夜明け

 

 

イザヤ58・6−10

 

わたしの選ぶ断食とはこれではないか。

悪による束縛を断ち、くびきの結び目をほどいて

虐げられた人を解放し、くびきをことごとく折ること。

更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え

さまよう貧しい人を家に招き入れ

裸の人に会えば衣を着せかけ

同胞に助けを惜しまないこと。

そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で

あなたの傷は速やかにいやされる。

あなたの正義があなたを先導し

主の栄光があなたのしんがりを守る。

あなたが呼べば主は答え

あなたが叫べば

「わたしはここにいる」と言われる。

軛を負わすこと、指をさすこと

呪いの言葉をはくことを

あなたの中から取り去るなら

飢えている人に心を配り

苦しめられている人の願いを満たすなら

あなたの光は、闇の中に輝き出で

あなたを包む闇は、真昼のようになる。

 

 

天界の秘義2405

 

『夜が明けたとき』。 これは主の王国が近づきつつあるときを意味していることは、聖言における『夜明け』または『朝』の意義から明白である。本章にとり扱われている主題は教会の継続的な状態であるため、夕に行われるものが先ずとり扱われ、次に夜行われるものがとり扱われ、今や朝のうす明りの中に行われるものが続いており、間もなく陽が登った後に行われるものが来るのである。うす明りはここでは『夜が明けたとき』により表現され、それは正しい者が悪い者から分離されつつあるときを意味しておりその分離がこの節の中に、また22節に至るまでも、ロトがその妻と娘たちとともに導き出されて、救われることによりとり扱われているのである。分離は審判に先行していることはマタイ伝における主の御言葉から明白である―

 

 かれの前に凡ゆる国民が集められ、かれは羊飼いが羊と山羊とを分けるように、かれらを互いに他から分けるであろう(マタイ15・32)。

 

天界の秘義2405[2]

 

このときがまたは状態が、主がそのとき来られるため、または、それと同じことではあるが、主の王国がそのとき近づいてくるため、聖言では『夜明け』と呼ばれている。善い者の場合も類似している、なぜならそのようなときにかれらのもとに朝のうす明りまたは夜明けに似たものが輝き出るからであり、それで聖言には主の降臨は『朝』にたとえられ、また『朝』とも呼ばれている。たとえばホゼア書には―

 

 二日の後エホバは私たちを再び生かし、三日目に私たちをよみがえらせ、私たちは彼の前に生きるであろう、私たちは知るであろう、私たちは従って行ってエホバを知るであろう、エホバが出て行かれるのは夜明けのようである(ホゼア6・2、3)。

 

『二日』は先行する時と状態を意味し、『三日目』は審判をまたは主の降臨を意味し、それでその王国の接近を意味しており(720、901番)その降臨または接近は『夜明け』にたとえられている。

 

 

天界の秘義4283

 

ここでは試練により連結する状態を意味しているためである。なぜなら内なる人が外なる人と連結することが行なわれつつあると、そのときはかれはそのとき霊的なまたは天的な状態に入るためかれにとっては夜明けがくるからである。そのときまた、夜明けの光に似た光が、もしかれがそれを認めることができるような状態にいるなら、かれに現れてくるのである。さらにかれの理解は明るくされて、かれは夜が始めて明け初めて、一日を始めようとする早朝に眠りから目覚めた者のようになるのである。

 

 

 

 

 

ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・9巻P162

‘98・6・22 (つづき)

 

あなたのうちに私は増し加わり その一方であなたを小さな者にしていくという 惜しげない好意を示そう。 あなたのうちは夜明けとなり 夜闇は消えていく。

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P210

 

後にもおられるかた(黙示録1・8)

 

 どんなやり方で?もちろん、肉を再びとることによってではない。もし彼の再臨が確実であるなら、同じくらい確実に、もう一つ別の肉をとることは決してあるまい。彼のによってまとわされた最初の、永遠の、栄光化された完全な肉を具備しているのだから。

 

 第二の贖罪のためにキリストが来ることもないだろう。第一の贖罪はそれだけで充分であり、完璧だったのだから第二の贖罪はないだろう。その時以来、人びとは、それを望みさえすれば、再創造されたの子らの民に留まるために、また再創造から超再創造へと移行するためのすべての要素と超自然的援助を保持している。なぜなら、もし知恵をもって言われてきた、また今も言われている『人は自らを満たす器である』、またもし『恩寵は霊魂にが蒔く種』、あるいは『照らし、肥沃にするために降る一筋の光線』でもあるのなら、もし人間が神的意志と霊感に服し、を収容するためにその能力を増大し、年齢を重ねるごとに、すべてを越えて理解し、望むその能力を拡大するのは当然である。の霊的言葉を理解すること、すなわち、常に最大の正義へと、また人がそのために創造された目的に到達するための意志を導くために、が人それぞれの内部に引き起こす動きを理解することである。また同様に、恩寵の種は、もし人が恩寵に服し、律法を実践し、徳に励み、恩寵に忠実であるなら、小さな種から大木となり、永遠の生命の果実を結び、あの一筋の光線は、霊感が恩寵のうちに成長し、完徳の道に自分を高めるほどに光線の力は増大するだろう。一つの谷から一つの山の頂を目指して上る人なら誰にでも起きるように。

 

 

天界の秘義8993

 

 真理に対する純粋な情愛は善い用を目的としてそのためにまた生命[生活]のために信仰の諸真理そのものを知ろうと欲し切望すること。

 

しかし純粋でない真理に対する情愛は自己のために、かくて名誉を求めるために、利得を追求するために真理を欲し、また切望するのである。

 

後者は教会の教義的なものが真理であろうが真でなかろうが単に確認することに固執する。かれらは真理そのものについては暗黒にいる。なぜなら利得である世的な目的と名誉である身体的な目的のためにかれらは完全に盲目となるから。

 

しかし前者は、自分自身で考えはじめる年齢に達するまでは教会の教義的なものの中に留まっており、自分自身で考えはじめるときに、聖書を探求し、明るくされることを求めて主に祈願し、明るくされると心から喜ぶのである。

 

前者(純粋な情愛)はイスラエル人の娘、後者(純粋でない情愛)はイスラエル人の娘から出ている婢。

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P100

 

 わたしは大好きな聖書を、直接説明してもらって満足していますが、でもあなたに請け合いますが、人間的に言ってわたしはもうぼろぼろです。中味は空っぽで、絞り取られたような気分です。これほどのことがあった後では、わたしの中にはもう何一つありません。