系図の検討
児玉黨の系譜と系図
(本庄市史 通史編 Ⅰより転記)

系図の検討(藤原氏の流れ)

維行(遠峯)を児玉党の党祖とすることについては、このように諸系図の一致するところであるが、維行の出自となると系図によってまちまである。

維行を伊周の子とする系図と、維行を顕長の孫とする系図を検討してみると、
両者の違いは系図が伝えられた子孫の地域性にあると推定される。すなわち、前者は九州の肥後の国(熊本県)付近で、後者は備中国(岡山県)付近である。

(イ) 藤原伊周の子とする系図の検討

維行を伊周の子とする系図は、『小代氏系図』、『菊池系図』とそれに『武蔵七党系図』である。この系図は、又、維行の子として弘行・経行の二人だけ載せている。この点、 顕長の孫とする系図が、維行の子として弘行・経行のほか貞行・惟親の四人を載せていることに注目しておかねばならない。小代氏は弘行の子・(西相行(さいすけゆき)の次男・次郎太夫遠弘を祖としている。入西郡(入間郡) 小代郷に居住し、小代氏を名乗った。宝治元年>(一二四七)六月二十三日、小代重俊は、肥後国野原荘(熊本県荒尾市)の地頭に補任されたが、肥後国へ向わず、小代郷に居たようである。結局、後に小代氏は肥後国へ下るが、その年代は明らかではない。 文永八年(一ニ七一)蒙古襲来の時以降と考えられているようである。ところで、前後してしまったが、 惟行の父といわれる藤原伊周と九州との関係について、まず、ふれていきたい。

藤原伊周

伊周の父は道隆である。道隆(みちたか)は、永祚(えいそ)二年(九九〇)五月、兼家(かねいえ)摂政(せっしょう)を辞した際に、内大臣から関白となり、まもなく摂政になった。後に、 中関白家(なかのかんぱくけ)と呼ばれるのは、この道隆一家である。翌年の正月、道隆は、十八歳の伊周を参議とし、九月に従三位権 中納言、さらに翌々年には権大納言、そして正暦五年 (九九四)八月には二十一歳で内大臣にしている。この時、後に伊周と熾烈な政争をする叔父の藤原道長は二十九歳で、もちろん、伊周より位は低かった。しかし、道隆は、関白となった五年後の 長徳元年(九九五)四月、病気がもとで死んでしまった。道隆の後は、当然、子の伊周が関白となるとみられたが、若い伊周に思いあがった態度があり、関白の宣旨は右大臣であった道隆の弟の道兼に下された。 ところが、この時、道兼は重病にかかっていた。その年の春頃から、京都では疫病が流行していたのである。十四人の公卿の内八人までが次々に死亡している。道兼は、五月二日に参内したが、 八日には病死してしまった。このため七日関白と呼ばれた。再び関白の座に、伊周の名が取り上げられたが、叔父の道長の名も並んであげられた。 伊周は道長より高い位で、妹の定子(ていし)は一条天皇の中宮(ちゅうぐう)となっていた。一方、道長は天皇の母であった姉詮子(あねせんし)が後にいて援(たす)けていた。兄道兼の後を継ぐ資格もあった。五月十一日、 道長に内覧の宣旨が下され、翌月には右大臣となって、官職の上でも伊周を追い越してしまった。

伊周は道長を快く思わなかった。七月の左近衛陣の会議の席上で道長と大口論を起こしたり、七条大路で伊周の弟中納言隆家の従者が、道長の従者と弓矢を射あう事件を起こしたりした。8月に入ると、 紛争は拡大し、隆家の従者が道長の随身を殺してしまう事件まで起こった。さらに翌長徳二年(九九六)正月、伊周の敗北を決定ずける事件が起こった。かねてより、伊周は故太政大臣藤原為光の娘三の君のところへ 通っていたが、その頃、その妹の四の君のところへ花山法皇(かざんほうおう)が通い始めた。ところが、伊周は、法皇が三の君のところへ通っていると誤解し、法皇を脅して手を引かせようと、弟の隆家 と共に、月あかりの夜、法皇を待ち伏せし、矢で法皇の袖を射抜き、従者二人を殺してしまった。三月には、伊周が道長の姉三上院を呪詛(じゅそ)したという噂がたち、四月には、大元師法を行ったと密告された。 このようなことから、伊周より地位が上となった道長らによって、伊周と隆家は流罪されてしまった。完全に政争の敗北である。伊周は太宰府(福岡県)に、隆家は出雲(島根県)に流されたが、翌長徳三年(九九七) 三月の大赦で京に帰った。しかし、既に政権は完全に道長に掌握されていた。

