序文

この度、莊家のルーツを、平成十三年から平成二十四年一月二十八日まで各地を歩き回って調べた諸史料(年表に記載した参考資料)を基にして抜粋、 選択して、一冊の本として纏(まと)めました。そのままをまとめたものです。したがってこの史料本を読んでいただいて、各自がいろいろと想像して解釈 してください。

自分の感想として

庄・荘・本荘系統の古文書、特に戦国時代の古文書を読むと、岡山の莊家は山陰の尼子、播磨の宇喜多、広島吉田の毛利に挟まれ、1570年頃、 縁者の三村の反目にあい、最後は百姓に下野した。個々の人々の活躍には目覚ましいものがあるが、とびぬけた策略家、あるいは将来を見据えた人がいな かったことにより、戦国時代、江戸時代に莊家の名が世に出なかった。そして現在の私たちは先祖のDNAを引き継いでいるのではないかと感じるおもいがし ます。しかし平安末期維能の時代の勅使牧(阿(あ)久原(ぐはら)牧(まき))の経営努力により現在の本荘市一帯を開墾し、在地豪族となり、武蔵武士団七党 の最大勢力児玉黨を作り上げた。そして児玉黨の一族は五十六氏にわかれ、武蔵国(児玉郡・本庄市・入西郡)、上野国(甘楽郡から多野郡・群馬郡)にかけ ての地域一帯に分布していた。源義家(八幡太郎義家)の福将軍(小代行平の置文に記載)として、東北征伐に従がったり、鎌倉時代草創期には、児玉黨の活躍 はすばらしいものがあった。そして室町時代、南北朝時代には、幕府の側近としての活躍もあり、戦国時代の莊家の活躍、元資・為資の時代の植木秀長(対 毛利軍には、大阪の陣の真田幸村の活躍に匹敵するぐらい)の活躍は他を抜きんでいるとおもわれる。この人に関する本を書けば立派な時代小説が書けると 思う。あるいは講談風(?速素盞鳴(たけはやすさのおみの)命(みこと)から始まり戦国時代の秀長まで)にまとめれば面白いと思う。
全国世帯数荘家は215世帯、庄家は474世帯と非常に少ない家系です。しかし本庄家は2428世帯と他の家系に比べて多い。これは本庄氏には他の系統が含 まれていると思われます。これ等家系に比べると、もとは同じ出自の児玉家系統は非常に多く、しかも結構な数の有名人を世の中に輩出している。
岡山の莊家の系図を調べると、ほとんど、藤原氏(伊周)の末裔となっていますが、よくよく調べていくうちにどうも物部氏(その昔、天照大御神の子孫が大 和の国に大和政権を樹立以前に、物部氏の祖である饒速(にぎはや)日(ひ)命(みこと)が大和の国を支配していたらしい)の流れのようです。荘家、庄家、 本庄家、児玉家の発祥地は、武蔵の国児玉郡(現在埼玉県本庄市の児玉町)で、児玉黨の祖は有道惟行(維能の子)で、有道(丈部(はせつかべ)氏(うじ)道(みち )は天長十年 八百三十年,有道の姓(かばね)を賜る)の名を名乗っていた。また藤原道隆(兼家の長男、関白内大臣従二位、四男に道長がおり後の藤原氏の 栄を築く)・伊周の家令となり、伊周失脚後(花山天皇との諍(いさか)いにより)武蔵の国児玉郷に残り土着し、勅使(ちょくし)牧(まき)の阿(あ)久原(く゛はら )牧(まき)の経営に携わり一代をなした。後児玉有貫主と名乗り、その子嫡子弘行は児玉有太夫と名乗り、弟経行の系統は児玉と名乗り、弘行の孫家弘の時 庄権守と名乗り、家長の時庄(荘、本庄)となのった。児玉黨の一族は五十六氏分かれている。