが記載されている。
と校合したと言われる。


菊池系図
続群書類従 第百五十一』(第六輯下)

肥後国(熊本県)の住人である菊地氏の系図である。前記の小代氏文書にみられる遠峯の兄政則がこの菊池氏である。 しかし、後述のように、菊池氏の起源が藤原氏の子孫でないことは確かめられている。

(ロ)藤原顕長ふじわらあきながの孫とする系図

惟行を藤原伊周の子顕長の孫とする系図は、備中岡山県の『庄氏系図』(安芸国(広島県」)の『児玉三郎右衛門広長系図』、同国『児玉主計広高家系図』、 山形県米沢市立図書館蔵の上杉文書『小幡氏系図』、それに
系図纂要けいずさんよう藤原朝臣姓ふじわらあそんせい』などがある。
庄氏系譜 『岡山県古文書集 第一輯 備中莊家文書しょうけもんじょ

庄(莊)氏は児玉党の嫡流である。平家追討に際し戦功があった庄太郎家長は、平家没落後、備中が欠国となったため守護代に任ぜられ、猿掛(岡山県矢掛町)に城を築いた。 庄氏が備中に定住するのは、これ以降である
児玉三郎右衛門広長家系図、『語録』 略系伝書

惟行の子、惟親の後裔としている家で、安芸国毛利家の家臣となった。後に主家の移封に従い長門国『山口県』萩に移った。なお、前記同様、惟行の子として四人を記載している。


児玉主計広高家『譜録 略系伝書』

惟行の子、貞行の後裔としている家で、安芸国(広島県)毛利家に仕えていた。後に主家の移封に従い長門国(山口県)萩に移った。なお、惟行の子として、広行・経行・貞行・惟親の四人を記載している。
    系図の標題に「児玉主計高家 姓藤原」とある。系図は上記「広長家系図」と同じである。

小幡氏系図  山形県米沢市立図書館『上杉文書 九三七』

米沢上杉家に伝わるもので、原本はなぐり書きの備忘録的なものである。小幡三河守の系図で、惟行の子として、弘行・経行・貞行・惟親の四人を記載している。
   系図の標題に「児玉主計高家 姓藤原」とある。系図は上記「広長家系図」と同じである。


藤原朝臣姓 藤氏 廿八  『系図纂要  三四』

     内閣文庫所蔵のもので、編著者は安政の大獄に連座して飯田忠彦といわれる。


物部氏を起源とする系図

この系図は児玉党の起源を物部氏に求めている。惟行の父として惟能を載せ、 惟能は内大臣藤原伊周の家令であったとしている。『医道系図』 『荘系図』などがある。
『荘系図』

荘系図は、表題『武蔵七党之内児玉党荘系図写』とあり、半紙半折である。上里町長浜一〇五〇番の庄宗三郎家に伝わる文書(M1294) 惟行の父は、物部氏から出ており、 藤原伊周の家令であつたとしている。そして、惟行以降の記載は『武蔵七党系図』とほぼ同じようである。
     内閣文庫所蔵のもので、編著者は安政の大獄に連座して飯田忠彦といわれる