天界の秘義883

 

『夕』は再生の言葉であって、実に人間が依然日蔭の中にいる、または只僅かの光しか人間に明らかでない折の再生の状態である。朝そのものは十三節にノアが箱舟の覆いを取り除けて見たことにより記されている。『夕』がユダヤ教会に関連して極めて再三記されているのは、『夕』は朝の前の薄明かりを意味したためであった。同じ理由からまたかれらは夕にその安息日と祝宴とを始め、アロンは夕に聖い燈に火を点じることを命じられたのである(出エジプト記27・20,21)。

 

 

天界の秘義2323

 

 『夕』は巡視[尋問]のときを意味していることは『夕』の意義から明白である。教会の状態は聖言では一年の季節と一日の時間にたとえられ、一年の季節にたとえられているのは、その夏、秋、冬、春にたとえられているからであり、一日の時間にたとえられているのは、その昼、夕、夜、朝にたとえられているからである、なぜならその二つのものの事態は類似しているからである。『夕』とよばれる教会の状態は、もはやいかような仁慈もないときであり、したがっていかような信仰も存在しなくなり始めるときであり、かくて教会が存在しなくなりつつあるときである、これが『夜』がその後についている『夕』である(22番参照)。また仁慈が輝き出る、従って信仰もまた輝き出て、かくて新しい教会が起りつつある『夕』もまたあるが、この夕は朝の前のうす明り[薄明]である(883番参照)。かくて『夕』には二つの意義があるのである、なぜなら教会が存在しなくなりつつあるとき、新しい教会が起りつつあり、しかもそのことが同時に行われるように主により定められている[配慮されている]からである、なぜなら地球の何処かに教会が存在しないなら、人類は(前の468、637、931、2054番に示されたように)天界と連結しなくなるため、存続することができないからである。

 

[]本章には教会の一つの状態がとり扱われており、すなわち、『ロト』により表象されている新しい教会の生起と『ソドムとゴモラ』により意味去れている古い教会の滅亡[破壊]とがとり扱われており、そのことは内容から認めることができよう。このことが二人の天使が『夕』にソドムに来たとここに言われている理由であり、また夕に行われたことが話されている理由でもあり(1節から3節まで)、夜に為されたことが(4節から14節まで)、朝の中に、または明るくなって行く夜明け[れい明]に為されたことが(15節から22節まで)また陽が登った後に行われたことが(22節から26節まで)そこに話されている理由である。

 

[]『夕』は教会のこれらの状態を意味しているため、それはまた審判に先立っている巡視[尋問]を意味している、なぜなら審判が切迫すると、すなわち、忠実な者の救いと不忠実な者の定罪[断罪]が切迫すると、そのときは尋問が、またはかれらがいかような性質を持っているか、すなわち、仁慈と信仰が存在しているか、いなかについて点検することがそれに先立って行われるからである。この尋問は『夕』に起るのであって、それで尋問[巡視]それ自身は『夕』と呼ばれている、たとえばゼパニア書には―

 

  わざわいなるかな、海の地域に住む者よ、ケレテテの国民よ、ああ、カナンよ、ペリシテ人の地よ、エホバの御言葉はおまえらに向けられている、わたしはおまえを滅ぼさせて、ついには住む者はなくなるであろう。ユダの家の残りの者はアシュケロンの家で食べ、夕に臥すであろう、かれらの神エホバは彼らを問いただされ[尋問され]、その捕われた者をつれかえられるからである(2・5、7)。