『武蔵七党系図 児玉党』(『続群書類従本』)の遠峯の註記「父公左遷之時 依外祖道氏遠行・・」記事は、 伊周が太宰府に流罪になったことを指している。

  藤原道長
 

伊周・隆家兄弟が左遷された年、長徳二年(九九六)七月に、三十一歳で官職の最高位である左大臣に任ぜられた。しかし、左大臣になっても、摂政・関白の地位につかず、 内覧・左大臣でとうした。二十年後の長和五年(一〇一六)に、後一条天皇の摂政(一年二ヶ月間)になり、寛仁元年(一〇一七)には太政大臣の位を贈られたが、二ヶ月あまりで辞退している。俗に「御堂関白道長」と呼ばれているが、 このように道長は関白になったことはなく、 後世の人が誤用したものである。万寿四年(一〇ニ七)十二月四日、六十二歳でこの世を去った。
  藤原隆家
 

隆家は、大赦の後、長保四年(一〇〇二)にもとの権中納言に任ぜられ、つづいて中納言となり、長和三年「一〇一四」に太宰権師を兼任して、筑前国(福岡県)の太宰府(博多市)に赴いた。 今度は左遷ではない。寛仁三年(一〇一九)三月、「刀伊の入寇」という事件が起こった。満州「中国東北地方」より朝鮮半島北部にかけて勢力のあった女真族が、五〇余隻の船で、対馬・壱岐をはじめ、北九州沿岸の肥前国 (佐賀。長崎県)松浦から筑前国博多にかけて襲って、略奪や殺傷をした事件である。その報は、四月七日、太宰府についた。隆家は、直ちに太宰府の兵を繰り出し、警固所の軍を増強したり対策を講じた。八日、刀伊(女真族)博多に上陸して、 そこで激戦がおこなわれた。この戦闘で戦術も知らない隆家を助けて、刀伊を撃退したのが、小代氏系図に見られ、惟行(遠方)の兄とされる蔵規(政則)である。

この藤原伊周の家系を『尊卑分脈』で見ると
    道隆<--伊周-- 道雅
            隆家    某
                    某
                    女
                    女

となっていて、維行や遠峯の名は見えない。他の藤原氏に関する系図にも、更に藤原道長の栄華を中心に描いた『栄華物語』等にも、維行や遠峯の名を見出すことは出来ない。維行や遠峯が、本当に伊周の子か、あるいは孫であるのかという 疑問も生じてくる。
『菊池系図』と『小代氏系図』について

そこで、維行が藤原伊周の子とする『菊池系図』にふれてみる。『小代氏系図』では、維行の兄として政則をあげているが、政則がこの菊池氏の祖である。 菊池氏は肥後図の住人である。『小代氏系図』は別としても、菊池氏の起源も児玉党の起源と同じように藤原道隆の後裔としている。ただし、伊周ではなく、弟の隆家の後裔としている。そして、また、児玉黨の系図と同じように、道隆から政則にいたるまで、 親・子・孫の関係が系図によって異なっている。 菊池氏の起源については、長い間研究がなされ、いくつもの研究成果が発表されてきた。そして、昭和三四年、熊本市の志方正和氏は、『菊池氏の起源について』という論文を発表し、 菊池氏が藤原氏の後裔ではなく、肥後の住人であったことを明らかにした。(「熊本史学15・16合併合」)一一世紀に起きた「刀伊の入冦」については、前述の藤原隆家の項でふれた。その時、大宰少弐に任ぜられ、隆家を補佐し活躍 した人物に藤原蔵規という人がいた。その戦功で対馬守に任ぜられた武士である。そして、当時の種々の史料から、「蔵規」の[蔵」は「マサ」と読むことが明らかになり、「蔵規」は菊池氏の祖、「政則」であると推定された。 政則は、隆宏が大宰権帥として下向する以前、筑前国(佐賀・長崎県)嘉穂郡高田荘にあったと比定され、そして、右大臣藤原実資の家領とされる高田牧の牧司であった。隆家と結ぶのは、刀伊の入冦の頃からで、やがて子の則隆も 隆家の郎党となった。このように、藤原氏の後裔ではなかったということである。政則は、隆宏が大宰権帥として下向する以前、筑前国(佐賀・長崎県)嘉穂郡高田荘にあったと比定され、そして、右大臣藤原実資の家領とされる高田牧の牧司であった。 隆家と結ぶのは、刀伊の入冦の頃からで、やがて子の則隆も隆家の郎党となった。このように、藤原氏の後裔ではなかったということである。
『{小代氏系図』と『菊池系図』

