有氏神社
児 玉 黨
有氏神社碑

中古天下之實力在關(せき) 左関左之實力在八平七黨兒玉党強而阿久原者兒玉党肇基之地也阿久原一祠日有氏明神村民自古毎歳祭之葢有氏者有道氏之省語也抑物部氏出自天忍穂耳尊而景行帝五十三年帝東巡 至於葛飾野物部大咩布命其子豐日連従爲帝定大伴部豊日連負大伴部造姓其十三世孫従五位氏道賜有道宿禰姓其六世孫維能去京師移武蔵國兒玉郡因氏爲其子則維行也其族五十餘皆 出自惟行勇武倜儻児玉黨之名著於天下治暦延久関維行称有貫主居阿久原監牧業任武蔵守民懷其徳延久元年八月八日卒子有大夫弘行孫武蔵權守家行等數卋居此地而維能 以下之死其年月日不可得考可考者獨維行耳雖然觀祠號表其姓盖維能以下數世之祠也今其祠依然而存例祭不懈者八百餘秊葢上世敬祖文遺風也郡人質直好古之者憂偉蹟之或民滅欲建碑 以傳於不朽請銘於余
余其裔也故喜作銘銘日 建国之制 敬祖重倫 有道祭先
忠孝天眞 監牧茁長従政化淳支繁衍豈無宿因
  甘棠勿伐遺愛在民八百餘歳精禋如新
明治二十六年十月
兒玉黨人従五位有道宿祢中條政恒撰
同   翆峯逸士淺見慶三郎題額弁書

金讃神社
Ⅰ】 ふと思うこと Ⅶ】 児玉黨・丹黨・猪俣黨の分布図
Ⅱ】 有氏神社 Ⅷ】 武士団の成り立ち
Ⅲ】 金鑚神社 Ⅸ】 児玉黨五十六氏
Ⅳ】 児玉黨出自 Ⅰ ⅹ】 リンク
Ⅴ】 児玉黨出自 Ⅱ
Ⅵ】 金鑚神社の分布図
武蔵七党児玉黨

わが家系のルーツを調べていくうちに、物部氏の末裔と判明。物部氏は① 吉備勢力 ② 出雲勢力 ③ 大和朝廷が成立する以前の奈良 などと深い関係にあると世間では言われている。しかし吉野ヶ里遺跡、三内丸山遺跡、北海道のアイヌ民族などとの関係はどうなのだろうかと、さらに歴史を溯り、縄文時代、旧石器時代、日本人の起源は、地球の 歴史は、となる。 今から15万年まえ、あるいは20万年前とも言われてい年代に、新人類ホモサビエンスがアフリカを出て、世界各地に進出した。日本には5万年前、あるいは10万年前にたどり着いたといわれている。 東南アジア、朝鮮半島、バイカル湖・樺太などの経由、三ルートが候補に挙がっている。そして確実な証拠は野尻湖の発掘調査により日本上陸は5万年前頃だと、マイカーで全国を旅して感じることは、当たり前のことと思われますが、 谷間の川沿いのちょっと開けた土地、盆地、平野などに集落がある。そして交通手段は主に「船」である。 現在日本列島を航空写真で俯瞰してみると、北九州地方、宮崎の日向、島根の出雲、岡山の吉備、香川の屋島、大阪、 奈良、愛知、福井、富山、新潟、関東平野、青森、北海道などに開けた広大な土地があり、発掘すればさらに多くの遺跡が発見されるのではないか。とくに東海地方、関東地方、北海道を隈なく探せばどんどん新しい遺跡が 発掘されるのではないか。それにより日本上陸の年代がより正確になるのではないかと思われます。
話をわがルーツに戻します。
わが家系のルーツは、武蔵七党の最大勢力の児玉党に属し、平安末期ごろに起こったようです。
有氏神社

鳥居が写っている写真は「有氏神社」で埼玉県児玉郡神泉村大字下阿久原秩父瀬に在り、 この神社は児玉党の祖「有氏(有道宿根)」を祭っている。この「有道宿根」は「維能」のことで、その後数世代を祭っているようです。小さなほこらがある。左下に写っている写真がそうである。この「有氏神社」が 11世紀なかばごろから、神流川沿いに、あまり広くはないがずっしりとして鬱蒼とした木々で囲まれた境内に、しかも他の神社のように荘厳な構えもなく、ただ物静かな佇まいで、今まで祭り守られているということは、 何と言っていいだろう、感無量である。この地域の人々の心意気を感じます。遺伝子的に縄文時代の心意気を引き継いでいるのかな。児玉黨の誇りでもある。そしてお祭りも左上の写真の説明書きにあるように特徴のある お祭り様式である。ここを訪れたのは9月24日ごろで、この神社の隣に住んでおられる方に偶然会い、ほかにない、そして賑やかでとてもいいおまつりですよ、ぜひお祭りにりの時にはおいでくださいと言われましたが、 遠方から来ているので丁重にお断りしました。
「児玉黨祖有氏神社の造營と奉賛會」が昭和16年11月7日に執り行われたようです。
金鑚神社

