吉備郡史(中巻 P1559)によると
庄氏。庄園の庄を氏名に負いし也。氏人は保元物語巻一、官軍勢汰の條に「兒玉に荘太郎」。平家物語に「庄三郎忠家、庄四郎高家」等を載せ、
源平盛衰記に「兒玉には庄太郎家長、同三郎忠家、同五郎廣賢」、また「庄三郎家長」、「庄太郎家永」、「同五郎弘方」などあり。東鑑巻五に庄四郎。同九に庄三郎忠家。同十に庄太郎三郎、庄左近将監義直。
同十、同十五に庄太郎見ゆ。承久記巻二に「兒玉黨に庄四郎兵衛」、巻四に「庄ノ三郎」を擧ぐ。又太平記巻に「武蔵国の住人庄三郎為久」あり。武蔵の庄氏に就いては新編風土記兒玉郡本庄宿條に「按に當郡七黨の内兒玉黨の
旧領なりしことは己に郡の総説にいへるが如し。その系図に兒玉庄太夫家弘の子庄権守弘高、庄三郎忠家、庄四郎高家、庄五郎弘方等あり。是當所を分かち領して別に在名を唱へしと見え、弘高の子を庄太郎家長と称す。
又本庄宿本庄城條に「宿より良ノ方なり。東は土地窪く南は宿の裏に続き、西は又少し土地高く北の崖下は小山川流る。此処は當国兒玉黨の嫡流世世住して庄を氏とし又本庄とも名のり子孫本庄宮内少輔に到ると伝ふ」。
按に兒玉庄太夫家弘が三男庄四郎家高は元暦の頃一の谷合戦に平家の大将但馬守経政が逃げるるを追うて首を得たり。同じ時庄太郎家長も三位中将重衡を生取りて共に其の功世に隠れなかりし事。平家物語、源平盛衰記
に出でたり。皆此所の住人と見えたり。また東鑑に仁和二年本庄四郎左衛門尉時家、小林次郎時景か所従藤平太か妻女、路次を通りし時、彼の妻が乗りたりし馬並びに荷つけたるを二疋とも押取りしかば時景に其の事
を訴へられ同しき五月六日宰判ありて所帯を召放されし事を載す。此時家も同族にてここより出でし人ならん。児玉系図に、家長が子を本庄三左衛門時家と載す。此人かそもあらは其の子を七左衛門家房といひ其の子太左衛門泰房、
其の子太郎国房など云う云々。
備中庄氏は小田郡草壁庄の豪族にして猿懸城により兒玉黨の族にして庄太郎藤原家長の後と云う。傳へ云う。一の谷合戦に家長、平重衡を生捕る其の功を以って備中草壁の庄を賜り武蔵国より移る草壁
とは今の三谷村横谷にあたる。去る掛山の子は小田・吉備・朝口・三軍に跨り、頂上の東北のはずれは穂北(穂井田)妹山へもつづく。故に穂北の猿掛、妹山の猿掛とも云う。元弘の乱に庄左衛門四郎資房六波羅に馳せ参して北條仲時に
随従して忠死を遂ぐ其の裔孫為資天文の初め松山城を攻めて之を取り本州に雄視す後三村氏に攻め滅ぼされる。
此の庄氏は太平記巻八に「備中国の住人庄三郎」。巻九に「庄左衛門四郎」六波羅勢として近江番場に死す。蓮華寺過去帳に「荘左衛門四郎俊充」と見ゆ。その他太平記以下の書に多く見え。巻三十三
に庄美作守有り。又延元三年妹山城に據ると。応永三十二年乙巳十二月二十九日附吉備津神社正宮御上葺棟札に「社務代庄甲斐守沙彌藤原道充」見え。其の後永享以来御番帳に「五番、庄四郎五郎」文明、明応の頃
荘元資見ゆ。妙善寺合戦記に「備中勢の大将庄元祐」あり。府志に「天文頃、備中守為資上野備前守頼久を破りて松山城を奪い万貫の地を領す。元亀元年為資の嫡子備中守高資毛利と戦ひ終に打負けて討死にせり。
天文二年に為資松山の城を持ちてより此処に至る三十八年間也」といひ。又「高資の嫡男を兵部大輔勝資」と傳へ又一に「永禄三年穂井田高資三村家親の殺す所と為る」と云う。穂井田は庄氏の一名にて安西軍策には穂田に作り