菊池氏については、このように、藤原隆家の後裔ではないことが明らかにされたが、『小代氏系図』や『武蔵七党系図』のはじめの部分は、この『菊池系図』となんらかの形で照合されたと思われるふしが見られる。                                                   『小代氏系図』に記載されている維行の兄、政則(菊池氏の祖)は、武蔵総社本『武蔵七党系図』にある遠峯の註記「有貫主実ハ伊周公二男」(維行が二男であるから、長男がいることになる)の兄と同意義と考えられる。
   さらに、武蔵総社本『武蔵七党系図』に記載されている遠峯の註記にみられる「高城 藤原三条院隆家郷師時重清高木也」と、鈴本真年本『武蔵七党系図』に記載されている庄弘定の頭書「高城 藤原 三條院時隆家郷高木也 帥持 重清」は、 『菊池系図』との照合をうかがわせる。系図上、隆家は菊池政則の父あるいは祖父とされ、帥時とあるのは隆家のことを指し、高木とあるのは菊他家と同族の高木氏を指している。三條院(時)は隆家が長和三年(一〇〇三)大宰権帥になったことをいい、帥持は、あるいは「帥の時」のことであろうか。    一方、『菊池系図』にも、伊周の注記に「(略)児玉党祖寛弘七年正月廿八日とあるように、児玉党系図との照合がうかがえる。   小代氏と菊池氏は、それぞれ肥後国(熊本県)に居住していたから、両氏が互に接触していたことは当然考えられることである。そうしてみると、『小代氏系図』および『武蔵七党系図』は起源についても多分に『菊池系図』を考慮して作られたことが想像できる。とすると、 児玉党の起源も菊池氏の起源と同じように、藤原氏に結びつけるのは無理であるといえよう。   さらに付け加えれば、『小代氏系図』や『武蔵七党系図』をはじめ、維行を伊周の子とする系図では、維行の子として弘行・経行の二人を記載し、弘行に「弘」の字を用いている。それに対して、西日本に伝えられている顕長の孫とする系図では、 「弘行」を「広行」に、また「維行」を「惟行」としたものが多い。
(ロ) 藤原顕長の孫とする系図の検討

また、顕長の孫とする系図、つまり、

道隆――

伊周――

通雅

顕長――遠岩――惟行――広行

―経行

―貞行

―惟行

とする系図は、備中の『庄氏系図』や安芸の『児玉家系図』のように、西日本の地域に伝わる系図に限られているようである。 この系図では、維行の父として遠岩という人物を記載している。この遠岩という名であるが、父が顕長で、子が維行で、通り字の使用が見られない。また、藤原氏や児玉党の実名の中に、「遠」の字の実名がないわけでもないが、使われ方が不自然である。このことから、   遠峯惟行とあったのを遠峯-惟行と二人分の名にうけとり、「峯」を「岩」に誤写してしまったと解釈するのが妥当ではないだろうか。このような例は他にも見られ、武蔵総社『武蔵七党系図』では「遠峯―雅行―弘行」と記載されている。  なお、この類の系図では、「維行」を「惟行」とし、その子に、広行・経行・貞行・惟親の四人を記載している。そして、「弘行」を「広行」とし、また、「定行」を「貞行」としている。こうしてみると、この系図も後世に藤原氏と結びつけるための作為と推測される。   そして西日本と九州との地域差が、一方が顕長の孫と、他方が伊周の子となったものであろう。

(ハ)児玉党と藤原姓

児玉党の起源を藤原伊周に結びつけたのは何故かという問題について考察してみよう。児玉党は有道を姓としていた。例えば、小代文書 承元四年  年(一二一〇)三月廿九日の「沙弥行蓮小代行平譲状」には「右村并やしき有道としひら沙弥蓮やうしたるによりて云云」とあり、大德寺文書二〇七〇、弘安八年  (一二八五)七月廿八日の「沙弥静心田地寄進状」(史料)には、地頭有道時綱四方田氏)と記されている。有道姓が藤原となるのは何時頃のことだろうか。『武蔵七党系図』  (武蔵総社本)の長家の註記に「元弘三年十一月十一日 如元可為藤原之由被宣下 一イ又庄四郎左衛門尉長家武者所祗候之時有被書藤原長家なり」とある。そして、長家については、『雜訴決断結番交名 建武八』       『続群書類従』)の二番東海道の部には「庄左衛門尉藤原長家」とある。小代氏の場合も、建武三年(一三三六)九月十八日の小代文書「小代重峯軍忠状」に藤原重峯とある。こうしてみると、長家の系統ばかりでなく児玉党全体に藤原姓へと改められたとも受け取られる。 そして、有道から藤原姓へと改姓したのは南北朝の初期頃と推定されるこのようなことから、伊周の後裔としたのは、この頃に作為されたとも受け取れる。元弘三年(一三三三)に「元の如く藤原氏たるべき由宣下下さる」とあるのが事実であれば、当然、長家がその旨を奏請したものであろう。 ちょうどこの年、後醍醐天皇は京都に戻り、「公家一統」の政が行われる。新しい政治は、記録所・恩賞方・武者所・雜訴決断所など中心に行われることになるが、先の庄左衛門尉藤原長家の雜訴決断所は領地についての争いごとを裁く役所で、当時の名の知れた公家・武士はこの役所に参加していたという。 このような世であればこそ、藤原姓を唱えることにより、由緒ある家柄としたのであろう。公家に多い藤原姓を名のることは、この上もなく名誉であったかもしれない。「元の如く」という意味であるが、維行の父が誰であるか不明の今日では正すべくもない。 あるいは、阿久原牧の別当に藤原条維なる人物がいるが、もし条維と維行とが関係が有るとすると藤原氏との関係も考えられぬでもないが、条維と維行との年代差があるものと推測される。いずれにしても、維行以降南北朝のころまで、有道姓を名乗っていたことは確かである。
 以上 本庄市史 通史編 Ⅰ P616~625より記載