莊氏の備中赴任・草壁荘
莊氏の備中入り

庄 家長が一の谷合戦で武功を挙げ、頼朝より岡山矢懸の草壁荘を賜ったが、草壁荘における活躍の仔細が文書としてまったく残っていない。 合戦のことについては、「保元物語巻一」、「平家物語」、「源平盛衰記」、「吾妻鏡」、「東鑑巻五」などに記載されているけれども、家長から六代目までのことが文書として残っていない。本庄の方にも残っていない。 非常に残念である。七代目資房から戦国末期の勝資までの本宗家の記録が文書として残っている。また庶流家の文書も多数残っている。それらをこれから列挙する。

家長    北房町史 通史編 上 によると(P443)

児玉党は武蔵国司有道維能の後裔である。維能は、内大臣藤原伊周に仕えていたが、後に、武蔵介となり、児玉郡を開墾して居住した。 その子維行が武蔵守となり児玉氏を称した。これらの地帯は、東関東にくらべ開発が遅れていて広大な武蔵野の野原が広がっていた。現在の埼玉県西北部に児玉町が有り、その東北の平地に本庄市がある。 庄氏は、この地からおこり児玉党の旗頭となった。児玉党は、安元元年(一一七五)頃には近隣に領地を広げ他庄までも侵略していた。『玉葉集』の安元元年十一月十四日の条によると、伊勢神宮が 上野国高山御厨こうずけのくにこうざんみくりやにたいし児玉党が乱暴したことを訴えている。
備中庄家文書『岡山県古文書集』第一輯所収によれば家長は、元暦元年(寿永三年)(一一八四)二月七日、摂津一の谷の合戦の時大手の大将源範頼に属し、平武蔵守朝昌を討取った。平家方の大手の大将平重衡は、 兄知盛とともに大手生田森付近を守っていた。山の手方面が突破されそうになり、重衡は、急遽八千人を率いて救援に向かったが遂に破れ須磨の浦づたいに落ち延びて行くところを、梶原景時・庄四郎高家・庄太郎家長が 追いかけ生け捕りにした。頼朝は非常に喜びすぐさま奥州の室地庄を与えた。

これが平家追討の恩賞ノ始まりといわれている。 『吾妻鏡』によれば家長は建久元年(一一九〇)十一月七日頼朝入洛の時これにしたがっている。 先駆に続くグループ百八十名の中に庄太郎三郎、もう一つのグループ一百三十八名中八番に庄太郎家長、他のグループの三十一番に庄四郎高家の名前が見える。庄一族が頼朝入洛に参加している建久六年(一一九五) 三月将軍頼朝が東大寺の供養に臨んだときも庄太郎が従っている。平家が没落すると家長へは勲功を賞せられ、備中草壁荘の地頭職に補任された。

