善良な生活

 

1.善良な生活を送っている者のみが、心に神を承認することが出来る

2.生活の善、または善良な生活を送ることは、悪を、それが宗教に反し、それゆえ神に反するため、避けることである

3.悪はそれが思考の中に留めおかれることにより、同意によりとくに行為とそこから生まれてくる歓喜により意志の中へ入る

4.天界の生活に反した生活を世で送った者らに天界の生活を植えつけることは不可能

 

 

 

1.善良な生活を送っている者のみが、心に神を承認することが出来る

 

神の摂理326(ロ)

 

「人間は各々その生活の善に従って神を承認し、神と結合する」。

 

 何らかの宗教的な知識を持つ者は凡て神を知ることが出来よう。彼らはまた知識からまたは記憶から神について語り、或る者は神について知的に考えることが出来るのである。しかし人間は善良な生活を送らない限り、それはただ彼を神の前に連れ来るにすぎない、なぜなら彼は神の前にいるにも拘らず神から面を背けて地獄に向けることが出来、もし邪悪な生活を送っているならば、そのようなことをするからである。しかし善良な生活を送っている者のみが、心に神を承認することが出来るのであり、主は生活の善に従って彼らを地獄から連れ出して、御自身に向けさせられる。その理由は彼らのみが神を愛するということである、なぜなら彼らは神から発している神的な物に対する愛をその神的な物を為すことにより示すからである。神から発している神的な物とはその律法の教令である、教令は神である、なぜなら神御自身は神御自身の発出している神的なものであり、教令に服従することは神を愛することであるから。これが主が『私の誡命を守る者は私を愛する者である、しかし私の誡命を守らない者は私を愛する者でない』と語られる理由である(ヨハネ14・21、24)。これが十誡には、一枚は神に関係し、他の一枚は人間に関係している二枚の板石の在る理由である。神は御自身の板石に含まれているものを人間が受け入れるように絶えず働かれているが、もし人間が自分の板石にある物を行わないならば、神の板石にある事を心で信じておらず、その場合、彼は神に結合してはいない。これが二枚の板石が結合して一枚となり、契約の板石と呼ばれた理由である、なぜなら契約は結合を意味するからである。人間は凡てその生活の善に従って神を承認し、神と結合する理由は生活の善は主の中に在って主から発している善に類似しており、それゆえ人間は生活の善にある時、結合が生まれるということである。その反対が生活の悪に言われる、なぜならこれは主を斥けるからである。

 

 

2.生活の善、または善良な生活を送ることは、悪を、それが宗教に反し、それゆえ神に反するため、避けることである

 

神の摂理326(ハ)

 

「生活(ライフ)の善、または善良な生活を送ることは、悪を、それが宗教に反し、それゆえ神に反するため、避けることである」。

 

 それが生活の善または善良な生活を構成することは、「新エルサレムの生命(ライフ)の教義」の始めから終わりまで詳細に示されている。私はただ以下のことを附言するように止めよう、すなわち、もし諸君が善良な行為を無数に行っても、例えば、教会堂を建設し、それを装飾し、それに捧げ物を満たし、病院と養育院のために金銭を費やし、日々施しをし、やもめと孤児とを助け、勤勉に宗教の神聖な義務に携り、さらにこれについても恰も誠実そのものから考え、語り、説くかのように考え、語り、説き、しかも悪を神に対する罪として避けないなら、その行為の凡ては真の善ではなく、偽善的なものであるか、または功績の観念で汚されているかしている、なぜなら悪は依然それらの中に潜んでいるからである。なぜなら各々の人間の生命はその為す凡ての事柄とその個々の物の中に在り、善良な行為は悪がそこから除かれたときにのみ真に善となるからである。それで悪をそれが宗教に反し、それゆえ神に反したものとして避けることが善良な生活を送ることであることは明白である。

 

 

神の摂理326(ニ)

 

「これらは凡ゆる宗教に共通した全般的な原理であり、それにより各々の者は救われることが出来る」。

 