写真の金鑚神社は埼玉県児玉郡北泉村大字栗崎一五二番地、現在の地番は本庄市栗崎一五二に鎮座。 上越新幹線本庄早稲田駅を起点として、南側がすぐ小高い丘陵になっており、開けたところに早稲田大学キャンパス、本庄高等学院がある。北方向約1キロメートル先のところにJR本庄駅、本庄市役所、本庄城址、本庄市立図書館、 金鑚神社などある。東側約200メートルのところに写真に写っている金鑚神社があり、その反対側新幹線を横切ったところに「宥勝寺」が在る。その近くに小山川がある。この金鑚神社は児玉党宗家荘家長が奉斎し、 児玉党の守護神として祭ったようです。旧児玉郡(現在本庄市)の至る所に鎮座している。これは当時の児玉党の勢力範囲を示したものと言われている。鳥居が写っているうえ側は、平成17年1月5日、下側は平成24年9月24日に撮ったものです。   

児玉黨の出自

Ⅰ】 笹川臨風著「児玉黨」から抜粋紹介します。この書は久米良作氏が臨風氏に依頼して書き下ろされた本です。
大正十一年九月完
児玉黨の系圖

大日本史氏族志には「有道氏は丈部より出づ。仁明帝の時、常陸筑波郡の人正六位上丈部長道・同姓左近衛福道等、姓を有道宿禰と賜ふ」とあり。註に 「姓氏錄せいしろくを按ずるに、天足在國押入武内宿禰及鴨武津>身の後、ならびに丈部氏あり、有道氏の出づる所何の族たるを つまびらかにせざるなり」とある。 丈部はハセッカべとくんし、大日本史氏族志の註に云へるが如く、新撰姓氏錄せいしろく姓氏には、
丈部  天足彦國押人命孫、比古意祁豆命後也。
丈部首武内宿禰男、角宿禰之後也。
丈部  鴨縣主同祖、鴨建津身命之後也。
の三ある。猶大日本史氏族志の本文は績日本後紀。仁明天皇、天長十年(833年)二月の記事に依りて錄されたものである。 胆し細井本大塚本には丈を大に作ってある。新撰姓氏錄和泉神別に「大部首、瞻杵磯丹杵穂命之後者不 >見」とある。

續日本後紀 丙子、常陸國筑波郡人散位正六位上丈部長道一品式部卿親王家令外従五位下丈部氏道・下總少目従七位下丈部繼道・左近衛大初位下丈部福道四人、賜姓有道宿禰四方田系圖・大河原系圖・醫道系圖に 依ると有道と改姓したる一品式部卿親王家令外従五位下丈部氏道の末裔に刑部丞有道維廣なるものがあって、關白道隆の家司となってゐた。維廣に二子ありて長を維仲、次を、維能と云った。維能名亦道隆の嫡子内大臣伊周に仕へてゐたが、 後に武藏權介に任じて下向し、傍ら兒玉郡の地を開墾して、兒玉庄に住し、其の解官歸京するの後、更に再び来任して餘生を此地に養ったようである。維能の子は卯も維行(伊行)で、父の後をいで、 兒玉庄に住し、始めて児玉氏を稱した。之を児玉氏の祖となすとある。伊周の子孫とする武蔵七窯系圖・児玉系圖に對しては異説である。但しいづれにしても道隆・伊周とは緣故があり、一は其子孫とするものと、 一は其家司とするものとの差異はあるが武蔵七黨系圖では有道氏を外祖としてあるから・・・・之に依れば伊周は有道氏の女.を娶りて維行(伊行)を生んだことになるのである。然るに有道氏なる兒玉氏が藤原姓を唱へ出したのは。 建武中興の時で、武蔵七黨系圖に元弘三年(一三三三)十一月二十日(異本十一日)
>元可>藤原氏>宣下武者所祗候之時者被>藤原長家(おわる)とあり、

雑訴決断所結番交名に、二番東海這の部に庄左術門尉藤原長家と記し、建武記、延元元年(一三三六)四月武者所結番事、四番の條下に、庄四郎左術門尉藤原宗家とある。して見ると伊周り子孫と云へる説は或は此時に唱へ出されたのではあるまいか。 「元の如く藤原氏たるべく由宣下せらる」とあるが如く。藤原氏たることを唱へて其認可を奏請そうせいしたのは、無論庄長家であつたに違ひない。雑訴決断所・武者所の所員となりで、 名族の間交はるには、藤原姓を名乗ることが最も都合が善かったであらうかと思はれる。久しべ有道氏を唱へて絶えて藤原氏を名乗らかったのも甚だ不可思議ではあるが、建武中興の新政當時、百般の事物が創設されんとする際なれば、 隨分斯くの如きこともあったらうと思はれる。殊に公家一統の世なれば、兒玉氏が藤原姓を名乗るは家門の光輝を添へるに於て極めて恰好であったらう。
   然らば兒玉氏は事實有道氏であったのか、それとも藤原氏であつらうか、先づ以て考究を要すべき問題である。假に伊周の子なりとすれば、伊周の赦免後に京都に還るべきが當然であるし、叉藤原姓を名乘るべきならば、必ずしも遠く元弘建武 の久しきを待つを要さないではないか。疑はば疑ふべき餘地は多々ある。有道維廣・維能父子が關白道隆・内大臣伊周と主従の關係ありとすれば、後世、系を伊周につなけて其家系を飾らんとすることも亦必無なりとは云ひ難い。 此點よりすれば四方田系圖・大河原系譜・醫道系圖の方が合理的と云はねばならね。しかし史料通信叢誌そうしに掲げたる中條政恒氏の兒玉考に有道氏を以で物部氏より出でたりとするは、續日本後紀細井本・ 大塚本にある大部首を以て有道氏の出なりとしたのに基いたのであらう。尤も醫道系圖に依ると、有道氏は船瀬足尼ふなせのすくねに出たとしてある。船瀬足尼は伊香色雄命いかがしこおののみこと の三世孫であることが國造本紀くにのみやつこほんきに見てゐる。卽ち久自國造くじくにのみやつこである。伊香色雄命は物部氏の祖なる饒速日命 にぎはやひのみこと後で、饒速日命の子が可美眞手命うましまでのみこと、其子に彦湯支命あり、其子が出石心大臣命、其子が大矢口宿禰、其子に大綜杵命あり、伊香色雄命は其子に當ってゐるから、 云ふまでもなく物部氏である。大部首のなる祖なる膽杵磯丹杵穂命いぎしにぎほのみことも物部氏であることは新撰姓氏錄、河内神別に、若湯坐連、「膽杵磯丹杵穂命之後也」とあるので知られる。 本朝月令に引ける高橋氏文に、景行天皇が五十三年癸亥みずのといの歳(一二三年)に東國を巡幸し給ひ、上總國安房の浮島宮にて磐鹿六獦命いは か むつかりのみことが、 其海中より堅魚白蛤かたうをしろうむぎの二種を得て之を調理して獻じ奉れるを歡び給ひしことを叙して、

