予定説
1.スウェーデンボルグ
2.マリア・ワルトルタ
1.スウェーデンボルグ
真の基督教341
良く生活し、正しく信ずる人間が救われず、神はその自由意志によってその欲する者を救い、罪に定めることが出来ると想像することは、神を無慈悲、残忍、残酷な者として非難することであり、否、それはまた神の存在を否定するに等しいのである。かかる信仰は、神はその聖言の中に無意味な言葉を語り給い何等重要でない命令を発し、自らシナイ山に立てて、二枚の石板に書き録し給うた契約を犯し給うことを暗示する。神はその誡命に従って生き、彼に対する信仰を持つ者を救わざるを得ないことは、ヨハネ伝の主の言(14・21−24)によって明白である。宗教を持つ理知的な人間は凡て是と同一の結論に到達するであろう。何故なら、神は絶えず人間と共に在し、これに理解し、愛する生命と力を与え給うからである。それ故神は良く生活し正しく信ずる人間に御自らを愛に於いて結合させ給わざるを得ないのである。この事は神によって凡ての人間と凡ての動物に刻み付けられていないだろうか。父と母はその子を、鳥はその雛を、獣はその仔を斥ける事が出来ようか。虎、豹、蛇ですらその子を愛している。神がそれ以外のことを為すことはその存在の秩序に反し、また神が由って以って人類を創造し給うた秩序に反している。それ故良く生活し、正しく信ずる人間を罪に定めることは神に不可能であるが、誤った物を信ずる人間を救うこともまた不可能である。何故ならこれは再び秩序に反し、また公正の道に添わない限り発することが出来ない神の全能にも反するからである。公正の律法は変更することの出来ない真理である。何故なら、主は「律法の一画の落つるよりも天地の過ぎ行くは易し」(ルカ16・17)と語り給うからである。
真の基督教486
予定説は現代の教会の信仰から生まれた子供である。それは霊的な事柄に於ける人間の絶対的な無力と自由の欠如に対する信念から生まれ、また人間は回心については、恩寵によって更生したか否かを意識的に知らない切り株か石のようなものであるという信念から生まれている。何故なら選択は人間の側の如何なる身体の、または精神の活動をも排除する神の純粋な恩寵によるものであると主張され、選択は神の欲し給う所に、また欲し給う時に何時にても行われ、かくて神の善意により、行われると主張されているからである。
信仰の証明としてこれに続く行為は肉の行為とは区別することは出来ない、何故なら行為を生み出す霊はその起原を示さない故、行為は信仰のように無代価の恩寵と善意の事柄であるからと彼らは語るのである。それ故、予定に関する現代の教会の教理はその信仰から、芽がその種子から生ずるように生じたことは明らかである。
私はそれはそこから殆ど不可避的な結果として生じたと附言しよう。それは先ず予定主義者の間に現れ、後にゴドシャルクスによって支持され、それからカルビンとその追随者によって支持された。最後にそれはドルトの宗教会議によって確立され、そこから教会へ宗教の守神として、あるいはむしろ醜婦メドサの頭として先天予定主義者と、後天予定主義者によって持ち込まれたのである。
しかし、人類の或る数が予定によって地獄に定められているという教義以上に有害な教義が、あるいは残酷な考えが作り出され得るであろうか。何故なら愛そのもの慈悲そのものにて在す主が大多数の人間が地獄に向かって生まれることを欲するとは、あるいは巨万の人間がその生まれる時、悪魔と悪鬼になるようにあらかじめ定められるとは、あるいは神はその無限の神的な知恵によって、良い生活をなし神を認める者たちを、永遠の火と呵責に投ぜられることから救い給わないとは、恐ろしい、残酷な信念であるからである。
神は凡ゆる人間を導き、一人の死をも欲し給わない主であり、創造者であり、救い主であり給うことを忘れてはならない。それ故、神の監視と配慮の下にある全国民と全民族とが予定によって悪魔に渡されていると想像するよりも奇怪な考えがあるであろうか。にも拘らず、これが現代の教会の信仰から生まれた子供であるが、新しい教会の信仰はこれを怪物として忌み嫌うのである。
真の基督教487
私は予定説の如き奇怪な教義が基督教徒によって考案されることが出来たとは決して信ずることが出来なかった。まして、それはドルトの宗教会議に大多数の教職者によって制定され、世に公にされることが出来たとは、尚更信ずることは出来なかった。それ故、私はその事実を確かめるためにその会議でこの教令を作ることを助けた若干の議員が私の許へ送られた。
彼らが到着した時、私は語った。「予定説を合理的な人間は如何にして信ずることが出来ますか。その教義は神に関して残酷な観念を、宗教に関しては戦慄すべき見解を生むに違いないではありませんか。心に予定に関する信念を刻み込まれている人間は、教会と聖言を軽蔑するに違いないではありませんか。而して、彼は神はかくも無数の者を地獄に予定し給う以上、神を暴君として考えるに相違ないではありませんか。」
私がこれらのことを語ると、彼らは私を悪意のこもった目つきで眺めて語った。
「私たちはドルトの宗教会議を開くために選ばれた者たちの間に居ました。その時またその後我々は、神、聖言、宗教に関する多くの見解を確認しましたが、これを敢えて公にしませんでした。然し、我々は我々の凡ての談話と説教に色様々の糸で織物を作り、これを孔雀の羽で蔽いました。」
しかして彼らは今もそれと同じ事を為そうとしたため、天使たちは主から与えられている力により彼らの外的な心を閉じ、その内的な心を開いた、それで彼らはたばかる所なく話すことを余儀なくされた。
(中略)
明白に予定に関するこの宗教会議の教令は単に狂っているのみでなく、残酷な異端であり、脳裏から徹底的に根絶されなくてはならない。
2.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3.P69
この時、エッセン派の一団から声が上がる。
「人間は選ぶ力を持たず、やむをえず運命に服従しています。それは知恵なしに配られるというものではありません。完璧な知恵は、完全な計画として天に値する人々の数を決めています。他の人は、そうなりたくてもなれません。それ以外には考えられません。家を出て屋根から転げ落ちる石に当って死ぬ人もいれば、大変な戦いの中でかすり傷一つ負わずに救われる人がいるのと同じく、救われたくても、そのように決められていない人は意識的でなくても罪を犯す他ない。自分の滅びはもはや決まっているのだから」
「人よ、そうではない、そうではありません。考えを改めなさい。今のような考え方だと、神を侮辱したと同じことです」
「どうしてですか。それを証してくだされば、悔い改めます」
「あなたは口ではそう言うけれど、心で神は人間に対して不正だと考えているからです。神は、人間をだれしも同じように、平等に愛をもって造りました。神は父です。他のことと同様に、父としても完全です。そうしたら、なぜ差別ができるでしょうか。罪のない胎児をどうして呪いえるでしょうか」
「人間から受けた侮辱への復讐です」
「いやいや、神にそんな復讐心はありえません。神に対する罪は、人間になった神によってのみ消されます。その人こそ償えるお方です。そこここの人間ではありません。おお! もし原罪の罪を取り除くことが私にできるのだったならば! カインのような人も、ラメックのような人も、ソドマの堕落した人も、殺害者も、泥棒も、淫乱者も、姦通者も冒涜者も、親を愛さない人も、誓いを破る人も、この世に生まれてこなければよかったのです。だが、今、言ったそれぞれの罪の責任は神にではなく、人間にあります。神は自分の子供たちに善悪を選ぶ自由を残しました」