やもめ
1.やもめ
2.やもめの家をむさぼりくう
3.ザレプタのやもめ
1.やもめ
天界の秘義3703(18)
「やもめ」により善の状態の中にはいるが、真理にはそれ程いない者が、また真理の状態の中にはいるが、善にはそれ程おらず、それでもその中にいようと欲している者たちが意味されている。
天界の秘義4844[2]
『やもめ』もまた、『妻』はその表象的な意味では真理を、夫は善を意味しているため(4823、4843番を参照)、善のない教会の真理を意味しており、それで夫のいない妻は善のない教会の真理である。
天界の秘義4844[3]
やもめが聖言にしばしば言われており、内意に通じていない者は『やもめ』によりただやもめが意味されていると信じないわけにはいかないのである。しかし『やもめ』はその内意では善のない教会の真理を、すなわち善のない真理の中にいるものの、善にいることを願い、従って善により、導かれることを愛している者たちを意味しており、『夫』は導かなくてはならない善である。
天界の秘義4844[4]
なぜなら仁慈の教義的なものは善の何であるかを教えるが、しかし信仰の教義的なものは真理の何であるかを教え、そして善は教え、導くものであって、真理は教えられて、導かれるため、善なしに真理を教えることは盲人のように歩くことであるからである。この二つの教義的なものの間には光と暗黒との間の相違ほどにも大きな相違があり、暗黒が光により明るくされないかぎり、すなわち、真理が善により、または信仰が仁慈により明るくされないかぎり、暗黒以外には何ものもないのである。ここからたれ一人真理が真理であるか否かを、それを眺めることによっては[直覚によっては]知らないのであり、従って認識からも知らないのであり、たんに子供時代に吸引されて、成人期に確認された教義のみからそのことを知るのみである。ここからまた諸教会は、一つの教会が真理と呼ぶものを他の教会は誤謬と呼んで、決して一致しないほどにも非常に相違しているのである。
霊界日記2226
主の慈悲は一切の者に遍く注がれてはいるものの、天使たちに向ってはさらに豊かに注がれている、なぜなら彼らはみなし児であり、またやもめであるからである、すなわち、彼らは主以外には父を持たないし、夫も持たないからである、なぜなら彼らは彼ら自身に頼りはしないからである。1748年〔60歳〕6月6日
2.やもめの家をむさぼりくう
天界の秘義4844[10]
そして他の者から善と真理とをはぎとって、それらを自己の栄誉と利得とのために自己のものとなすことはその呪いの一つであったため、主は以下のように言われたのである―
律法学者とパリサイ人よ、おまえらに禍いあれ! おまえたちはやもめの家をむさぼりくらい、みえのために長い祈りをしている、それでおまえらはさらに多くの審判を受けるであろう(マタイ23・14、ルカ20・47)。
『やもめの家をむさぼりくうこと』は真理を欲している者たちから真理を取り去って、誤謬を教えることを意味している。
3.ザレプタのやもめ
天界の秘義4844[12]
エリアについて述べられていることも、すなわち、地に雨がなくて飢饉が起ったとき、かれはザレプタの一人のやもめのもとへつかわされて、彼女に一つの小さな菓子を求めたが、それを彼女は先ずかれのために作ってかれに与え、その後で彼女自身とその息子のために作らねばならなかった、すると彼女のもとにある樽の粗粉はつきないで、小びんの油も尽きなかったことも(列王記上17・1−16)、エリアについて述べられている他の凡ての事柄のように、また全般的に聖言に記されている凡てのもののように、表象的なものであったのである。雨が降らないために地におきた飢饉は教会の中で真理が剥奪されたことを表象し(1460、3364番を参照)、ザレプタのやもめは、教会の外で真理を求めている者たちを表象し、彼女が先ずかれのために作らねばならなかった菓子は、主に対する愛の善を表象し(2177番)、この主を彼女は彼女自身とその息子にもまさって、その持っている僅かなものから、愛さねばならなかったのであり、樽の粗粉は善から発した真理を意味し(2177番)、小びんの油は仁慈と愛とを意味し(886、3728、4582)、エリアはこうした事柄が為される手段である聖言を表象しているのである(2762番を参照)。
天界の秘義4844[13]
このことはまたルカ伝の以下の主の御言葉の内意に意味されているのである―
予言者はその者自身の国では迎えられはしない、しかしわたくしはまことにあなたたちに告げる、エリアの時代に、すなわち天が三年六ヶ月閉じて、全地に大きな飢饉が在ったとき、イスラエルには、多くのやもめがいたが、エリアはその中のたれにもつかわされないで、ただシドンの、やもめであった一人の女のもとにのみつかわされた(ルカ4・24−26)。
すなわち、教会の外にいて、真理を求めている者たちに(つかわされたのである)。しかしエリアがそのもとへつかわされなかったところの、剥奪された教会の中のやもめらは、善の中にいないため、真理の中にもいない者らである、なぜなら何処であれ善がないところにはまた真理もないのである、たとえかれらのもとでは真理は外なる形では真理のように見えようとも、それでもそれは核のない殻のようなものにしかすぎないのである。