 唯一人の神を承認して、悪を神に反したものとして避けることが純粋な宗教を作る二つの物であり、もしその中の一つが欠けるなら、それは宗教と呼ばれることは出来ない。何故なら善を為すが神を承認しないことは矛盾であるように、神を承認して、しかも悪を為すことも矛盾であるから、それは一は他のものなしには存在出来ないためである。何らかの種類の宗教が殆ど至る所に存在し凡ての宗教の中にこの原理が見出されるように主により配慮されており、また神を承認し、悪を神の不興を招くものとして避ける者は凡て天界に一つの場所を得るように主より配慮されている。なぜなら天界全体は一人の人間の形を示し、その生命または霊魂は主であり、この天界の人間は、天界的な物と自然的な物との間の相違を除いては、自然的な人間を構成する部分と同じ部分から成っているからである。人間は血管と神経線維から形作られている内臓器官を持つのみでなく、皮膚、薄膜、腱、軟骨、骨、爪、歯を持つことは良く知られている。この後者は有機的な諸々の形の靭帯、皮覆、支柱の役目を果たしているが、その有機的な形よりは度の劣った生命を持っている。天界の人間、または、天界はこれらの凡ての部分を包含するためには単一の宗教の人々のみから形作られることは出来ず、多くの宗教の人々から形作られ、それ故教会のその二つの普遍的な原理を生活内に取り入れている者は凡てその天界の人間の中に、すなわち、天界に一つの場所を持ち、その度に応じて幸福である。しかしこの主題についてはさらに多くのことが前に見ることができよう(254)。この二つの原理は明らかに凡ゆる宗教の最高のものである、何故ならそれらは十誡の教える二つのものであって、十誡はエホバの声によりシナイ山から布告された聖言の最初の部分であって、二枚の板石に神の指を以て記され、次に箱の中に置かれてエホバと呼ばれ、幕屋の至聖所とエルサレムの神殿の聖所とを構成し、そこの凡ゆる物はその聖さをそれのみから得たからである、(後略)。

 

 

3.悪はそれが思考の中に留めおかれることにより、同意によりとくに行為とそこから生まれてくる歓喜により意志の中へ入る

 

天界の秘義6204

 

悪は地獄から絶えず注ぎ入れられており、またそれは絶えず天使たちによりはね返されているため、思考に入ってくる悪は人間に何ら害を与えはしないことを知られたい。しかし悪が意志へ入るとそのときはそれは害を与えるのである。なぜならそのときはそれは外なる束縛により抑えられないときは常に行為へと進むからである。悪はそれが思考の中に留めおかれることにより、同意によりとくに行為とそこから生まれてくる歓喜により意志の中へ入るのである。

 

 

4.天界の生活に反した生活を世で送った者らに天界の生活を植えつけることは不可能

 

天界と地獄527

 

 天界の生活に反した生活を世で送った者らに天界の生活を植えつけることは不可能であることを私は多くの経験から証することが出来る。自分たちは死後神の真理を天使たちから聞いたら、たやすくそれを受け入れ、それを信じ、異なった生き方をし、かくして天界へ入れられることが出来るであろうと信じた者がいた。しかしこのことは非常に多くの者に試みられはしたが、それでもそれはそうした信念を抱いていた者に限られていたのであり、その者らにそれが許されたのは、悔改めは死後は不可能であることを彼らに知らせるためであったのである。そのことを試みられた者の中には、真理を理解し、それを受け入れるように見えた者もいたが、しかし彼らはその愛の生命に帰るや否や、それを斥けて、それに反したことを言いさえもしたのである。ある者はすぐにそれを斥けて、聞こうとはしなかった。ある者は、世から得た自分の愛の生命が自分から取り去られて、天使の生命が、または天界の生命がそれに代って注ぎ入れられるように願った。そのことも許しにより為された、が、彼らの愛の生命が取り去られると、彼らは死んだ者のようになって臥し、もはや知覚を持たなくなった。こうした、また他の種類の経験から単純な善良な者たちは以下のことを教えられたのである、すなわち、霊は各々頭からくびすまでその愛と同一のものであり、従ってその生命と同一のものであるため、いかなる生命であれ、その生命は死後も決して変化することは出来ない、悪い生命は善い生命に、または奈落の生命は天使の生命に決して変質することは出来ず、この生命をその反対のものに変質することはその霊を破壊することである、と。奈落の霊を天界の天使に変えるよりは、夜のふくろうを鳩に変え、みみずくを楽園の鳥に変える方がやさしい、と天使たちははっきりと言っている。人間は死後もその生命が世であったその状態にとどまることは前にそのことを取扱った章に見ることができようことが出来よう(470−484)。これらの事から今や誰一人直接的な慈悲から天界に迎えられることは出来ないことを認めることが出来よう。