吉備郡史(中巻 P1559)によると

庄氏。庄園の庄を氏名に負いし也。氏人は保元物語巻一官軍勢汰の條に「兒玉に荘太郎」。平家物語に「庄三郎忠家、庄四郎高家」等を載せ、 源平盛衰記に「兒玉には庄太郎家長、同三郎忠家、同五郎廣賢」、また「庄三郎家長」、「庄太郎家永」、「同五郎弘方」などあり。東鑑巻五に庄四郎。同九に庄三郎忠家。同十に庄太郎三郎、庄左近将監義直。 同十、同十五に庄太郎見ゆ。承久記巻二に「兒玉黨に庄四郎兵衛」、巻四に「庄ノ三郎」を擧ぐ。又太平記巻に「武蔵国の住人庄三郎為久」あり。武蔵の庄氏に就いては新編風土記兒玉郡本庄宿條に「按に當郡七黨の内兒玉黨の 旧領なりしことは己に郡の総説にいへるが如し。その系図に兒玉庄太夫家弘の子庄権守弘高、庄三郎忠家、庄四郎高家、庄五郎弘方等あり。是當所を分かち領して別に在名を唱へしと見え、弘高の子を庄太郎家長と称す。
又本庄宿本庄城條に「宿より良ノ方なり。東は土地窪く南は宿の裏に続き、西は又少し土地高く北の崖下は小山川流る。此処は當国兒玉黨の嫡流世世住して庄を氏とし又本庄とも名のり子孫本庄宮内少輔に到ると伝ふ」。 按に兒玉庄太夫家弘が三男庄四郎家高は元暦の頃一の谷合戦に平家の大将但馬守経政が逃げるるを追うて首を得たり。同じ時庄太郎家長も三位中将重衡を生取りて共に其の功世に隠れなかりし事。平家物語、源平盛衰記 に出でたり。皆此所の住人と見えたり。また東鑑に仁和二年本庄四郎左衛門尉時家、小林次郎時景か所従藤平太か妻女、路次を通りし時、彼の妻が乗りたりし馬並びに荷つけたるを二疋とも押取りしかば時景に其の事 を訴へられ同しき五月六日宰判ありて所帯を召放されし事を載す。此時家も同族にてここより出でし人ならん。児玉系図に、家長が子を本庄三左衛門時家と載す。此人かそもあらは其の子を七左衛門家房といひ其の子太左衛門泰房、 其の子太郎国房など云う云々。
     備中庄氏は小田郡草壁庄の豪族にして猿懸城により兒玉黨の族にして庄太郎藤原家長の後と云う。傳へ云う。一の谷合戦に家長、平重衡を生捕る其の功を以って備中草壁の庄を賜り武蔵国より移る草壁 とは今の三谷村横谷にあたる。去る掛山の子は小田・吉備・朝口・三軍に跨り、頂上の東北のはずれは穂北(穂井田)妹山へもつづく。故に穂北の猿掛、妹山の猿掛とも云う。元弘の乱に庄左衛門四郎資房六波羅に馳せ参して北條仲時に 随従して忠死を遂ぐ其の裔孫為資天文の初め松山城を攻めて之を取り本州に雄視す後三村氏に攻め滅ぼされる。
    此の庄氏は太平記巻八に「備中国の住人庄三郎」。巻九に「庄左衛門四郎」六波羅勢として近江番場に死す。蓮華寺過去帳に「荘左衛門四郎俊充」と見ゆ。その他太平記以下の書に多く見え。巻三十三 に庄美作守有り。又延元三年妹山城に據ると。応永三十二年乙巳十二月二十九日附吉備津神社正宮御上葺棟札に「社務代庄甲斐守沙彌藤原道充」見え。其の後永享以来御番帳に「五番、庄四郎五郎」文明、明応の頃 荘元資見ゆ。妙善寺合戦記に「備中勢の大将庄元祐」あり。府志に「天文頃、備中守為資上野備前守頼久を破りて松山城を奪い万貫の地を領す。元亀元年為資の嫡子備中守高資毛利と戦ひ終に打負けて討死にせり。 天文二年に為資松山の城を持ちてより此処に至る三十八年間也」といひ。又「高資の嫡男を兵部大輔勝資」と傳へ又一に「永禄三年穂井田高資三村家親の殺す所と為る」と云う。穂井田は庄氏の一名にて安西軍策には穂田に作り 「穂田の庄治部少輔」といひ又「天文廿二年備中國成合の三村修理亮家親より元就に和わ請ひ次に自敵猿懸の穂田を討つべしと加勢を請ひ申すに付き二月上旬元就朝臣吉田を発駕する云々」。「穂田治部大輔云々」等また 「庄十郎左衛門、式部少輔元祐」の名も見ゆ。
    傳云。備中高山の城主庄左衛門左資政の子兵部少輔勝資は下呰部丸山城主にして毛利氏に仕ふ天正三年九月二日児島麥飯山城主明石源三郎を撃破して其の子三次郎信資は水田・呰部・中津井外数か村を支配せしが文禄の役尉山に 戦死して嗣なし。是より先、資政の長女伯耆の小鴨左衛門尉元晴に嫁し居たるが其の孫市之丞、之を継ぎ、庄金兵衛資年と名乗り、播州加東郡北野に住し浅野内匠頭長矩に仕へ禄二百五十石を領し赤穂に郡代役を勤む云々 (名門集)(以上姓氏家系大辞典に拠る)

矢掛町史(P258)によると

庄氏は元暦元年(1184)二月七日源氏に属し一ノ谷合戦で三位中将平重衡を生け捕りにした功によって、建久三年(1192)備中守に任ぜられ備中草壁庄などを賜った庄太郎家長が初代となる。
元久二年(1205)猿掛土塁を築いた。元亀二年(1571)最後の城主元資討死までの三六〇余年の在城ということになる。
(矢掛町史 P258)
初代猿掛城主、源氏の武将、武蔵七党のうち児玉党の旗頭であった。平家没落後備中の山方の庄、穂井田の庄、草壁の庄を賜り、備中に下り先ず山方の庄に幸山城(現都窪郡山手村)を築いてここに居たが当地猿掛山に支城 を作り一族の者交々これに居る。猿懸城は幸山城からみて申の方角に位地する。彼の祖先は平安時代の藤原伊周の息子遠峯は父左遷の時武州に下向し姓を有道氏といった。猿掛に城を築いたのは元久二年(1212)であった。 これより今の矢掛町山田横谷一帯の地を領有して豪族として威を振う。
(<真備町史 P219)上記と同じような記述が矢掛町史、頁227~229に載っている。