「卽ち歡び給ひ、ほめ賜ひてみことのり給はく、此は磐鹿六獦命いは か むつかりのみこと獨りが心にはあらず、 あめす神の行ひ賜つる物なり、大倭おほやまとの國は行 ふわざをもて名に負はする國なり、磐鹿六獦いは か むつかりの命は王子みこたちにあれ、 子孫みこたちの八十やそつゞきに、遠く長く、天皇すめらぎあま御食みけいはえまつりとりもちてつかへまつれとおほせ賜ひて、則ち若湯坐連わか ゆ へのむらじ始祖もとつおや物部意富賣布連おほめ ふ むらじはきたる太刀たち き置かせてへ賜ひき云々」とありて、

若湯坐連わか ゆ へのむらじは物部氏であることが明かである。従って若湯坐連と同じ祖を戴く大部首も亦物部氏である。であるから有道氏を大部首の後とすれば、有道も応亦同じく物部氏である。 しかし丈部氏とすると、三丈部氏のいずれに屬するかヾ不明であるから、其出をつまびらかにし難い。醫道系圖の云ふ所を正しとするや否やに就いて此問題は決すべうである。 之に依りて續日本後紀にある有道宿禰を賜はりたる諸氏が丈部氏であつたか、大部氏であつたかも決定すべきである。
有道氏が物部氏であつたか否やはしばらく置きて、維行はどうも有道氏の出であって、藤原氏の出ではないらしい。其の藤原氏を稱するにもとづのは、恐らく元弘建武の際であったと 思はれる。建武記に載せたる二條河原の口遊に、

下克上げこくじょうする成出者、器用の堪否かんぷ(堪能なことと堪能でないこと。) 沙汰もなく、漏るる人なき決斷所、きつけぬ冠上こうぶりのうえのきぬ、持もならはぬしやく持て、内裏だいり交り珍らしや云々、 關東武者のかご出仕しゅっし下衆上﨟げすじょうろうのきはもなく、大口に切美精好せいこう云々」

關東武士が雑訴決斷所武者所に出仕する時代であった。叉太平記に云ふが如く、

「されば日頃武威に誇り、本所をみせし權門高家(権力を持つ高貴な家柄)の武士共、いつしか諸庭しょてい (諸方の公卿の家門、または邸。)の奉公人となり、或は輕軒香車きょうけんこうしや (よすみが美しく反りあがり、かつ香木で作られ軽やかに動く車)しりへに走り、或は青侍格勒せい し かくろく (身分の低い若侍が格式のある轡)の前にひざまずく、世の盛衰時の轉變てんぺん歎くに叶はね習と知りながら、今の如くにて、公家一統の天下ならば、 諸國の地頭御家人は皆奴婢ぬひ雑人の如くにてあるべし。」と、

公家がにわかに我が世ぞと跋扈ばっこする時代であった。猶江戸幕府が倒れて薩長土肥の地方武士が一躍帝都に幅を利かすとともに、攝關清華せっかんせいが の公家が臺閣だいかく(政治を行う官庁)に列して政治の實務に當ったと同様であった。唯明治維新は建武中興の失敗の轍を踏まずして、 美事に其目的を貫徹したのであったが一時の現象は建武中興のそれと觀を同うした。 公家の多数と同じ藤原姓を唱ふることは、關東武士の中に於ても殊に誉であったらうと思はれる。そこで道隆・伊周の關係を一變して血脈 相承そうしょうを唱へだのではあるまいか。「元の如く」の字には特に一種の味があって、此間の消息を傅へてゐるかに感ぜられるのである。しかし之は臆測であって、敢て的確なりとは云ひ難いのである。 舊説に従へば、とにかく藤原氏の出であ。

