天界の秘義6000

 

『夜』は明確でないものを意味し(1712,2514番を参照)、明確でないものはその霊的な意義では真理が明らかでない、ということである。さらに聖言では『夜』は悪から発した誤謬を意味している、なぜなら悪から誤謬にいる者らは夜の明確でない状態の中にいるからである。かくて地獄の中にいる者は凡て夜の中にいると言われている。かれらは実さいはそこで一種の光りの中にいるのである、なぜならかれらは互いに他を見ているから。しかしこの光りは固い炭火から発している光りに似ており、天界の光りが流れ入ると、暗黒と暗闇とに変化してしまうのである。かくて地獄にいる者は夜の中にいると言われ、夜と暗黒の使と呼ばれているが、他方天界にいる者たちは日(ひる)と光りの御使と呼ばれている。

 

 

天界の秘義6000[2]

 

『夜』は明確でないものを意味し、同じく誤ったものを意味していることはまた聖言の以下の記事から認めることができよう。ヨハネ伝には―

 

イエスは言われた、日(ひる)には十二時間ありませんか。もし人は日(ひる)の中に歩むなら、かれはつまずきはしない。しかし夜歩むなら、光がかれの中にないため、つまづくのである(11・9,10)。

 

『十二時間』は真理の凡ゆる状態を意味し、『日の中に歩くこと』は真理の中に生活することを意味し、『夜歩むこと』は誤謬の中に生きることを意味している。

 

 

天界の秘義6000[3]

 

さらに―

わたしはわたしをつかわされた者の業を日(ひる)の間に為さなくてはなりません。夜が来て、そのときはたれも働くことはできません(9・4)。

 

『日(ひる)』は善から発した真理を意味し、『夜』は悪から発した誤謬を意味している。『日(ひる)』により意味されるものは教会の最初の時である、なぜならそのときは人間は善の中にいるため、真理は受け入れられからである。『夜』により意味されるものは教会の最後の時である、なぜならそのときは人間は善の中にいないため、真理は何一つ受け入れられはしないからである。なぜなら人間は善の中にいないときは、すなわち、隣人に対する仁慈の中にいないときは、真理そのものがたとえかれに話されるにしても、かれはそれを受け入れはしないからである。なぜならそのときは真のものは些かも認められないからである、なぜなら真理の光は、身体と世とにぞくする物の中へ―そうした物のみに注意が払われ、そうした物のみが真のものとして愛され、尊ばれるのであるが、そうした物の中へ―落ちこんで、天界にぞくしているような物の中に落ちこまないからである。なぜならこのような人間のもとでは天界にぞくしているような物は相対的には取るに足らぬものであり、または無価値なものであるからである。このように真理の光は、太陽の光が黒いものの中に吸収されて、抹殺されてしまうようにも、暗闇のものの中に吸収され、抹殺されてしまうのである。このことが『夜が来て、そのときはたれも働くことはできない』により意味されているのである。それはまたこの日このような時である。

 

 

天界の秘義6000[4]

 

マタイ伝には―

花婿がひまどっていた間に、処女たちはみんなうたたねして、眠ってしまった。しかし真夜中に叫び声がきこえた、見よ、花婿が来られる(25・5,6)。

 

『真夜中』もまた、仁慈が全く存在しないため、信仰も全く存在しないところの、古い教会の最後の時を意味し、また新しい教会の最初の時を意味している。ルカ伝に―

わたしはあなたがたに言う、その夜一つの寝床の上に二人がいるであろうが、一人は受け入れられるが、他の一人はとり残されるであろう(17・34)。

ここでも同様に『夜』は古い教会の最後の時と新しい教会の最初の時とを意味している。

 

 

天界の秘義6000 [5]

 

マタイ伝には―

イエスは弟子たちに言われた、あなたらは凡てこの夜の中にわたしにつまづくでしょう。またペテロに(言われた)、この夜の中に、おんどりがなかない中に、あなたは三度わたしを否むでしょう(26・31,34)。

 

夜の中に取り去られることが主の御心であったことは、当時かれらのもとでは神的真理は夜の不明確な状態にあり、悪から発した誤謬が代って存在していたことを意味したのである。そしてその夜三度ペテロが主を否定したこともまた、信仰の真理は実さい教えられてはいるが、信じられてはいない教会の最後の時を表象したのである。このような時は『夜』である。なぜならその時主は人間の心の中に全く否定されるからである、なぜなら十二人の使徒は、イスラエルの十二の種族のように、信仰の凡ゆる事柄を表象しており(577、2089、2129、2130、3272、3354、3488、3858、3913、3926、3939、4060番)、ペテロは教会の信仰を表象したからである(創世記18章と創世記22章の序言、また3750、4738番を参照)。それで主はペテロに『その夜の中にかれは主を三度否定するであろう』と言われ、弟子たちには、『あなたらはみんなこの夜の中にわたしにつまづくでしょう』と言われたのである。

 

 

天界の秘義6000 [9]

 

ダビデの書には―

あなたは夜の恐ろしいものを、日中飛んでくる矢を恐れてはならない、また昼荒らす死も恐れてはならない(詩篇91・5,6)。

 

『夜の恐ろしいもの』は地獄から発してくる悪の誤謬を、『日中飛んでくる矢』は、公然と教えられて、そのため善が破壊されてしまう誤謬を意味し、『昼荒らす死』は公然と生活されて、そのため真理が破壊されてしまう悪を意味している。ヨハネの書には―

 

聖いエルサレムの門は昼は閉じられはしない、そこには夜はないからである(黙示録21・25)。

そこには夜はない、ろうそくの必要はなく、陽の光の必要もない。主なる神はかれらに光を与えられるからである(黙示録22・5)。

 

『そこには夜はない』は誤謬は存在しないことを意味している。