金鑽神社
金鑽神社の地域
(本庄市史 通史編 Ⅰより)

式内社金鑚神社の鎮座する地域も譲渡の対象となっていない。この地域は、本宗家の所領というより、 金鑚神社の神領であったと考えられる。なお、児玉郡に居住した児玉党の諸氏は、金鑚神社を敬拝し、居住地に勧請した。平安時代末期における児玉郡の所領の分割譲渡過程は、 以上のようになる。このように系図にみられる嫡子家と庶子家の分立過程が、平安時代末期の児玉黨諸氏の分布と一致している。これは入西郡を譲られた入西三郎 ruby<>相行すけゆき(資行)の子孫についてもみられる。児玉郡に所領を譲られた維行の子孫たちは、その土地の名を名字とした。そして、 其地に館を構え、館の周囲には堀と土塁をめぐらせた。今日の四方田・栗崎・北堀地内に「堀ノ内」と呼ばれ、堀や土塁の一部が残っている場所が、其館の跡である。 このほか、西富田・牧西地内にも「堀ノ内」と呼ばれる場所がある。これも当時の館で、堀や土塁があったが、埋められたり削られたりして、平地になってしまい面影は見られない。 また、児玉郡に居住した維行の子孫たちは、金鑽神社を居住地に勧請したようである。『延喜式』にも記載されており、古来から児玉郡の人々に敬拝されていた神社である。 市内の今井・富田や、児玉町の真下・浅見など、児玉党支族の名字のつく旧村々にある金鑽神社がそれである。金鑽神社は、児玉郡のうちでも九郷用水堀関連河川流域を 中心に分布しているが、見馴川流域にも分布している。このようであるため、金鑽神社を用水の守神として崇めている。本庄宿、本庄領の総鎮守で創建は欽明天皇の頃と 伝えられて居り、其後寛永十六年(1639)本庄城主信嶺の孫関宿の城主小笠原忠貴が社殿を寄進した云ふ。鳥居前に樟の大木がある。形よく成長しているその偉容に圧倒されて、 ただただ見上げるばかりである。今でも神域をはみ出しているのであるから、この後ももぐんぐん成長して本庄の町をその枝の下に抱え込んで仕舞うかもしれない。

『堀の内』と金鑽神社

児玉郡に所領を譲られた維行の子孫たちは、その土地の名を名字とした。 そして、その地に館を構え、館の周囲には堀と土塁をめぐらせた。今日、市内の四方田・栗崎・北堀地内に「堀ノ内」と呼ばれ、堀や土塁の一部が残っている場所が、 その館の跡である。このほか、西富田・牧西地内にも「堀ノ内」と呼ばれる場所がある。これも当時の館で、堀や土塁があったが、埋められたり削られたりして、 平地になってしまい面影はみられない。 また、児玉郡に居住した維行の子孫たちは、金鑽神社を居住地に勧請したようである。『延喜式』にも記載されており、 古来から児玉郡の人々に敬拝されていた神社である。市内の今井・富田や、児玉町の真下・浅見など、児玉党支族の名字のつく旧村々にある金鑽神社がそれである。 しかし、この中には、本庄地区の金鑽神社のように、元の鎮座の所より移されたり、後世、新たに勧請されたもの、由緒の不明のものもある。館との関係を検討すると、 児玉郡の秘められた歴史が浮かびあがってくるようである。金鑽神社は、前の図のように、児玉郡のうちでも九郷用水堀関連河川流域を中心に分布しているが、身馴川 (小山川)流域にも分布している。このようであるため、九郷用水堀を利用している村々では、金鑽神社を用水の守神として崇めている。

