友情

1.友情

2.相互愛ではなく、自己愛に近い友情

3.友情の危害

 

 

 

 

1.友情

 

天界の秘義1158

 

「これらから諸々の国民の島々はその地に拡がった。」これは多くの国民の礼拝はこれらから発したこと、『島々』は個々の領域であり、かくて更に隔たった個々の礼拝であること、『地』はそれらのものの全般的なものであることは聖書の『島々』の意義から明白である。これまでは内なる礼拝に更に近づいた者たちが取扱われてきた。ヤペテの七人の息子たちにより真の内なる礼拝から更に隔たった者らが意味されたのである。『諸国民の島々』によりそれよりも更に隔たった者が意味され、互いに相互的な仁慈に生きているが、それでも無知であって、主については教会の信仰の教義的なものについては、内なる礼拝については何事も知らないが、それでも或る外なる礼拝を持ち、それを宗教的に守った者たちが元来意味されているのである。こうした者たちは聖言では島々と呼ばれており、それで『島々』により、その内意では、内なる礼拝から更に隔たっている礼拝が意味されているのである。

 

[2]天使たちのように、聖言の内意の中にいる者たちは『島々』を何ら知っていない、なぜならかれらはこうしたものをもはや何ら考えないで、代って教会から発した諸国民の礼拝のような、さらに隔たった礼拝を認めるからである。そして同じようにかれらは友情と礼儀のような、教会そのものの中に在って、仁慈からは多少隔たっている事柄を認めている。友情は仁慈ではなく、まして丁重なことは仁慈ではない―これらは仁慈の下位に在る度のものであり、それらが仁慈から多くのものを得ているに応じて、益々誠実なものになっている。

 

 

真の基督教727

 

友情は人がその友を或る世俗的な目的の為に食卓へ招く時、時には増大するが、客を霊的な目的の為に招く時は更に増大する。古代教会と原始基督教会とには仁慈の祝宴があった。これらの場合客は互に主の礼拝を確乎として持続することを励まし合った。イスラエルの子孫の間では、犠牲の肉を食うことはエホバ礼拝に於ける一致を意味し、その肉は犠牲の一部であった為、聖と呼ばれた(エレミア記11・15、ハガイ2・12等)。まして御自らを全世界の罪に対する犠牲として捧げ給うた主の晩餐の過越の肉、パンと葡萄酒は聖くないであろうか。

 

2.相互愛ではなく、自己愛に近い友情

 

天界の秘義3875[5]

 

相互愛は以下の点で友情とは異なっているのである、すなわち相互愛は人間の中に在る善を注視しており、それは善に向けられているため、善の中にいる者に向けられているが、しかし友情はその人間を注視しており、それもまた善から、または善のためにその人間を注視する時は、相互愛であるが、しかしそれがかれを善からまたは善のために注視しないで、それが善と呼んでいる自己のためにかれを注視すると、そのときはその友情は相互愛ではなくて、自己愛に接近するのであり、それが接近するに比例して、益々それは相互愛に対立するのである。相互愛はそれ自身では隣人に対する仁慈以外の何ものでもない、なぜなら隣人によりその内意では善以外のものは何ら意味されてはおらず、その最高の意義では主が意味されているからである、なぜなら善はことごとく主から発しており、主は善それ自身であられるからである(2425、3419番)。この相互愛はまたは隣人に対する仁慈は霊的な愛により意味されているものであり、『レビ』により意味されているのである。

 

 

3.友情の危害

 

天界の秘義4808

 

他生には友情の社会と呼ばれる非常に多くの社会が存在している。それは身体の生命の中では会話の歓びを他の凡ての歓びよりも愛し、その話す相手を、その相手が善いものであろうと、悪い者であろうと顧慮しないで、愉快でありさえすれば愛し、かくて善の友でもない、真理の友でもない者らを愛した者らから成り立っているのである。

(中略)

 

このことことからわたくしはもし人物が顧慮されて、善が顧慮されないなら、友情は如何に多くの危害を人間の霊的生活にもたらすかを知ることができたのである。たれでも他の者に実際親しくしてよいのではあるが、それでも善いものにもっと親しまなくてはならないのである。

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・42・1

 

わたしの子よ、もしあなたが気の合った人だから、とか、いっしょにいる人だから、とかいう理由で、ある人を頼みとして平安を得ようとするならば、落ちつきを失ったり、ごたごたにまきこまれたりするだろう。

 しかしあなたがもしつねに生きて存在する真理によりすがるならば、友人が離れようが、死のうが、悲嘆に沈むことはないだろう。

 あなたの友人に対する愛も、わたしを基礎としなければならぬ。そしてこの世でだれがあなたに良友、親友と思われるにせよ、その人を愛するのは、わたしのためであるべきである。

