莊氏と石川氏の結びつき

矢掛町史P238
  資房は幕府方であったが、番場で死ぬと資氏は宮方で奉仕、資政に継がれた。資昭の時明徳三年(一三九二)になって南北朝和解になっている。 また、氏敬の母石川源左衛門尉久忠女とあることは資昭の母小見山治郎行忠女で小見山一族との婚姻関係は最後となっていることは考える意味がある。 庄氏は国侍の小宮山一族とはなれ、守護代として同じ地位にある石川氏一族との関係を深めたということになる。 石川一族は応永三十二年(一四二五)の備中吉備津宮正殿御上葺棟札に社務代石川豊前守沙巡遊充、請中備中国吉備津宮社務代職事の主徳二年二回五〇)三月二十六日に石川掃部助久経、写経 三年(一五三〇)八月二十七日一童神社建立拝礼に石川偏中守原通経遊藤宮満丸藤原、正員元二四二八)九月偏中国惣社宮御造営帳、 石和原左衛門尉、回永享元年二目二九)十二月 回守護代石川原左衛門尉とあり、更に永禄十年二五六七)明禅寺合戦では石川三郎五郎久智が戦死、モの後久式が享山城を守り、 最後は三村石親の求めにより松山城に入り、天正三年(一五七五)五月二十一口試陥落して幸山城下で石川久式は自殺したという。 備中の国侍としては最後まで残った一族である。競争関係にある同じような国侍がこのような姻眼関係によって安定した共存関係を続けていく道が開かれたことは注目すべきことである。
   康永二年(一三四三)には南宗継へ南禅寺三成郷雑掌良玄が「平石四郎入道が乱暴狼藉をして困る」(同上)と訴えでた。雜掌は荘園の管理に当たり、 在地で年貢・公事の徴収などに当たった。公事は荘園制に於ける雜税のことである。
  1364年
  石清水八幡宮所蔵文書によると、貞治三年(一三六四年)備中守護宮兼信あてに出された斯波義高の施行状によると「石清水八幡宮領備中国水内北荘の雜掌家継ぐが、 ひろいし大和守資性が水内北荘で濫妨をはたらくので困っていると、訴へ出ている。早く鎮めよ。」と命令している。この事件は長引き翌貞治四年に再び「弘石大和守資政の妨げを止めよ」との斯波義高の施行状が出されている。
 1373年
応安六年(一三七三年)に、吉見氏頼より備中守渋川義行あてに「石清水八幡具雑掌が、このたび、弘石大和入道は森戸次郎左衛門入道と共に、濫妨するので困っていると訴えているから早急に鎮定せよ。」の施行状が出ている。 この施行状にみえる弘石大和入道は、さきにみた弘石大和守資性と同一人物に違いない。とすれば、彼は応安六年に至っても、水内北荘で濫妨を働いているわけである。(中野栄夫研究『備中国三成荘をめぐって』より引用)。
  小田郡誌にも上記と全く同じ事が記載されている。次の事が記載されている。 即ち庄四郎は、備前の松田左近将監及び小河兵庫助などと共に、弘石大和守入道、森戸次郎左衛門等が、石清水八幡宮領たる水内北庄押妨するを、禁止せしむる事を命ぜられたるなり。 以って当時相当勢力を有する豪族なりしを知るべし。因に云う応安七年は元中三年なり。

(一)左近将監某施行状
石清水八幡宮領備中国水内北荘雑掌家繼申ス、当所ノ事、重テ訴フノ状如>シ此、子細ハ見>レタリ状ニ、弘石大和守資政濫妨之間被>ル仰守護人之処、 不事行ワレ云々所詮三村左京亮相共(のぞみ)テ彼所メ資政之妨、沙汰付下地ヲ於雑掌、 可>被(ひ)>執(しっ)コ進請状ヲ、使節緩怠候者可>ク有其咎(とがめる)候状依>テ仰執達如>シ件。
貞治(じょうじ)四年(一三六五年)九月八日               左近将監(花押)
   美作周防入道賊

(二)左近将監某施行状等
石清水八幡宮領備中国水内北庄雑掌家繼申ス、当所ノ事訴フタノ状副フ具書>シ此、弘石大和守資政濫妨云云事実者太ダ不>>然、早ク退彼妨、 沙汰付シ下地於雑掌、可>>進請取状、使節更二不>>>緩之状、依>テ仰執達如>シ件。
貞治三年十月十四日               左近将監(花押)
宮下野入道殿

(三)室町将軍奉行人施行状
石清水八幡宮領、備中國水内雑掌申ス、弘石大和入道并守護家入森戸次郎左衛門入道以下輩致押妨ヲ由事、重状具書如>此、