1)栗崎地内

児玉党本宗家の館と推定されるのは、栗崎地内宅地付の「堀之内」である。一般には、 中心部の栗崎二十五番地の根岸平一の屋敷を「堀之内」と呼んでいる。館の規模は、周辺の地域まで拡がっているものと考えられるが、全貌については明らかではない。 この館が本宗家のものと考えられ理由は、所領譲渡で触れられたように莊太郎家長の代に本宗家の地として残ってのが、この地を中心としした地域であったことをあげた。 栗崎の金鑽神社の由緒にも同じような伝承が残っている。この神社は年代不詳であるかが、莊太郎家長が勧請したものと伝えられている。 神社は館の西方約四百五十メートルの浅見山丘陵の中腹にあり、この南西に隣接して、本宗家の菩提樹ともいうべき有勝寺がある。

2)下児玉の金鑽神社

有勝寺を出て国道31号を美里町に向かってしばらく走り、右折して国道352号に入る。しばらく走ると信号機がありそこを左折、しばらく走ると、右手一郭に 墾もりとまでではないが茂ったところに下児玉町金讃神社が見えてくる。

3)児玉町下浅見の金鑽神社

次の児玉町下浅見の金讃神社に訪問、今来た道を、信号機のある交差点までもどり、そこを左折し352号を直進ししばらく走って左折。地図上では、途中から 狭い道になっており、 アテンザが通れるかどうか心配、案の定狭くなり、離合がようやっとできる位の広さ。そこを250m近く走ると、今度は離合できない、アテンザがぎりぎりに通れるぐらいの道、その先50m行くと、離合可能なので通ることに決めて、 途中に神社があるためいかざるおえない、その道に入るとすぐ右側に神社かあった。ここがまた大変、両側に民家がありぎりぎり、一台通るのがようやっと、その先5mのところに石段、曲がるのに工夫がいる、ここに入れば、安心、 他の車が通ることができるから、ゆっくりみることができる。いったん降りて、確認、何回かハンドルを切ってなんとか入ることができた。参道の両側が竹林になっており、右側のその向こうは畑、左側もおそらく畠だろう。 まず驚いたのは古墳があるところに神社がある。ほかに、日本のどこかにこのような状態の場所があるのかな。古墳は五世紀中葉に築造された児玉地域最大の円墳で、全国的にも例のない叩き目をもつ円筒埴輪が樹立されていた。 二棟の社の後ろは、5,6m程度小高くなっていて、直径10mぐらいの広さになっている。木もかなりしげっている。神社境内を含めるとかなり大きな円墳に思える。 二棟の内の左側には、左から疱瘡神社、絹笠神社、手長男神社、 菅原神社がまつられている。右側は、左から八坂神社、稲荷神社、伊勢神社、二柱神社がまつられている。
いもがさ【疱瘡】天然痘の古名。また、そのあと。あばた。もがさ。いも。
ほうそう(ハウサウ)【疱瘡】天然痘の別称。また、種痘やその痕をさしてもいう。疱痘。瘡の神(かみ)祈れば疱瘡にかからなかったり、軽くすんだりすると信じられた神。疱瘡をうつしてまわると信じられた疫神。
ほうそう‐え(ハウサウヱ)【疱瘡絵】疱瘡よけのまじないとして、紅(べに)で鍾馗(しょうき)、桃太郎、鎮西八郎為朝などを描いた赤刷りの錦絵。うそう‐がみ(ハウサウ‥【疱瘡神】

4) 児玉町蛭川の駒形神社

細い道をとりぬけて、352号に出て、蛭川に向けて走らす。蛭川交差点を左折して462号に入り、しばらく走ると右側に駒形神社がある。境内が広い。鳥居の裏側に、 平成六年十二月月吉日蛭川氏子中と彫られていた。ここの神社の狛犬は本殿の柱の上にほられている。そして本殿後ろの社の右側に、爛漫の形式で蛇が彫られている。一風変わった特徴のある神社だと思った。本殿の裏側に三つ小さな社がるけれど、 祭られている神様が書かれていない。