武藏七黨系圖に「遠峯號有貫主又伊行とも云」とあるは何を意味するのであらうか。児玉黨系圖には伊行を伊周の子とせずして、

伊周―――  道雅―――  ――― 覺助       
女子 ―――觀尊
    ―――女子 ―――女子 
  顯長――― ――――― 遠岩―――   伊行 

伊周の子顯長の孫とし、父を遠岩としてゐる。叉伊行の下に「號遠峯、兒玉一流祖、有貫首」としてある。遠岩の名も頗る不思議であるが、伊周の祖父兼家の弟には 遠量・遠度・遠基があり、糾猶遡れば攝政關白基經の兄弟に遠經があり、關白兼通の子に遠光がありて、遠の字を用ふるものゝないではない。然し父が遠岩であって、子は伊行でありながら、遠峯と號すと云ふに至りては、極めて不可解 と云はねばならぬ。遠峰は軍團の名で、義訓ぎくんにてコダマとくんす、音聲の遠山に響くを云ふなりと解くものがある。一説としては聞くべきである。 兒玉系圖にある遠岩は遠峯から出た假託人物ではあるまいか。若くは遠峯伊行とあつたのを分けたのが轉寫の際に誤まったのではあるまいか。武藏七黨系圖にある「依外祖有道氏遠行」の遠行は遠行するの義でなして、 名であらう。父を遠行とし、子を遠峯としたのではあるまいか。之を名なりとすれば恐くは亦假托であらう。

有貫主の有は有近氏の略なるべく、貫は一族の義で、貫主は一族の長たるを意味するのであう、維行の子に弘行あり、七黨系圖・児玉黨系図に有大夫別當とあり、弘行の弟に經行あり、有三郎別當大夫とあるが、 有大夫及有三郎の有は、いづれも有道氏であらう。別當とあるは御牧の監督者を意味する。卽ち弘行・經行等は阿久原牧の長官であつたのである。阿久原は現今の兒玉町を距ること二里、神流川の東岸に在りて、 上野の鬼石町と相對してゐる。山がせま水にのぞんだ處の峡谷である。現に同地には有氏明神と云ふものが猶残つてゐる。以前は古本が圍んでゐたのであらう、 大木の切株がありし世の面影を傅へてゐるが、今では小さな神寂びた鳥居にかゝる朽ちかゝった注連繩ちゅうれんなわ(しめなわ)が、風に揺れてゐるばかり、 周圍は雑木が一區劃を作つてゐるい。境内は狭隘きょうあい(せまい)で、社殿と云ふ物もなく、小やかな石の祠の如きものが大磐石の上に てられた如く置かれてゐる。しかし其祠のおくには神體も存在して居らぬ。中條氏は此明神のことを述べて、

児玉一黨のことに付實地にちょうすべきあかし詮索せんさくすること久し。武藏風土記に 有氏明神とあるよりとくと其實地を儉するに、武藏国兒玉郡下阿久原に今に同社のあるあり。中古壯觀なる社祠しゃしあ<りしと見え 境内四方の古木鬱蒼森々たるを伐採せし痕跡分明こんせきぶんめい(はっきりしていること)にて、 今に根幹こんかん歴々る、五六尺廻り前後の大樹のみにて境内と覺しき區域も狭少きょうしょうならず、今はいと小なる建物にはあれども、 古より同村民の祭る所にて、今に怠らずと云へり。別に神體とてはあちざれども、唯年々祭時にみてぐら (神に奉納するもの)おさむるの例なりとぞ、叉古來村内にロ碑相傅ふ、往時有氏神殿の後に古石塔一ありしが、後移して殿あらかの東北に在り。 此移轉の時發掘せしに、脛骨けいこつ頭蓋骨ずがいこつの巨大なる者出づ、脛骨殆ど二尺計り、頭蓋骨は木鉢の如しと。(中略)さすれば京師(みやこ) より兒玉郡に移られ、子孫繁滋はんじ一大黨と稱する迄に至たれば、此地に於てそつしたる人の墓地につい て祠を建て祭り始めたるより、永く例となりて有氏>明神と稱し、今日に至たるものなるべし。祠殿しでん後より出でたる枯骨も誰れの遺骨たるやは知得すべからずと雖も、 維能以下數世中の一人るべきはをれず。(下略)と云つてゐるが、

さほど此處に壮麗なる祀殿のありしとも思はれず、墳墓であったか否やも疑問ではあるが、有道氏の祖先に開係ある霊域であったことは疑ふべくもない。有氏明神の有氏は有道氏の省語であることも信ずべきである。 此附近に阿久原牧があって牛馬の牧飼ぼくしせられてゐた其光景を追想するに足りる。恐くは當時有道氏は今の兒玉に住居せずして、此附近に根據地を有してゐたのではあるまいか。 其の峯を越えで、兒玉庄に移ったのは後年のことであらうと思はれのである。
   維行- 弘行― 家行- 家弘- 弘高― 家長

武藏七當系圖及兒玉系圖に依ると、弘行の子家行は武藏權守・河内權守とあるが、こは果して事實であったらうか。大日本史國郡司表に絶えて此人の名を載せてないから、すこぶ る疑問とせねばならね。家行の子弘高は庄權守とある。此權守も武藏權守とすれば、之れ亦同じく疑しい物である、但し此時よりは庄を以て氏としてゐる。庄ば兒玉庄の庄であらう。弘高の子家長は庄太郎と稱し、 保元平治以後源平の合戦に其勇名を馳せてゐる。蓋し児玉氏が中央の舞臺に活躍たのは、實に家長に始まつてゐるのである。