庄四郎相共不日沙汰付雑掌>>達請取、更>>緩怠ノ儀之状、 依>執達如>件。
 応安七年(一三七四年)十二月廿四目                沙弥(花押)
   松田左近将監入道殿 (内容略)

(四) 室町将軍奉行人施行状
石清水八幡宮領、備中国水内北庄、雑掌申ス、弘石大和入道并守護家入森戸次郎左衛門入道以下輩致押妨事重申状具書如>此、
松田左近将監入道相共不日沙汰付雑掌>被執進請取、更>>緩怠儀之状、依>仰執達如>件。
   応安七年十二月廿四目                沙弥(花押)
  庄四郎殿
(五)細川氏久遵行狀写
此ノ遵行者善法寺へ雖>申請>元此方へ被返付之時副渡之者也。
石清水八幡宮領備中国水内荘年貢等施行ノ旨>ラル沙汰善法寺(ヵ)々丸代之状如>件。
  長禄三年(一四五九年)十二月廿日                 上総介(花押)(細川氏久)
   庄藤右衛門尉殿
   石川源三殿

(1)は石清水八幡宮領備中水内北庄の雑掌が訴えるには弘石大和守資政が濫妨をするので守護入にいったがらちがあかないので三村左京亮とともに年貢納入を雑掌にするよう左近将監から美作周防入道に指令している。このらちがあかなかったというのが
(2)の文書で貞治三年の宮下野入道殿は一年後の貞治四年に守護であったことが知られているので、備中守護に宛てた訴である。この水内庄の濫妨は延々と続き応安七年(一三七四)には更に守護家人の森戸次郎左衛門入道までも加わるようになる。 この文書は沙弥すなわち室町奉行人から松田左近将監に庄四郎とともに協力して濫妨を止めるようにするよう訴えている。これは同時に庄四郎へも同じ日に同じ文面で訴えている。そこで最後の段階では備中守護上総介細川氏久が庄藤右衛門尉と 石川源三に善法寺阿子々丸代との契約に従つて年貢納入を行うよう指令している。
(3)と(4)はいずれも応安七年十二月二十四日付のもので、
(3)は同じ石清水八幡宮領の水内北庄の雑掌が弘石大和入道と森戸次郎庄衛門入道の押妨を庄四郎とともに停止させるよう沙弥から松田左近将監に宛て差出したものであり、
(4)は松田左近将監松田と協力して停止させるようにと庄四郎に出したものである。
(5)は細川氏久から庄藤右衛門と石川源三に宛て同庄の年貢を善法寺阿子々丸代との契約状に従って納入するようにしたものである。森戸については全くわからないが弘石は、 あるいは草壁荘の中に広石というとろがありそこの土豪かも知れない。この五つの文書は押妨にたいしては将軍家奉行人は備中の守護という権威だけではどうすることもできず、 その土地に影響力をもつ隣国の守護クラスの在地領主か守護代に依頼せざるを得なかったと解せざるを得ないし、その在地勢力の一つの組合せが庄氏と石川氏であるというわけで、 ほかの併存が比較的短い期間に解消しているのにたいしてこの二氏が長く続くのはこうした縁者の関係にあったためと解することができる。
  1404年
  応永十一年(1404年)に南禅寺の雜掌から「三成荘は諸役が免ぜられているのに、田え一率に課税する段銭を請求して困る。」と訴えが幕府へ出された。 将軍足利義持は管領畠山基国に命じて備中守護満之に、「守護の課する段銭は事実あってはならぬ責任を持ってやめよ。」(同上)と通知した。 この守護段銭を請求しているのは守護代庄氏であると考えられる。守護段銭は幕府が朝廷や幕府の重要なる国家的行事のさい、 その費用として臨時に守護を通じて国ごとに徴収していたが、後には守護が権限を利用して、自らの必要で私的に徴収するようになった。
  1410年
  応永十七年(1410年)に三成荘では外宮・役夫・工米を催促されたが、幕府から備中守護細川頼重に通知して、停止させている。(同上)  さらに六日後の十月十三日に「三成荘内の守護被官人が休畊寺領と田所・公文の両職を侵犯して無理違乱をして困っているのですべてを寺家雜掌に変換せよ。」 と幕府を通じて厳命している(同上)。 この守護被官人は庄氏と考えられる。田所は検注・収納のとき中央から派遣された代官を助ける役で、 公文は検注に当たり年貢の末進を取り締まる役である。