吉備郡史(P1198)によると

庄庄氏系譜には。武蔵國児玉黨の旗頭庄太郎家長は三位中将平重衡を捕へし功により源頼朝より當座に奥州室地の庄を賜はり平家没落の後備中國に於て山方ノ庄、二万ノ庄、穂井田ノ庄、草壁ノ庄 (備中四ケ庄の園切は東は吉備津宮の床邑に西は那須の封地に接す)を賜ひしにより當國に下り山方の庄に幸山城(今窪郡山手村大字西部に在り叉高山とも書す)を築きて之に居り後元久二年(一二〇五)猿懸山に支壘を作り 一族の者交わる交わる之に居る。家長の曾孫右衛門太郎家重の時日下部(小田郡三谷村大字横谷にて猿懸山の西麓なり)に陣屋を置き領地年貢を徴収せしむ。家重の弟刑部左衛門家憲以下十代其の大番頭仁り云々(猿懸城沿革考に據る)
因に云、現に三谷村大字横谷に御土居と稱する古館阯あり。御土居また大殿と云ふ其北隣接地を北殿又古殿。東隣を上殿又折殿。南隣を平木又新殿(カ)、西隣を西殿。西殿の西隣を長屋殿と稱す一帯方數町に亘る、洞松寺文書に庄上段、 北殿、新殿長屋殿見ゆ。是或は家重の設置せし陣屋。家憲以下大番頭の十代間に蕃衍せし一族の居館阯にあらざるか。尚ほ庄氏一門ども見るべき文治中の庄三郎忠家、承久中の庄三郎、庄四郎、庄四郎兵衛、元弘中の庄左衛門四郎資房、 庄左衛門四郎俊光、庄七郎、明徳の庄小四郎資昭等は別に記せしを以て略す。

應永三十二年吉備津宮正殿棟札に「庄甲斐守沙彌藤原道充云々」見ゆ。
(船上山に馳参じたる勤王諸将の章、庄氏の條及戦国の城砦ノ章参照)


草 壁  庄 { 草 壁 郷 }

草壁郷は、横谷・里山田・南山田・中の郷域である。草壁(日下部)郷は、仁徳天皇の皇子大日下王・若日下王のために置かれた子代だという言い伝えがある。この名代・子代というのは、大化の改新前、 天皇・皇后又皇子・皇女の名を付した皇室の私有の民の集団を言う。
無品尊守親王角跡領草壁荘・・・矢掛P202
    草壁郷は、横谷・里山田・南山田・中の郷域である。草壁郷は仁徳天皇の皇子大日下王・若日下王のために置かれた子代だという言い伝がある。源頼朝より奥州室地の庄を賜り、平家没落後、 備中国山手壮・二万荘・穂井田荘・草壁荘を賜って、山手壮へ地頭職として入部し、幸山城を築いて住居とし、元久二年(一二〇五年)には家長は猿掛山に築城したと伝えられる。庄家の曾孫家重は、横谷の福武邸宅の前に陣屋をおいた。 いわゆる地頭屋敷で、ここで知行地の年貢などを取り立てた。草壁郷が、いつ・どうして荘園化したか不明であるが、寛喜三年(一二三一)四月二十五の官符【後堀河天皇宣旨(門葉記)】に「比兵尼観如の譲りに任せ、 大和国曾我荘・但馬国気比水上荘・備前国大安寺荘・備中国草壁荘・県主保の五ヶ所を無品尊守親王家の門跡領とする。」(大日本史料)とある。この官符に備中国草壁荘とあるので、草壁郷が荘園になっていたことは確かである。
門跡とは当時皇子・貴族などの住する特定の寺院をいう。
    『名月記』『民径記』によれば、この寛喜三年八月には、備中国は中宮(鷹司院藤原長子)の御分国とされている(大日本史料)。無品尊守親王は「尊守法親王、土御門帝第二皇子無品なり、延暦寺に入る。高橋宮ともいり。」 (『日本史人名辞典』)。と載せてある。その後の草壁荘の領主に関しては不明である。【「岡山県の地名」辞典によると、のち青蓮院門跡領となったと載せている。】

当時の為政者としての庄氏は、武蔵国児玉党の旗頭庄家長が寿永三年(一一八四)に一の谷の合戦で、平家の大将平重衡を捕らえた功で、源頼朝より奥州室地の庄を賜り、平家没落後、備中国山手荘・二万荘・穂井田荘・草壁荘を賜って、山手荘へ地頭職として入部し、 幸山城を築いて住居とし、元久二年(一二〇五)には家長は猿掛山に築城したと伝えられ、その後庄氏代々の居城となった。庄家長の曾孫家重は、横谷の福武邸宅の前に陣屋を置いた。いわゆる地頭屋敷で、ここで知行地の年貢などを取り立てた。 鎌倉時代初期から荘園領主(領家)は地頭請けによって年貢の確保を得ようとしたが、地頭はその約束を果さない場合が多かったので両者の間で紛争があった。そのため鎌倉中期頃から荘園を二つにわけて、半分を領家分、他を地頭分として互いに独立した所領とする下地(土地)中分が行われた。
地頭請けとは 地頭に荘園の管理を一任し、年貢の収納を請け負わせることを言う。安主とは、荘園を管理し、年貢・公事以下の課役の徴収にあたる職務、又はその人をいう。 大領とは、律令制における郡内の政務を行う官使の長官で、終身官で世襲制であつた。郷は公領であるから小田郷は国衙領であった。
下図は岡山県の地名辞典より抜粋