5) 神川村二の宮の金鑽神社

児玉ICを降り、阿久原あぐはら・有氏神社に向けて国道462に沿って登ってゆく。目的地10までキロ近くあるのかな。約5キロ走ると、 児玉町仲町の交差点に差し掛かる。 そこを右折、しばらく走って左折、しばらく直線で、右急カーブするところに石の大きな鳥居が見え、速度を落としゆっくり走っていると、「金讃神社」と大きな字で刻まれていた、空き地に止めて、写真をとる。仲町からここまで約5キロ、インターンから約10キロ。 奥に駐車場あり、ということでそこに止めて境内を散策することにした。奥に入ってゆと、右手小高い所に多宝塔が鎮座、天文三年(1534)>阿保弾正全隆が寄進。さらに奥に入ると鳥居が見え、その先に八代が鎮座、本殿かなと思いくぐってゆくと 右手にひときわ大きい建物本殿がちんざしていた。その正面の右側に古木 「椿」、後ろに手洗い、正面から入ると、深々と二礼、二拍、一礼との注意がきがあった。一応拝み、右手に回ると、祈願所のいりぐちがあった。正面左手奥に進むと、芭蕉の句碑があった。 その横に石に彫られた案内岩があり、その先は、鏡岩・句碑の重へ、さらに御嶽山みたきやまがあり、眺望が素晴らしいと書かれていた。木の階段を登ってゆくと、両側の道沿いに、句碑が連立している。ところどころに石造がたつている。 しかし鏡岩の案内板が立っているけれど、なかなか見つからないままさいごの急な木の階段を登ると頂上の一段下の広場に着く。広場には石造仏が数多く鎮座。左側の登り口を少し昇ると左側矢印で弁慶岩と書いてあり、行ってみると小さな洞穴(数人ぐらい入れる)があった(自分の想像では、 そらく義経、弁慶が奥州藤原に落ち延びる爲、中山道沿いに武蔵の国まで来たが、頼朝の探索の手がこの武蔵の国まで及んでいると知り、武蔵国の人が義経のため、この洞穴に一時隠れるよう勧めたのではないか)。もとに戻りまっすぐ10メートル登ると頂上にたどり着く。 まさに素晴らしい眺望。360度の眺望。頂上から見ると、赤城山は遙かかなた、他の山々も遙かかなた、本荘、熊谷、前橋、高崎などの境界線がわからない。ただ左下の神流川の境目は何となくわかる。その向こうが群馬県、こちら側は埼玉県。利根川もわからない。写真を撮る。 頂上下に円形の案内板があり、

  案内板の南側に社、東側に頂上岩がある。
東・・ 熊谷、深谷市、羽生市、行田市、古河市、館林市、土浦市、霞ヶ浦、
東北・・本荘市、太田市、足利市、桐生市、伊勢崎市、赤城山
北・・  藤岡市、前橋市、榛名山、子持山、
北北西・・高崎市、安中市、榛名山、
西・・  西御荷鉾山、
南東・・東京、近くの児玉ゴルフ場が目のまえに見える。
南西・・鬼石、秩父連山、
南・・この御嶽山から秩父連が続く。東京中心に広がる関東平野、 南西の端小田原、南東の端茂原、東の端銚子、西の端権現山、東北の端水戸、那珂、鹿島灘、北の端宇都宮、那須塩原、北西の端本荘、高崎と広範囲、 其の北西の本荘市の御嶽山から眺める景色は素晴らしい。
金讃かなさな神社じんじゃ所在地
(児玉郡神川村二の宮)

