善に接合した真理
天界の秘義5340
また『食物』の意義は内なる人を養うものの凡てのものである。これは善と真理であることは、外なる人を養う地的な食物が、内なる人を養う霊的な食物と相応していることから明白である。それでここではそれは善に接合した真理である、なぜならこれが内部に保持されて、貯えられるものであるからである。『七年』により真理が増大する最初の状態が意味されている(5339番)。このことから最初の時の間に増大したろころの、善に接合した真理を[保持]することが、『かれはその七年の食物を凡て共に集めた』により意味されていることが明らかである。『善に接合した真理を保持する』と言ったが、善に接合された真理の何であるかを知っている者は僅かしかいないため、またいかようにしてまたいつ真理が善に接合されるかを知る者はさらに僅かしかいないため、そのことについて若干言っておかなくてはならない。人間が自己または世のためでなくて、真であり、善いことのために隣人に善をなすことに歓喜を感じるとき、真理は善に連結するのである。人間がこうした情愛の中にいるとき、かれが聞いたり、読んだり、または考えたりする真理は善に連結するのであり、そのことはそうしたことを目的とした真理の情愛から普通認められることができるのである。
天界の秘義5342
善に接合した真理は自然的な心の内部に貯えられ、そこに後の生命の用のために[後になって用いられるために]、とくに人間の再生の間の試練における用のために保持されることは、現今では僅かな者にしか知られていない秘義であり、それでこのことについて多少述べておかなくてはならない。なぜなら『七年の豊作』により先ず増大した真理が意味され、穀物が『都の中に』また『その間中におかれる』ことにより、善に接合したこれらの真理が人間の内部に貯えられることが意味され、『七年の飢饉』により、またその時蓄積したものにより支えられることにより、内部に貯えられたところの、善に接合した諸真理を通して再生する状態が意味されるからである。
天界の秘義5342[2]
その秘義は以下のごとくである、すなわち、幼児時代の最初期から子供時代の最初まですらも人間は主により天界へ導き入れられつつあり、実に天的な天使たちの間に導き入れられつつあって、その天使たちにより無垢の状態の中にとどめおかれるが、それは(周知のように)幼児が子供時代の最初までもその中におかれている状態である。子供時代の年がはじまると、その子供は徐々に無垢[無邪気]の状態を脱ぎ捨てるが、それでも依然自分自身に似た者たちに対する相互愛の情愛により仁慈の状態の中にとどめおかれており、その状態は多くの者にあっては青年時代までも続いていて、その間かれは霊的な天使たちの間にいるのである。そのとき、かれはかれ自身から考え、その考えに従って行動しはじめるため、もはや以前のように仁慈の中にとどめおかれることはできないのである、なぜならかれはそのとき遺伝悪を呼び出して、その悪により自分自身が導かれるのに甘んじるからである。この状態が来ると、かれが以前受けていた仁慈と無垢の諸善は、かれが悪を考えて、それを行為をもって確認する度に応じて追放されるのであるが、それでもそれらは追放されるのではなくて、主により内部の方へ引き込まれて、そこに貯えられるのである。
天界の秘義5342[3]
しかし未だかれは真理を知っていないため、かれがその前の二つの状態の中で受け入れていた無垢と仁慈との諸善は未だ限定づけられていないのである、なぜなら真理は善に性質を与え、善は真理に本質を与えるからである、それでこの時代からかれは教えられて、とくに自分自身の考えとそこから発する確認により諸真理に浸透するのである。それゆえかれがそのとき善の情愛[善に対する情愛]の中にいるに応じて、諸真理が主によりかれの中に善と連結され(5340番)、用のために貯えられるのである。この状態が『七年の豊作』により意味されるものである。その本来の意味で『残りのもの』と呼ばれるものは、善に接合したこれらの真理である。それゆえその人間が自分自身が再生するに甘んじるに応じて、その残りのものは役立つのである、なぜならそれに応じてそこから主より補給するものが引き出されて、自然的なものの中へ送り返され、かくて外部の内部との、または自然的なものの霊的なものとの相応が生み出されるのであり、そのことが『七年の飢饉』により意味されている状態において行なわれるからである。こうしたものが秘義である。