【Ⅱ】 川又辰次著 「軍記 武蔵七党 上巻」(昭和60年刊行)から抜粋紹介します。

「姓氏家系大辞典」児玉 コダマ 武蔵にあり、和名抄に古太萬と註す、後郡内に児玉御庄あり。其先は有道氏より出ず。有道氏は姓氏録にある丈部氏にして、丈部氏道はせつかべうじみち のときに、有道の宿称を賜わりしより有道氏を称す。有道刑部丞維弘、関白藤原道隆の家司となる。その二子維能、道隆の子内大臣藤原伊周に仕へしが、後に武蔵介となりて武蔵に下向し、児玉郡を開墾し、 終に土着して、児玉庄に居住し、其子維行、有貫主と称す。武蔵守となり任満ちて帰らず、父祖の地、児玉庄に住して児玉を氏とす。系図一、丈部氏道が有道を称す。 ・・維弘・道隆の 家司刑部丞維能・伊周に仕ふ、武蔵介維行・有貫主・武蔵守。

治暦(一〇六五・後冷泉帝)延久(一〇六九・後三條帝)の間に維行あり、皇室御領の阿久原牧を管領して阿久原に居住す。今、阿久原に有明神あり。有は有道の略称にして、 児玉氏の祖先を祭りしなるべし。維行の長男有大夫弘行、二男二郎経行あり。共に児玉、庄を氏とす。これより児玉、庄の両家に分れぬ。而して弘行の子家行は武蔵権守となりて、 益々武蔵国に勢力を振ひぬ。それより一族繁栄して、児玉、秩父、大里、諸郡より上野国に及び、引て全国に其の余流拡がりぬ。
有道氏とは如何なる氏か。「姓氏家早大辞典」次に私見を述べむ。児玉党の有道氏なることならん。 系図も、しかく明記し、又此の氏の人が、有貫主、有大夫、有三郎など、有字を通称に冠するは、他の例より類推して有道の略と思わるるが故なり。而して有道氏は如何なる氏かと云へば、
続日本後紀、天長十年(八八三)二月条に
「常陸国筑波郡人散位正六位上は丈部長道、一品式部卿いっぽんしきぶきょう親王家令外従五位下丈部氏道下総少目従七位下丈部継道、左近衛大初位上丈部福道、四人に姓を有道宿弥を賜ふ」

とあれば明かに丈部の後にして、猶ほ丈部と云ふも各地にあれど、こは常陸筑波郡の丈部たりしが如し但し氏道、福道は在京し、継道は下総に居りしも、こは任官して其の地に赴任せしにて、 その実、常陸の人なることは、 続日本後紀、承和元年(884)十月条に、氏道の事を「常陸の国外従五位下有道宿弥氏道の本居を改めて左京七條に貫附す」見ゆるにて、一層詳か也。 故に若し児玉氏の祖維能が其の父惟広以来道隆伊周の家令となり、武蔵権介に任ぜられ、而して一族、武蔵にはびこりしものとすれば、恐らく此の一品式部宮の家令となるを職とせしならん。
当国に下りし真相は明白ならざるも、当国司として在任中、恐らく児玉郡地方に私田を墾開して、自家の荘園となしありし為、中関白衰運の顕著なるを察し、中央に断念して、 当国の豪族となりしものと考へらる。けだし達識の士と云ふべし。
風土記稿児玉郡総説条(姓氏家系)に「按ずるに、本郡は当国七党の一児玉党の住せし地なり。七党系図に拠るに、 児玉の先祖は、武蔵権守家行の男、児玉庄大夫家弘に出で、末裔近郷に散在して、在名を名乗りし者数十家に及べり。」
出自に関しては、「有道氏、元藤原」又、遠峰に註して、「遠峰は、藤大納言、成人・云ふ。儀同三司伊周公の子云々」と見え、又、一本系図には「師内大臣伊周公の男、父左遷の時、 外祖有道氏遠行に依り、武州に下向し、姓を有道と為す」と見ゆれば、藤原道隆の長子内大臣伊周の後裔なる如く思はる。
故に 大日本氏族志も藤原の条下に入れ、「児王氏は師輔の子、摂政兼家の長子、関白道隆より出づ。道隆の長子伊周内大臣、道雅、顕長を生む。其の後世、に聞ゆるなし(尊卑分脈) 其の下りて武人となる者を児玉氏と曰ふ。武蔵七党の一也。伊周・有道氏をめとり、少子伊行を生む。伊周のおと せらるに及び、伊行・外祖父に従ひ、□りて武蔵に居る。是を児玉党の祖とす。
(系図を按ずるに、伊行・有貫主と称す。弘行・行を生む、弘行・有大人と称し、径行は有三郎、益々伊行・外祖有道氏の釆邑を受け、ついに其の姓を おかすを知る。故に有を称となす也。附して以て考に備ふ)」とあり。

金鑚神社の分布図
\児玉黨・丹黨・猪俣黨の分布図
武士団がどの様な経緯で勃興したのか「本庄市史 通史編 Ⅰ」に詳しく述べられているので紹介いたします。 
本庄市史 通史編 Ⅰより、
律令制の変質と武士の勃興

大化の改新の際に実施された班田収授法は、以来引き続いて実施されてきた。しかし、 人口の増加による口分田の不足、死亡交替による煩雑な事務処理、貧窮のために貢租その他の義務から免れようとして、口分田を捨てて逃亡するなど、制度の矛盾が表面化し、平安時代に入るとさらに衰退していった。 口分田の不足の対応策として、朝廷はすでに養老七年(723)三世一身法を施行した。