 わたしがいなくては、いかなる友誼も値打ちがなく、また永続しないだろう、わたしが結ばぬ愛情は、ほんとうの、純潔(きよ)いものではないのである。

 あなたは愛する人々に対するそういう愛情に死んでしまって、自分だけは人との交際(つきあい)をまったくなくしたいと思うほどにならなければならぬ。

人は地上の慰めから遠ざかれば遠ざかるほど、ますます神に近づくのである。

 また自分において深く謙(へりくだ)り、自分を卑しい者と思えば思うほど、いよいよ神に向ってのぼり行くのである。

 

 

天界の秘義1158

 

「これらから諸々の国民の島々はその地に拡がった。」これは多くの国民の礼拝はこれらから発したこと、『島々』は個々の領域であり、かくて更に隔たった個々の礼拝であること、『地』はそれらのものの全般的なものであることは聖書の『島々』の意義から明白である。これまでは内なる礼拝に更に近づいた者たちが取扱われてきた。ヤペテの七人の息子たちにより真の内なる礼拝から更に隔たった者らが意味されたのである。『諸国民の島々』によりそれよりも更に隔たった者が意味され、互いに相互的な仁慈に生きているが、それでも無知であって、主については教会の信仰の教義的なものについては、内なる礼拝については何事も知らないが、それでも或る外なる礼拝を持ち、それを宗教的に守った者たちが元来意味されているのである。こうした者たちは聖言では島々と呼ばれており、それで『島々』により、その内意では、内なる礼拝から更に隔たっている礼拝が意味されているのである。

 

天界の秘義1158[2]

 

天使たちのように、聖言の内意の中にいる者たちは『島々』を何ら知っていない、なぜならかれらはこうしたものをもはや何ら考えないで、代って教会から発した諸国民の礼拝のような、さらに隔たった礼拝を認めるからである。そして同じようにかれらは友情と礼儀のような、教会そのものの中に在って、仁慈からは多少隔たっている事柄を認めている。友情は仁慈ではなく、まして丁重なことは仁慈ではない―これらは仁慈の下位に在る度のものであり、それらが仁慈から多くのものを得ているに応じて、益々誠実なものになっている。

 

 

天界の秘義4054

 

 頭脳は天界のように用である目的のスフィア[霊気]の中に存在している、なぜなら何であれ主から流れ入るものはことごとく人類の救いを注視している目的であるからである。この目的は天界を支配しそのことにより同様に頭脳を支配しているものである、なぜなら心が存在している頭脳は、霊魂が永遠に幸福になるようにと、身体が霊魂に仕えるために、身体の中で目的を注視しているからである。しかし男女の友だちの間にいて、そこに楽しみを持ち、かくて自分自身の満足のみを求めて、家庭であれ、公けであれ、自分自身のことのみを排他的に重視し、その凡てがその同じ目的となっている以外には用を何一つ目的または目標としていない社会があるのである。現今ではこうした霊から成っているところのたれ一人信じることもできないほどにも多い社会が在るのである。彼らは近づくや否や、そのスフィアは活動し始め、他の者の中に真理と善とを求める情愛を消滅させ、それらのものが消滅すると、そのときはこれらの霊はその友情の楽しさの中にいるのである。これらの者は頭脳を害するものであり、その上に愚鈍を生みつけるのである。このような霊の多くの社会がわたしとともにいたが、そうした社会がその場にいることは遅鈍、不精、情愛の喪失により認められたのであり、わたしは時折彼らと話したのである。彼らはこの世の市民生活では善良で、愉快で、気智があり、また才能もあるように見えはしたもののペストであり、毒物である、なぜなら彼らは社会のいくたの礼儀を心得ており、またそのことにより他人に取り入り、とくに友情をかちとる方法を心得ているからである。善の友だちとなることとは何であるか、または善の友情とは何であるかを彼らは知りもしなければ、また知ろうともしないのである。悲しむべき運命が彼らを待っている、なぜなら彼らはついにはむさくるしいものの中に住み、人間の理解がほとんど何一つ残っていないといった愚鈍の中に生きるからである。なぜなら人間を作るものは目的であって、目的の如何に人間も応じ、従って死後のその者の人間的なものも応じるからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真の基督教446

 

或る人間の真の性格を顧慮すること無くしてその人間と結ばれる親密な友情は死後有害である。

 

 

真の基督教454

 

邪悪な者の間の親密な友情は相互の内的な憎悪である。