  1414年
  また応永二十一年(1414)に菅領細川満元は備中守護細川頼重に「三成荘の諸公事・段銭・人夫などの臨時課役は免除されているので守護使は干渉してはならない。」 との施行状が出ている(同上)。 これによると守護使という名儀のもとで庄氏らが荘園に入り、思うままに臨時課役などを課して挑発していたようである。
  1419年
  応永二十六年(1419年)に備中守護細川治部少輔は守護代庄甲斐入道・高橋駿河入道に「三成荘の公文・田所両職ならびに休耕寺等三成荘の収益になるものは全部寺家雜掌に与えよ。」と命じている(同上)。 応永二十七年将軍足利義持は「諸国南禅寺領の諸役は免除してある。守護は干渉してはいけない。そして守護使不入の地として、全寺用とす。」の下知状を出している。  同年「三成荘の役夫・臨時か役・守護役などを免除し、守備の干渉を止め、寺家雜掌に完全に管理させよ。」の施行状が出ている(同上)。これには諸課役の上に守護役が加わっている。 守護役は兵糧米・段銭・借用といって種々の名目で荘園に課税した。 その徴収方法は守護使を入部させた。 そのため荘園領主は領主権を奪われて、荘園よりの年貢も確保できなかったので幕府に要請したものである。
  1432年
   永享四年(一四三二年)「嵯峨善入寺の雜掌が、備中国草壁庄内の永平名の案主職(一般に有力な名主・土豪族が当たる。)の田の年貢を広  石次郎が、取ったということを訴え出たので、幕府はその裁判が終わるまで、その田とその年貢の管理を訴訟当事者が手を触れないように保管するようにした。」(「御前落居奉書」)という奉書が、 備中守細川氏久宛に出ている。
このように、いかなる静止にもかかわらず、水内北荘・三成荘・草壁荘と何度も侵入して、濫妨狼藉の働きをする「弘石」氏一族は、この地域でかなり勢力を振るっていたと見てよいだろう。 中野栄夫研究『備中国三成荘をめぐって』の中の「土豪弘石氏」についてを抜粋する。
  「庄氏は備中国の有力国人で、室町時代には守護代を代々勤めている。庄氏は弘石氏の住む草壁荘地頭でも有り、その本拠地は弘石のある南山田地区のすぐ東隣の横谷地区である。 とするならば弘石氏は庄氏と深いつながりを持っていたと見るべきであろう。また森戸氏は守護家人であった。このように見れば弘石氏は守護あるいは守護代と密接に結びついていたといわねばならない。 そしてまた、濫妨もそのことと深く結びついているといわねばならない。」
と述べている。
   石清水八幡宮は貞観元年(八百五九年)に僧行教の奏請により宇佐八幡宮を勧請したのに始まる。朝廷から伊勢に次ぐ崇敬を受け、また源氏の氏神として武衆の崇敬も厚く、 社運大いに振るった。僧行教の創立であるために、その一門紀氏と神宮氏の護国寺が実権を握り、仏式の祭礼が行われた。鎌倉・室町時代にかけて宮寺領・坊領合わせて400か所あった。 いまの京都綴喜郡八幡町にある。
   『空華日工集』康暦二年(1380年)十二月六日から翌三年正月二十七日までの記事によると、南禅院と大雲庵(一山派)とが備中三成郷をめぐって争っていたので、 将軍足利義満は「南禅院と大雲庵ならびに備中国三成郷については、文保院宣(「南禅寺文書」)にまかせてあるように一山一寧門徒に菅領させ、争いやめよ。」(南禅寺文書)と命じている。
  1456年
康正二年(一四五六)に父駿河守が死亡したので、鶴若丸は、相続して猿懸城主となり、伊豆守元資と名のった。 父駿河守の逝去の年に、元資は、前の文安六年(一四四九)の寄進状を書き改めた(同上)。 それには小林庄と記してあるので、文安六年から康正二年の間に、小林郷は荘園として成立し、庄氏の支配下になったものと考えられる。
矢掛P214