「穂田の庄治部少輔」といひ又「天文廿二年備中國成合の三村修理亮家親より元就に和わ請ひ次に自敵猿懸の穂田を討つべしと加勢を請ひ申すに付き二月上旬元就朝臣吉田を発駕する云々」。「穂田治部大輔云々」等また
「庄十郎左衛門、式部少輔元祐」の名も見ゆ。
傳云。備中高山の城主庄左衛門左資政の子兵部少輔勝資は下呰部丸山城主にして毛利氏に仕ふ天正三年九月二日児島麥飯山城主明石源三郎を撃破して其の子三次郎信資は水田・呰部・中津井外数か村を支配せしが文禄の役尉山に
戦死して嗣なし。是より先、資政の長女伯耆の小鴨左衛門尉元晴に嫁し居たるが其の孫市之丞、之を継ぎ、庄金兵衛資年と名乗り、播州加東郡北野に住し浅野内匠頭長矩に仕へ禄二百五十石を領し赤穂に郡代役を勤む云々
(名門集)(以上姓氏家系大辞典に拠る)
矢掛町史(P258)によると
庄氏は元暦元年(1184)二月七日源氏に属し一ノ谷合戦で三位中将平重衡を生け捕りにした功によって、建久三年(1192)備中守に任ぜられ備中草壁庄などを賜った庄太郎家長が初代となる。
元久二年(1205)猿掛土塁を築いた。元亀二年(1571)最後の城主元資討死までの三六〇余年の在城ということになる。
(矢掛町史 P258)
初代猿掛城主、源氏の武将、武蔵七党のうち児玉党の旗頭であった。平家没落後備中の山方の庄、穂井田の庄、草壁の庄を賜り、備中に下り先ず山方の庄に幸山城(現都窪郡山手村)を築いてここに居たが当地猿掛山に支城
を作り一族の者交々これに居る。猿懸城は幸山城からみて申の方角に位地する。彼の祖先は平安時代の藤原伊周の息子遠峯は父左遷の時武州に下向し姓を有道氏といった。猿掛に城を築いたのは元久二年(1212)であった。
これより今の矢掛町山田横谷一帯の地を領有して豪族として威を振う。
(<真備町史 P219)上記と同じような記述が矢掛町史、頁227~229に載っている。
吉備郡史(P1198)によると
庄庄氏系譜には。武蔵國児玉黨の旗頭庄太郎家長は三位中将平重衡を捕へし功により源頼朝より當座に奥州室地の庄を賜はり平家没落の後備中國に於て山方ノ庄、二万ノ庄、穂井田ノ庄、草壁ノ庄
(備中四ケ庄の園切は東は吉備津宮の床邑に西は那須の封地に接す)を賜ひしにより當國に下り山方の庄に幸山城(今窪郡山手村大字西部に在り叉高山とも書す)を築きて之に居り後元久二年(一二〇五)猿懸山に支壘を作り
一族の者交わる交わる之に居る。家長の曾孫右衛門太郎家重の時日下部(小田郡三谷村大字横谷にて猿懸山の西麓なり)に陣屋を置き領地年貢を徴収せしむ。家重の弟刑部左衛門家憲以下十代其の大番頭仁り云々(猿懸城沿革考に據る)
因に云、現に三谷村大字横谷に御土居と稱する古館阯あり。御土居また大殿と云ふ其北隣接地を北殿又古殿。東隣を上殿又折殿。南隣を平木又新殿(カ)、西隣を西殿。西殿の西隣を長屋殿と稱す一帯方數町に亘る、洞松寺文書に庄上段、
北殿、新殿長屋殿見ゆ。是或は家重の設置せし陣屋。家憲以下大番頭の十代間に蕃衍せし一族の居館阯にあらざるか。尚ほ庄氏一門ども見るべき文治中の庄三郎忠家、承久中の庄三郎、庄四郎、庄四郎兵衛、元弘中の庄左衛門四郎資房、
庄左衛門四郎俊光、庄七郎、明徳の庄小四郎資昭等は別に記せしを以て略す。
應永三十二年吉備津宮正殿棟札に「庄甲斐守沙彌藤原道充云々」見ゆ。
(船上山に馳参じたる勤王諸将の章、庄氏の條及戦国の城砦ノ章参照)
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