用に対する情愛

 

 

天界と地獄517

 

 諸天界の教えは地上の教えとは以下の点で、すなわち知識は記憶に植え付けられないで、生命に植え付けられるということで異なっている、なぜなら霊たちはその生命に一致した物をすべて受け入れ、吸収はするが、それに一致しない物は受け入れず、まして吸収はしないため、その記憶はその生命の中に宿っているからである、なぜなら霊たちは情愛であって、そこからその情愛に類似した人間の形を持っているからである。彼らの実情はこうしたものであるため、真理に対する情愛は生命の用のために絶えず吹き込まれている、なぜなら主は各々の者がその資質に応じて用を愛するように配慮され、その愛もまた天使になろうとする希望により生気づけられているからである。そして天界の用はすべて共通の用に関係しているため―その共通の用とは、主の王国が彼らの国家であるため、その王国の善である―また特殊な、個々の用は、それがその共通の善をさらに近くまたさらに完全に求めているに応じて、益々卓越したものとなっているため、この無数の、特殊な、個々の用は凡て善であり、また天界的なものである。それ故各々の者のもとでは真理に対する情愛は用に対する情愛と連結して、その二つは一つのものとなっており、この方法によって真理は用の中に植え付けられ、かくて彼らの学ぶ真理は用の真理である。このようにして天使的な霊達は教えられて、天界に入る準備をする。用を目標とした真理に対する情愛は色々な方法により注ぎ入れられているが、その方法の大半は世では知られていない。それは主として用を表象したものにより注ぎ入れられているが、その表象は霊界では無数の方法で示され、またその霊に、その心の内部からその身体の外部までも染み入って、全体に感動を与えるほどの歓喜と快楽とをもって示されている。かくて、その霊はいわばその霊自身の用の化身となり、それで彼は教えを受けた後で、自分自身の社会へ入ると、自分自身の用を遂行して、自分自身の生命を楽しむのである。これらの事柄から、外なる真理である知識は何人をも天界へ導き入れず、知識によって植え付けられたところの、用の生命である生命そのものが天界へ入れるものであることが明白となるであろう。