三世一身法さんぜいっしんほう

この法は、新たに田地を開墾した者には、曽孫に至る三世の間、旧来の施設を利用して再開墾した場合は一生の間、その墾田の私有を認める。さらに朝廷では、天平十五年(743)、墾田永代私有法を定め、開墾した土地は 永久に私有することを許した。これは、土地公有の原則を破る重大な変更であり、結果的には、労働力を有する貴族・大寺院などは、積極的に墾田の開発や買収に向い、その大土地所有を促進させた。 自墾地系荘園とよばれる。その後、地方の豪族や有力農民は、自力で土地を開墾して開発領主となり、その墾田を国司や他の豪族から侵略されぬように、中央の有力な貴族や寺社に寄進して領主注Ⅰ になってもらい、自身は荘司・荘官となって、 自質的な支配権を確保するというやり方が多くみられた。(寄進地系荘園とよばれる。)
なお、この他に大化の改新の際、皇族や豪族の所有地で、公地公民制実施の不徹底な場合や、私有地が承認されている寺社領地、位階や官職に応じて支給された位田や職田しきでん、国家に功労 あった人に賜った功田こうでんのさまざまな私有地があった。

注 Ⅰ 荘園の寄進を受けた貴族や大寺社を領家といい、領家がその荘園をさらに上級の有力者に寄進したとき、その上級者の領主は、本所とか本家などと呼ばれた。
荘園の成立

前述のような、墾田をはじめとするこれらの私有地、荘園成立の原因や基礎といわれているが、こうしたことは律令制度を大きく崩潰させる原因となった。これら私有地は、はじめはその多くが輸租田>ゆそでん (租税を負担する土地)であったが、後には所有者の権勢を持って不輸租田ふゆそでん(租税負担のない土地)に変え、これに加えて、司法・警察など一切の国家権力の、当該私有地への介入 を拒否する権を得るようになった。これからの権は「不輸不入の権(租税を納めず、国家権力も入れない権限)」といわれたが、一般にはこのような特権を持った私有地を荘園と呼び、国家からの独立性が強かった。 このような荘園に対して、国司の管轄する公領は国衙領と呼ばれたが、荘園性の発達に伴い、地方の支配権は次第に朝廷から離れて、有力な貴族・寺社や在地土豪の手へ移っていった。
勅旨田・勅旨牧
勅旨田

武蔵における荘園の主なものは、皇室院領と国司・官人、またはその子孫の墾田である。院領としては、淳和天皇の天長六年(829)十二月、空地町を西院勅旨田淳和上皇の御所となし、翌七年三月には、空閑地町を勅旨田天皇家 の私有地として開発させ、その開発料として正税一万束(田祖のこと)をあてたことが、『類聚国史』に見えている。次いで、仁明天皇の承和元年(834)二月、幡羅郡はらぐん (現、大里郡の一部)の荒廃田123町を冷泉院(嵯峨上皇の御所、のち仁明天皇の御所)<にあて奉り、同八年(841)二月、武蔵国の田507町を嵯峨院(嵯峨上皇の御所)にあて奉ったことが、『続日本後紀』に見えている。 児玉郡上里町大字勅使河原の地名は、勅旨田と関係あるものと推定される。国司・官人の土着の例として代表的なものは、清和源氏の祖となった、天慶年中の源経基みなもとつねもとがあげられる。 また、『扶桑略記』に、前武蔵権介源仕みなもとのつこうが国府を襲おうとしたことが記されていが、これは、源仕が解任の後、その荘園に土着して、私営田領主として国司に対抗し得る実力者に 成長していたことを示すものである。別に述べる児玉党に党祖有道維をはじめ、いわゆる坂東八平氏や、武蔵七党として発展し、武蔵士の党祖となったのは、みな、皇族・貴族の出身である。これらは、中央から武蔵国へ着任した 国司や牧の官人で、任期が終わっても帰京せずに土着した人たちであり、また、その子孫はそれぞれの地に荘園を成立させた。「秩父庄司」や「斎藤別当」のような称を持つ武士がいたことは、 そのあかしであろう。

勅旨牧

武蔵国は面積広大で、牧草しげる原野が多かったので、早くから各地に官牧および御牧(勅旨牧)が置かれ、 私牧もまた発達して良馬を産出していた。武蔵の勅旨牧としては、延喜九年(909)立野牧が最初で、次いで承元元年(931)には小野牧が勅旨牧となり、さらに同三年(933)秩父牧が勅旨牧とされている。これらの牧については、 すでに前章第三節で触れているが、このように勅旨牧とされることによって、牧の実質的開設者である在地土豪は、牧に対する外部勢力の侵入を防止し、管理者としての権威づけや勢力拡大がはかられたと考えられる。 古代末期に至って、朝廷の力が弱まり、国司の支配力のまた衰退すると、牧は在地土豪に押領されて、名実ともにその支配するところとなり、武士化促進の要因となったと考えられる。