文安四年(一四四七年)の暮れ、吉備津宮氏子の小林郷の美山・宇戸・宇戸谷・上津江の(高末)四か村が、この年に公事納入を怠っているので督促されている(美星町史)。これを妨げているのは庄氏であろう。 またこれより二年後の文安六年には、庄駿河守は生存中に子息鶴若丸(元資の幼名)の名で位牌免を寄進した(洞松寺文書)。この時洞松寺え米二石(小林から米を納めた)を寄進いている。 などから守護代庄氏の権威が三成荘に及び、さらに小林郷・駅里荘にまで広がっていたといえる。 康正二年に父駿河守が死亡したので、鶴若丸は、相続して猿掛城主となり、伊豆守元資と名乗った。
矢掛P249
次にこのような土居はいくつあったかを考えることにしたい。現在二千五百分の一の都市計画図によると、町内全域の土居は五箇所である。文章の上でみてみよう。 長禄四年(一四六〇年)十二月十一日の従永寄進状は先の項(地頭と領家 P230)であげたところであるが、 ここには庄長屋道珍入道が持った百八十歩の田が東草壁地頭方の中の長屋渓にあったことが記されている。東草壁というのは先の文書に出た草壁荘東方と同じことを意味するものであろう。 現在大字横谷にある長屋渓は草壁東方に属していたことになる。この文書では庄長屋道珍入道が長屋に住んでいたかどうかは明らかでないが、長屋は集落があり居住し、 土居をもっていたことが考えられる。あるいは長屋というから銅山などとの関係の集落であるかもしれない。 このようにして文書の中から考えられ庄氏関係の土居がいくつ想定されるかを見ると、
文安五年(一四四八年) 庄上殿(庄掃部助資冬)
長禄四年(一四六〇年) 庄長屋(庄長屋道珍入道)
寛正三年(一四六二年) 庄新殿(庄新若狭入道道春)
寛正四年(一四六二年) 庄北殿(庄北則資)
文明四年(一四七二年) 庄北殿(庄北則資)
不明         庄西殿(不明)
の五つが数えられる。これらが現在の旧草壁荘の故地の土居の地名とどう結びつくかは明らかでないが、かなり狭い地域内に庄氏一族の土居・屋敷があったものと考えられる。 其の中の最大のものがお土井で、惣門池となっている惣門はこれについていたものであろう。本来農村部における武士の館は防禦のための環濠をめぐらしていたところから堀の内とか土居とかの名所がつけられたものであろう。 又武士の館の周辺には矢の原料である竹が植えられる例が多かったので竹の内と呼ばれることもあった。
  1491年
延徳三年(一四九一年)に守護代庄元資は、備中守護細川勝久に氾濫して、翌年鎮定されたが、其の後間もなく勝久が死去した。  この反乱の結果は守護細川氏の備中国の支配権はほとんど失われた。 これにかわって備中土着の勢力ある守護代庄氏・石川氏らが、 守護細川氏の領有権を左右するまで成長してきた。このことは守護領国制の崩壊という危機が既に迫りつつあったといえる。
  1501年
文亀元年(一五〇一年)の「南禅寺目録」に三成荘は「庄」と明記されているが(同上)、前述の如き時勢の流れから見ても、表面的には、 南禅寺領三成荘として存続していても、実は、その領主権は、守護代庄氏にあったといってもよい。庄氏は守護代という職権のもとに、三成荘だけでなく、 備中国各地の荘園・国衙領を問わず権勢を伸張した。
文安四年(一四四七年)の暮れに、吉備津宮氏子の小林郷の美山・宇戸・宇戸谷・上津江の四か村が、この年に公事納入を怠っているので督促されている(吉備津宮文書)。 これを妨げているのは庄氏であろう。またこれより二年後の文安六年には、庄駿河守は生存中に子鶴若丸(元資の幼名) の名で位牌免を寄進した(「洞松寺文書」)。この時洞松寺え米二石を寄進している。かように生前に戒名をつけ位牌免を寄進することを逆修と称して、 当時行われてた冥福を修める一方法であった。このように四か村が吉備津宮への公事示を滞納したことや庄駿河守が洞松寺へ位牌免の寄進に、小林から米を納めさせたことなどから、 守護代庄氏の動きが推察されるのは、庄氏の権威が三成荘に及び、さらに小林郷へ、その余勢が伸びていたことである。つまり庄氏の支配権域内になっていたということがいえるだろう。 したがって、小林郷から駅里荘に庄氏の権勢が広がっていたといえる。