酔う
天界の秘義1072
「そして酔ってしまった」(創世記9・21)。
これはかれがそのことにより過誤に陥ってしまったことを意味していることは聖言の『酔いどれ』の意義から明白である。自分が把握する事柄を除いては何ごとも信じないでそうした理由から信仰の神秘な事柄を探求する者は酔いどれ[酔っ払い]と呼ばれている。
そしてこのことは、その人間の常として、記憶か、哲学か、その何れかの感覚的な事柄により行われるため、そのことにより過誤に陥らないわけにはいかないのである。なぜなら人間の思考は地的な、形体的な、物質的なものから発していて、そうしたものが絶えずその思考にまつわりついており、またそうしたものの中に人間の思考の観念が基礎づけられ、また終結もしているため、それは単に地的な、形体的な、物質的なものであるにすぎないからである。
それゆえこうしたものから神的な事柄について考え、論じることは自己を過誤と歪曲とに陥れることであり、このようにして信仰を得ることはらくだが針の穴を通ることが不可能であるように不可能である。こうした源泉から発した過誤と狂気とは聖言では『酔っぱらうこと』と呼ばれている。実に他生では信仰の諸真理についてまたそれに反抗して論じる魂は、または霊は酔いどれのようになり、またそうした者のように振舞いもするのである。彼らについては主の神的慈悲の下に後に述べよう。
[2]
霊たちは仁慈の信仰の中にいるか否かについては互に他から完全に区別されている。仁慈の信仰の中にいる者たちは信仰の真理については論じないで、その事柄はそうであると言い、また可能なかぎりそれを感覚と記憶の事柄により、理性の分析により確認はするが、しかしその真理がかれらから認められない、何か明確でないものがかれらの道に現れるや否や、それをわきにおいて、決してそうしたもののために自分が疑惑に陥るのを許さないで、自分達が把握できるものは極めて僅かしかない、それで何かが自分達がそれを把握しないからといって真ではないと考えることは狂気のさたであると言うのである。これらが仁慈の中にいる者たちである。
しかし―その反対に―仁慈の信仰の中にいない者らは単に何かの事柄がそうであるかないかと論じ、それがいかようになっているかを知ろうとのみねがい、自分たちがそれがいかようになっているかを知らない限り、それがそうであることを信じることはできないと言うのである。このことのみからでもかれらは何ら信仰を持っていないことがすぐさま知られるのであり、かれらは凡ゆる物について疑うのみでなく、心の中でそれを否定し、その実情のいかようなものであるかを、教えられてもなおその不信仰にしがみついて凡ゆる種類の反対意見を述べはじめ、たとえそれが永遠につづいても決して黙従しようとはしないということがかれらの不信仰のしるしとなっている。このようにその頑迷さにあくまで固執する者らは過誤に過誤をつみ重ねるのである。
[5]『酔うこと』は信仰の諸真理にかかわる狂気を意味したため、それはまた表象的なものとなって、以下のように、アロンとその息子たちには禁じられたのである―
あなたらが集会の天幕に入る時、死なないため、あなたはぶどう酒をのんではならない、また強い酒ものんではならない、あなたとともにいるあなたの息子たちものんではならない、あなたらが聖いものと汚れたものとを、不潔なものと潔いものとを区別するためである(レビ記10・8,9)。
感覚と記憶との事柄により把握するものを除いては何ごとをも信じない者はまた『(酒を)飲むに英雄[つわもの]』と呼ばれている。イザヤ書に―
禍いなるかな自分自身の目から見て賢く、自分自身の顔の前では理知のある者よ、禍いなるかな、ぶどう酒を飲むにはつわもの[英雄]である者よ、強い酒を混ぜ合わすのに力ある人間よ(5・21,22)。
信仰の諸真理に反抗して論じる者らは自分自身が他の者よりも賢明なものであると考えているため、かれらは『自分自身の目から見て賢く、自分自身の顔の前では理知ある者』と呼ばれている。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P269
詩篇記者はいみじくもこういった。「愚か者は、心の中で“神はいない”と言っている」。愚者はこういうことによって、神の不在を証明するより自分自身の霊的不在、神を知ることのできない無能を露呈する。彼が自分に納得のゆく理由を持ち出すなら、太陽の存在しないことを議論だけで証明しようとする虫けらにも等しい。