元弘の乱
元弘の乱
小田郡誌(上巻) P 79

1331年(元弘元年)に起きた、後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府倒幕運動である。1333年(元弘三年/正慶二年)に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱。
鎌倉幕府側   ・・・北条高時、北条仲時、長崎高綱、
反鎌倉幕府勢力 ・・・足利高氏、新田義貞、楠木正成

鎌倉政権崩壊から建武の新政・南北朝時代と移り変わる。

  元弘の乱起るや、本郡(小田郡)の豪族、否備中の豪族は、六波羅の召に應じ、一族を率ゐて京に上がり、其指揮に従いひて奮闘せり。殊に陶山道高の孫藤三義高は、 弟稲倉村工ヶ城主陶山八郎吉次、後月郡高屋城主小見山二郎等と共に、笠置攻の軍に加わり、元弘元年(一三三一)九月二二十八日夜、風雨に乗じて行在所に忍び入り火を放ちて之を陥れ、 ありがたくも至尊しそんの御身にて「天が下には隠れ家もなし」と歌はせ給ふ程の、 大悲劇を演出するに至りしは、順逆を誤ること最も甚だしく、返す返すも遺憾の至りにして、 吾人の痛憤あたはざるの事なりとす。然れども当時の陶山氏の境遇を忖度そんたく(推察)すれば一滴の涙なきにあらざるべし。
元弘三年三月京軍の時、陶山次郎高通は河野九郎左衛門と共に、二千余騎を率いて連華王院に向ひ、大に赤松則村の軍を破り、功によりて備中守に任ぜられる(太平記)。 同四月三日官軍再び京都へ攻め入りしかば、陶山、河野は五千余騎を率いて法性寺大路へ向ひ、武勇をあらはす。此時淺口郡の住人頓宮又次郎、其の子孫三郎、田中藤九郎盛兼、 其弟彌九郎盛泰等は官軍に属して、島津安藝前司と勇戦して名を著し、遂に戦死をとぐ。美作の菅家の一統有元、植月等も官軍に属して奮闘せり。 之より先、閏(一三三三)二月二十四日、後醍醐天皇陰に隠岐を逃れて出雲に渡り、二十八日伯耆の境港に着き給ふ。名和長年之を船上山に奉じて勤王の兵を召す。 備中より馳せ参じたるものには、本郡縁故の庄七郎資氏、三村孫二郎能実を始めとして、後月の那須、淺口の小坂、都窪の真壁、川上の成合、阿哲の新見等あり。 かくて本郡の北部は官軍方に、南部は六波羅方に分かる。
  かくて、伯耆にては源忠顯を頭中将に任じ、兵を率いて京都に上がり、赤松則村を助けて六波羅を攻めしむ。陶山義高等は五千余騎にて一条二条口に迎へて戦ひ、 庄三郎、真壁四郎等三百余騎にて、丹波國神池の衆八十余騎を、五条西洞院に包囲して全滅せしむ。官軍の将名和小次郎、兒島備後三郎等は、一條口にて陶山河野など戦ひて勝敗決せず、 相退きに退き分かれたり。此の如く伯耆軍も成績良好ならざりしが、鎌倉より新に攻め上りたる足利高氏、使を行在に遣して歸順したる為、官軍大に振ひ、六波羅方の奮闘も効なく、五月七日両六波羅陥り、 陶山等七百餘人は北条仲時に随ひ、近江國番場驛迄落ち延びしが、五月九日野武士などに襲はれて、仲時先づ自刄し追従の者四百三十餘人、悉く討死又は自殺したり。
今同地連華寺の過去帳によりて、本郡縁故者を記せば左の如し。
竹井太郎盛光(他一名)、陶山次郎清直(以下十九名)、小見山孫太郎吉幌(以下三名) 庄左衛門四郎俊充 真壁三郎秀忠

この中に陶山氏の一族二十人あり。以て當時陶山氏の勢力が、如何に強大なりしか知るに足るべし。ただし此の豪族が順逆を誤りしは、後世の憤慨措く能はざる所なり。 唯庄七郎、三村孫二郎等が船上山に馳せ参じ、建武中興の大業を翼賛し奉(たてまつ)りたるは、特筆すべき事なり。
  陶山義高の弟、八郎吉次は稻倉村工ケ城の城主たりしが、兄義高と共に笠置攻に加わり、六波羅の為に力をつくししが、義高の遺命を奉じ逃れて備中に歸り、 一族の収拾と教養とに力めたりと云う。(陶山氏系譜)
  陶山氏居城西濱城は、官軍の為に攻略されしにより義高の男某は郎黨平藏を隨へて逃れ、陶山村大字有田の畑山に隠る、之を告ぐるものありしかば、 官軍追躡ついしょうす、陶山叶はじとや思ひけん遂に自害す。平藏其の首を切りて田の中に埋めしが、官軍探し得て持ち去れり。よりて其地に社を建て陶山宮と稱して之を祀り、平藏をも末社に祀るといふ。(備中誌、小田郡)。 
  元弘二年五月、楠正成、大阪天王寺へ出張せし時、両六波羅の軍奉行として、五千餘騎を率ゐて出陣し、正成の計略により散々に敗北したる、隅田、高橋あり。武家評林に「高橋は備中國の住人なり。大男子にして力量他に勝れ、 早業、自らの勇、近國にかくれなし。彼者十四歳の春、盗人を搦め得たり、十七歳にして備中の府に於て、莊左衛門次郎本所に背き合戦の時、高橋大四郎と申せしが、本所の方人として敵三人射落し功名す。云々」とあり。 文中の庄左衛門次郎は、庄左衛門四郎と同人にはあらざるか、
矢掛P260
『太平記』 元弘元年(1331年)九月二十八日笠置攻めに手柄のあった備中南部の武士には、笠岡市陶山城の陶山藤三義高、稲倉工ケ城の陶山八郎吉次、井原市高屋城の小見山二郎等があった。 また同三年閏二月二十四日隠岐に流されていた後醍醐天皇が島を脱出して伯耆国の名和長年を頼った時、備中からはせ参じた武士に新見(阿哲)成合(川上)真壁(都窪)小坂(浅口)那須(後月)庄・三村(小田)らがあったが。 一方の六波羅方としても、備中の庄三郎・真壁四郎等三〇〇余騎が丹波の暴徒八〇余騎を全滅させたりしているので、元弘の乱から南北朝にかけて一族が両派に分かれて戦っていたことが知られている。 しかし、鎌倉から攻め上がった足利尊氏が天皇方に帰順したため、六波羅方の奮戦もむなしく五月七日に両六波羅は陥り、北条仲時らは近江国番場駅まで落ち延びてことごとく討ち死に・自刃(じじん)しているのである。