 
地方政治の乱れ
(一)地方政治の乱れ

桓武天皇は平安遷都以来、律令政治の引き締めに勤め、勘解由使かげゆしを置いて国司の監督をきびしくし、班田収授法の励行、健兒制こんでいの採用、 蝦夷の鎮定など、政治の刷新の実をあげた。その後、嵯峨天皇(809~82)のとき、蔵人くろうど検非違使けびいしなどの令外りょうげ の官(律令制下、令に規定された以外の管)が新設され、実質的な官職によって能率的な政務処理が計られた。さらに後、律令施行後に数多く出された格・式(律令の補正及び施行細則)の集成も行われた。 しかし、このような努力にもかかわらず、国司の統治力は弱体化し、有力者の大土地所有、地方豪族の私有地拡大が進み、地方政治は衰退して、秩序・治安が乱れていった。
(二) 武蔵国群盗蜂起

武蔵国においても、秩序・治安の乱れは著しく、諸国で一人ずつ置かれてい、検非違使が、『日本三大実録』には貞観三年(861)十一月十六日に、武蔵では国内二十一群の各群ごとに検非違使が置かれた。それは悪賢い悪人たちが党をつくり、 盗賊がいたるところの山野に満ちているためである」との記録が残されている。その後も昌泰三年(900)「武蔵国強盗放棄」(『扶桑略記』)や、延喜元年(901)二月十五日、『坂東の群盗発向、その内、信乃しなの 上野こうづ甲斐かい、武蔵尤もっともその害あり』(「扶桑略記」)などの記録が伝えられていて、当時の状況を推察することができる。 また、その他にも国司対豪族や豪族相互間の紛争も頻繁に起きてきた。
(三) 興世王・源経基と武蔵武之の紛争

そのような紛争のうちでも、広く知られているものとしては、平将門の乱にも関係をもつ、承平八年(938)二月に起きた、武蔵守むさしのかみ興世王おきよおう介 源 経基すけみなもと つねもと武蔵武芝むさしたけしばとの紛争があげられる。武蔵武芝、当時足立郡司と半管代をかねた有力土豪で、常日頃より 公務に精励して、立派に足立群を治め、その令名は広く武蔵国内に知られていた。これに対し、国司は諸国とも皆おしなべてそうであったように、農民から収奪することのみに専念したので、ついに武芝と戦いを開きそうになった。 これを聞いた平将門が、両者を調停して紛争を鎮めるため、下総から軍兵を率いて武蔵国に入り、まず武芝を説論し、将門・武芝は相共に国府をめざして発向した。将門の知議斡旋により、興世王と武芝との和解は成立したが、 武芝の後陣たちがこれを知らずに経基の営所を囲んだ。この事態を見て、将門が興世王と武芝に勧めて、自分を殺そうとして攻め囲んだと誤認して、確かめもせず京都へ逃げあがり、将門が興世王とともに謀反を計っているとして上奏した。 これが、世に「天慶てんぎょうの乱」または「将門の乱」と呼ばれ、天慶二年(939)から同三年にかけて、広く関東一帯を巻き込んだ国家的反乱に向かわせる契機となった。
(四)  武士の起こり

平安時代の後半に武士が起こってきたが、それが特に著しかったのは、前代以来、防人さきもりとして、あるいは蝦夷征討などにおいても早くから認められていたように、武蔵の人々の勇武剛健の 天性も影響があると思われる。既に律令制が退廃し、代って健兒制こんでいせいが見られたが、その人員は、武蔵国で150人という小人数であり、到底一国内の治安を保ちつつ、 有事の際の警備をまっとうでき得る筈がなかった。また、国司の力も衰え、地方政治が乱れてくると、自らの生命財産を守ることが必要となった。こうした状態にいたり、特に荘園を持ち、または荘司の実権を握っていた在地土豪たちは、 土塁や周溝などで屋敷を固め、農繁期には、狩猟やその他により、弓馬・武芸を鍛錬し、一族や配下の荘民を武装させて私兵とした。これらは家の子、郎党といわれたが、土豪たちはこうして実力を蓄え、あるいは地域的な団結を強めていった。 これが武士の起こりである。
(五) 武士の果たした役割

さらに実際の争乱際して、国家の治安維持にあたるべき政府にその力は乏しく、その鎮定・解決には、ほとんど地方豪族の武力に頼らざるを得なかった。たとえば、長元三年(1030) 下総しもふさの平忠常の反乱で、朝命によりこれを討ったのは源頼信であり、天喜・康平年中(1053~1064)に、陸奥の安部頼時・貞任の乱を平定したのは源頼義であり、 もはや武士の力にたよらなければ、地方の変事事・争乱を鎮定することができない実態となっていた。こうして、古代の「兵」に代って、新しい「武士」が成長していったが、こうした武士の興起を促進させたものとして、 平将門の乱があげられよう。
武蔵武士
武士団の形成

荘園に拠った豪族たちは、家の子・郎党を率いて武士団を作った。武士団は、自衛のため発生したもので、初めはそれぞれ孤立した勢力であったが、自己よりも強大な勢力と主従関係を結んで、 その庇護を受け、事ある時はその召集に応じて指示に従った。こうした主従関係が幾重にも重なり、その頂点に立って、いわゆる「武門の棟梁」として仰がれたのが、桓武平氏や清和源氏などのように、 国司として都から下向し、退任後はそのまま任国に土着して荘園を開発した貴族や、その子孫たちであつた。また、郡司たちの多くは、その地方の名家として知られた有力豪族たちであったが、彼等もまた、 律令の土地公有制衰退に伴い、その権力・労働力を活用して墾田開発を促進し、財力を蓄えて富強化して行った。「宇治拾遺物語」巻第一「利仁芋粥としひといもがゆの事」 によれば、利仁は、都では摂関家に啓仕し、その台所に出入りしているような下級者であるが、その本貫地越前に帰れば、ゆたかな財力や郎党を擁して、 都の下級貴族にとっては想像もできない豪奢な生活をしていた。武蔵においても、武士たちは前述のような土着した退任国司や、富強化した郡司層の子孫など名門豪族を中心にして、党的結合をなし、 武士団を形成していった。その代表的なものが、後の「武蔵七党」と称された武士団その他であった。