金讃神社は、旧官弊中社で、延喜式名帳にも名を残す古社である。むかしは武蔵国二の宮とも称された。地名の二の宮はこれによっている。 社伝によれば、日本武尊が東征の帰途、伊勢神宮で伯母のやまとひめのみことより賜た火打金を御霊代みたましろ として、この地の御室山御岳山に奉納し、天照大神と素盞嗚命を祀ったのが始まりとされている。鎌倉時代には、武蔵七党の一つ、児玉黨の尊信が厚く、近郷二十二カ村の総鎮守として祀られていた。江戸時代にはと徳川幕府から御朱印三十石を賜り、 別当の一乗院とともに栄えた。 境内には、国指定重要文化財の多宝塔や、平安時代の後期、源義家が奥州出兵のため戦勝祈願を当社にしたときのものという伝説遺跡゛駒つなぎ石、旗掛杉、義家橋などがある。なお、この神社にはとくに本殿をおかず、 背後の山全体を御神体としている。旧官、国弊社の中で本殿がないのはここのほか、全国でも大神神社奈良県と諏訪神社長野県だけである。

金讃かなさな神社じんじゃ多宝塔

金讃神社の境内にあるこの多宝塔は、三間四面のこけら葺き、宝塔(円筒形の筒身)に腰屋根がつけられた二重の塔婆である。天文三年(一五三四)に 阿保郷丹荘あぼごうたんしょうの豪族である 阿保弾正全隆あぼだんじょうぜんりゅうが寄進したもので、真柱しんばしらに「天文三甲午八月晦日、大檀那阿保弾正全隆の墨書銘がある。この塔は、建立年代の明確な本県有数の古建築とともに、 阿保氏に係わる遺構であることも注目される。塔婆建築の少ない埼玉県としては貴重な建造物であり、国指定の重要文化財となっている。

御嶽みたけの鏡岩

御嶽みたけ鏡岩かがみいわは、約一億年前に関東平野と関東山地の境にある八王子構造線ができた時の岩断層活動 いわだんそうかつどうのすべり面である。岩面の大きさは、高さ約四メートル、幅約九メートルと大きく、北向きで、約三十度の傾斜をなしている。岩質は石鉄石英片岩せきてつせきえいへんがんで、赤褐色に光る岩面は、 強い摩擦力により磨かれて光沢を帯び、表面には岩がずれた方向に生じるさく痕がみられる。岩面の大きさや、断層の方向がわかることから、地質学的に貴重な露頭となっている。

御嶽山みたけやまの石仏群

武蔵ニの宮金鑚神社の神体山である御室ケ嶽の南に連なる御嶽山(標高三四三メートル)周辺には、かって本山派修験聖護院末法楽寺の回峯行場かいほうぎょうばがあり、「袖すり岩」、「胎内くぐり」と呼ばれる場所が 現在でも残っている。石仏は、現在七十余体を残すのみであるが、当初はこの一帯に八十八体配置され、弘法大師巡錫じゅんしゃくの遺跡である四国八十八ケ所の霊場を模したようである。

6) 本荘市千代田の金鑽神社

金鑽神社の祭神は天照皇大神あまてらすすめおおみかみ素戔嗚尊すさのおのみこと日本武尊やまとたけるのみこと の三神である。社伝によると、創立は欽明天皇の二年(五四一)と伝えられている。武蔵七党の一つである児玉党の氏神として、また本荘城主歴代の崇信が厚かった。境内は、老樹のケヤキやクスノキの老樹に囲まれ、本殿と拝殿を幣殿へいでんでつないだ いわゆる権現造りの社殿のほか、大門、神楽殿、神輿殿などが建っている。

関越自動車道の本庄児玉ICで降り、国道462号に入り、児玉町長浜町・仲町に向けて、児玉図書館(文化会館)・二の宮金鑚神社前を経由、新宿(しんしゅく)の交差点で左折、県道22号に入りる。 有氏神社・パーク公園に向けてあくまでも直進。右側にまず有氏神社、次に100メートル先に神流パークが現れる。児玉ICから約15.6キロメートル。これを約500メートル~1キロメートル過ぎると、信号に出くわす、直進・・・上阿久原、下阿久原、右折直ぐの左側のところに 石段があり、高さ5,6メートルの小さな山というか、わずか10坪程度の広っぱに、水戸光圀が詠んだ句碑、駒形神社の祠がある。右折直進は橋を渡り群馬県にはいる。