幼少期からの礼拝を主は決して破壊されない
1.幼少期からの礼拝を主は決して破壊されない
2.偶像崇拝者の無垢
3.教会の何人も乱さず、また他の者を決して糾弾もしない
4.信仰を強制しない
1.幼少期からの礼拝を主は決して破壊されない
天界の秘義1992[4]
主が『シャッダイ』の名によりかれらの前に初めて表象されることをのぞまれた理由は、主はたれかの中にその者の幼少期から植えつけられている礼拝を不意には(まして一瞬には)破壊しようとは決してのぞまれはしないということである。
なぜならこれは根元をひきちぎって、そのことによってそれまでに深く植えつけられている崇拝と礼拝の聖い状態を破壊してしまうことであり、主はそれを決して破壊されないで、たわめられるからである。幼少の頃から植えつけられている礼拝の聖い状態は暴力には堪えることはできないで、ただ優しく親切にたわめられることにのみ堪えることができる性質を持っているのである。
身体の生命の中では偶像を拝しはしたものの、相互愛に生きていた異教徒の場合も同じである。かれらの礼拝の聖い状態は幼少の頃から植えつけられているため、他生ではそれは一瞬にとり去られるのではなく、継続的にとり去られるのである、なぜなら相互愛に生きている者たちの中には信仰のもろもろの善と真理とは容易に植えつけられることができて、かれは後に喜びをもってこれを受けるからである、なぜなら仁慈[相互愛]こそその土壌そのものであるからである。
そしてアブラハムとイサクとヤコブの場合もまたそうであったのであり、主はかれらに『神シャッダイ』の名を保持することを許されて、ご自分が神シャッダイであると言われさえもしたのであるが、これはその名の意義からきていたのである。
天界の秘義2180[4]
これはモーセがシナイ山にいる間に行われたのであり、かくて祭壇と生けにえにかかわる命令が来る以前に行われたのである。その命令は以下の理由から来たのである、すなわち、生けにえの礼拝は異邦人のもとで偶像崇拝になってしまっていたように、かれらのもとでも偶像崇拝になってしまっていたのである、かれらはそれを主要な聖いものとして認めていたため、(この礼拝から)引き出されることはでいなかったのである。
なぜなら幼児の頃から聖いものとして一度植えつけられたものは、とくにもしそれが父祖たちにより植えつけられ、かくて根をはっているならば、それが秩序そのものに反しない限り、主は決してそれを折られはしないで、たわめられるからである。そのことが生けにえがモーセの書に記されている方法で制定されなくてはならないと言いつけられた理由なのである。
2.偶像崇拝者の無垢
天界の秘義2598
わたしがミカについて、ダンの息子たちがいかようにしてかれの彫像を、テラピムとレビ人を取り去ったことについて、士師記の第17章と第18章とを読んだとき、異邦人の中から来ている一人の霊がそこにいたが、かれは身体の生命の中では彫像を拝していたのである。かれはミカに為されたことや、またミカがダンの息子たちにより奪い去られた彫像のために如何程の悲哀に陥ったかを注意深く聞いているうちに、かれもまた悲しみにうちひしがれて内なる悲哀のあまり何を考えてよいかわからなくなるほどにも心を動かされたのである。
わたしはかれの悲哀を認めると同時にその情愛の各々の中に無垢を認めもしたのである。基督教徒の霊たちもまたその場にいて、それを認めたが、彫像を拝していた者がかくも強い慈悲と無垢の情愛のために心を動かされることにおどろいたのである。
その後で善良な霊たちがかれに話しかけて、彫像を拝してはなりません、あなたは人間であるから、このことは理解できるでしょう。あなたは彫像を超えて全天地の創造者で、支配者であれる神のことを考えなくてはなりません。その神は主であります、と言った。
こうしたことが言われると、わたしはかれの内的な崇拝の情緒を認めることを許され、それがわたしに伝えられたが、それは基督教徒におけるものよりは遥かに聖いものであったのである。このことから(ルカ伝13・29,30における主の御言葉に従って)。異教徒はそれほどに感動を覚えない現今の基督教徒よりは容易に天界に入ることができることが認められることができたのである。
3.教会の何人も乱さず、また他の者を決して糾弾もしない
天界の秘義5432[5]
しかし真理と生命とのために、従って主の王国のために真理を愛している者たちは実さい教会の教義的なものを信じてはいるが、それでも真理のみを求めて聖言を研究し、その真理からかれらの信仰と良心とが形作られているのである。
もしたれかがかれらに向かってあなたらはあなたらがその中に生まれた教会の教義的なものの中に止まっていなくてはならないと告げるなら、かれらは、もし自分たちがユダヤ教、ソツニウス主義、クェーカ主義、キリスト教異教主義の中に生まれ、または教会の外にすら生まれたとするなら、やはりそれと同じことがそうした信念を抱いている者らから自分たちに言われるであろうと反省し、また何処にも、ここにこそ教会が在る!ここにこそ教会がある!ここにこそ真理が在って、他の何処にもない!と言われていることを反省するのである。
そしてそれが実情であるため聖言は主に向かって光により明るくされるように敬虔に祈りつつ研究されなくてはならないと、かれらは考えるのである。このような人物は、一個の教会である者は各々その者の信仰から生きていることを知っているため、教会の何人も乱さないし、また他の者を決して糾弾もしないのである。
4.信仰を強制しない
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P290
(主の奇跡によって病から救われた者が病気の仲間に):
「おまえたちはまだ信じないのか」
主:「仲間たちに優しくしなさい!あわれな兄弟たちを思いやる必要があります。おまえたちの口からは慎んだ方がよい。“信仰は強制するものではなく、平和、優しさ、忍耐、根気をもって教えられるものです”奇跡は何ものにも代えがたい説教です。」
シスター・エマニエル/メジュゴリエの証言者たち/P70
聖母:私をあなたの母とし、あなたを神に、また永遠の命に導く仲介者としなさい。信じない人々にあなたの信仰を押しつけてはいけません。あなたの模範によって示しなさい。そして彼らのために祈りなさい。