児玉黨・丹党・猪俣党武士の分布
児玉黨一族(本庄市史 通史編 Ⅰより転記)
 本庄市や児玉郡には、武蔵七党の一つである児玉党の子孫と言われる家がたくさんある

阿佐美あさみ浅見あざみ久米くめ児玉こだま庄田しょうた富田とみた平児玉ひらこだま本庄ほんじょう四方田よもたなどの名字が付く家で、家紋を見ると 団 扇うちわ」や「軍配団扇」など共通したものを使っていることも興味深い。
それぞれの家では、治承四(一一八〇)源頼朝の挙兵の後、頼朝に味方をして、義経や範頼の軍に従い、團扇紋を旗印に先祖が犬活躍したと伝えられている、しかし、児玉党の活躍は、 源平合戦ばかりではなく、その前の保元・平治の乱(一一五六・一一五九)、さらに、遡れば、奥州合戦、後三年の役(一〇八三)にも参加している。源平合戦の後にしても、承久の乱(一二二一)や 南北朝の争い、戦国時代においても、敵味方に分かれたとはいえ活躍している。
児玉党の祖は遠峯維行(伊行)であるが、その先祖については明らかではない。維行、あるいは維行の父・維能が、藤原伊周の子ども、孫の子どもいかれ、また伊周に仕えたともいわれる。 姓は有道で、有貫主とも称せられた。その起源については、不明瞭な点が多く、後でふれるように、系図によっていくつかの説が生れている。しかし、いずれにしても維行が児玉黨の始祖であり、 平安時代末期に朝廷の御牧である阿久原の別当(当時牧の管理者)ににんぜられていたこと、そして、任務が終わってもそのまま土着し、旧児玉郡地域を開発して在地豪族となったというのが多勢の意見である。
維行の嫡流(本家の家筋)は、児玉郡内を流れる現九郷用水関連河川の流域に居住し、その土地の地名を名字(苗字)とした。 塩谷しおや児玉こだま真下ましも今井いまい浅見あさみ富田とみた四方田よもだ久下塚くげつか北堀きたほり牧西もくさいなどの支族がそうである。
維行の庶流である 経行つねゆきは、阿久原牧の経営を引継ぎ、その流れは秩父平氏と結びついた。その子孫は、平児玉を名のり、秩父郡のほか 上野国甘楽郡かずさのくにかんらくぐん鏑川かぶらがわ流域や群馬郡の島川・井野川流域に居住した。 大河原おおかわら片山かたやま小幡おばた奥平奥平/rt>大類おおるい倉賀野くらがの島名しまな多子たこなどの支族がそうである。
弘行の子、つまり維行の孫相行(資行)は、大西郡に居住し、子孫は越辺川流域を開発した。浅羽あさば小見野こみの粟牛田あわうだ小代しょうだい/rt>越生おごせ鳴瀬なるせ黒岩くろいわ岡崎おかざきなどの支族がそうである。

児玉党の一族は、『武蔵七党系図』によると、次のように五六氏に分かれる。
有道氏 改藤原
庄(莊・荘) 本庄 東久下塚 西久下塚 若水 四方田 宮田 蛭河 今居 阿佐美
小中山 塩谷 児玉 富田 薦田 長岫 新生 中条 新里 鳴瀬
黒岩 岡崎 入西 浅羽 堀籠 長岡 大河原 小見野 粟牛田 小代
越生 高坂 平児玉 秩父 興島 吉田 竹澤 多子 小幡 倉賀野
大類 稲島 狛島 片山 新屋 大渕 鳥方 真下 御名 大濱
奥平 白倉 吉島 山名 島名 大河原 牧西
上記のほか児玉郡には桜沢・平児玉姓を持つ家があり、児玉黨の子孫と伝えられていれ、「軍配団扇」の家紋を用いている。
リンク
 1) 談山神社 http://www.tanzan.or.jp/ 11) 小代行平置き文 21) 備中国時代
 2) 主に備中の歴史を記述。http://bitchu.fc2web.com/
http://sengoku_.at.infoseek.co.jp/>
 12)  四方田氏  22)  藤原氏の流れの系図
3) 児玉風土記-1 13) 草壁郷 23) 物部氏の流れの系図
4) 児玉黨 14) 武蔵武士(笹川臨風著) 24) 草壁郷・莊氏の備中赴任
5) 児玉党一族 15) 武蔵武士(八代・渡邊著) 25) 莊家の系譜
6) 児玉黨-川又編 16) 莊 家長 6) はちかくのあげは
7) 阿久原牧・有氏神社 17) 児玉黨の系譜と系図 27)   兒玉黨一族の動向
8) 金鑚神社 18)  藤原氏の流れ 28) 元資以後の莊家一族
9) 有勝寺 19)  物部氏の流れ 29)   Ocatgon
10) 洞松寺 20) 武藏国時代