資房

矢掛町史では、庄家長より七代孫庄資房は守護代を補せられた。元弘の乱には北条方に従い、江州番場で討死にしたと記載されている。 守護代は、中世の守護の代官で、守護は鎌倉・京都に居住し、任国には有力な家臣を代官として事務を執らせた。この代官を守護代と称した。 守護の権限を勝手に行使して、任国の領主たらとした。守護代庄氏も草壁荘を本拠地として、おおいに躍進した。
(矢掛町史ページ204)
真備町史 P219

 資房は都窪郡山手の幸山城主、左衛門四郎と称す。家が衰えて守護人に補せられ、元弘の乱には北条仲時に随って戦い、 安藤元理らと共に元弘三年近江の番場で討ち死した。即ち賦軍方であったが、この子七郎は官軍方となり、船上山に後醍醐天皇を迎え、又後には足利氏に仕えた。
吉備郡誌(中巻) P1478   に同様なことが記載されている。
  資房が番場での最期の有様を西国太平記に
「この時資房十方に斬廻り、野伏どもを追い払い、既に糧も尽きて矢種もなく、下部雜人原一人もなくなりければ力及ばず六波羅殿はじめ、一門人々自害せられ、資房も忠死を遂げられけり」とある。
太平記巻九 五月七日合戰事條云々には、
 庄左衛門四郎云々此等の宗トノ者トシテ都合四百三十二人同時に腹ヲ切たりける。「庄四郎これらの宗徒の者都合四三二人同時に腹をぞ切ったりける」とある。(神田本) 庄七郎資氏・庄三郎・荘左衛門四俊充等の名が記載されている.
近江国番場宿蓮華寺過去帳
 元弘三年五月依京都合戰破當君兩院關東御下向之間同九日於近江國馬場宿末山麓一向堂前合戰打死自害交名之内、荘左衛門四俊光。
矢掛P228
  地頭は先に上げた『吾妻鏡』の文治元年(一一八五年)の条のように諸国平均に補任されね守護の指揮によって治安の維持や、配置された荘園、国衙領の管理、 租税の徴収等にあたることが本来の目的であった。しかし、全国的に配置することに対しては荘園・国衙領 を基盤とする大社寺や公卿から反対が起こったので平家の所領であった土地と謀反人の旧領地 に限定することにした。しかし承久の変の後の承久三年(一二二一年)以降は全国に配置するよう前の規定に復させることになった。これ以前の地頭を本舗地頭、 以後に補任されたものを新補地頭と呼ぶことはよく知られているところである。
矢懸町内の莊、郷のうち、指導に関する史料がみえるのは草壁荘についてである。草壁莊は『和名抄』の草壁郷の荘園化したものであるが、その経緯については明らかでない。
『金剛寺文書』
   備中國草壁莊西方地頭軄 幷一族等ノ跡 莊兵衛四郎毎年三月ノ御影供舞樂料、所々有御寄附當寺也、 可存知者、天気如此ノ、悉スルニ之以テス
正平九年十二月廿一日
右中辨
金剛寺寺僧中
この文書の中の莊兵衛四郎は備中莊一族の一人であるが、系圖の中に特定することが出来ない。しかし、莊氏が草壁莊の地頭として補任され、定着するのは鎌倉初期であると考えてよいであろう。莊氏の状況は次のようである。
『中国太平記』には、

庄太郎長は武州七党の内児玉党の旗頭たりしが一の谷合戦に平家の重衡を生捕恩賞として陸奥の室地を賜り、平家滅亡の後備中を宛行れ夫より累代備中に居住せり。 七代の後胤、左衛門四郎資輔房既に身上衰えしかは鎌倉より守護人に補せられて資房は高山の城を守り其の後元弘元年(1331年)元弘の乱には北条方六波羅殿に従ひ江州番場にて忠死せり、 その子七郎は後醍醐天皇の召し依って舟上へ御迎に参り都へ還幸の供奉に従ひ奉りてそれより足利に仕え足り。

資房(「荘家文書」より)

庄左衛門四郎、片山村幸山城高山城ヲ領ス、母木屋村福山城守真壁小六是久女  当村と山手村の境界にあった幸山城は鎌倉末期に庄左衛門四郎資房によって築城されたといわれるが、この資房は備中草壁庄の地頭家長七代の後裔で、 一三三三年(元弘三年)足利尊氏等による六波羅攻めの時、探題北条仲時に随従して敗れ、近江国(滋賀県)番場で自刃したという。この城は眼下を山陽道が東西に通り、 北には総社平野の穀倉地帯をひかえ、備中東南部を押さえるには絶好の位置をしめていた。
矢掛P233