山
1.スウェーデンボルグ
2.ヴァッスーラ
3.ルイザ・ピッカレータ
4.聖母から司祭へ
5.サンダー・シング
1.スウェーデンボルグ
「全天の下に在った高い山はことごとくおおわれた」(創世記7・19)。
これは仁慈の諸善がことごとく消滅してしまったことを意味していることは最古代の人々の間の山の意義から明らかである。彼らのもとでは山は主を意味したが、それは山は地上の最高の場所であったため、彼らは山の上で主を礼拝したためである。かくて「山」は天的なものを意味し(これはまた『最も高いもの』とも呼ばれた)、従って愛と仁慈を意味し、それにより天的なものである愛と仁慈の諸善を意味したのである。そしてそれに対立した意義では自負心の強い者らもまた「山」と呼ばれ、それ故「山」は自己を求める愛そのものを表しているのである。山は地の上に高く上げられ、いわば天に、事物の始原にさらに近いということから、聖言では山により最古代教会もまた意味されている。
天界の秘義795[2]
『山』は主を、また主から発した天的なものをすべて、または愛と仁慈の諸善を意味していることは聖言の以下の記事から明白であり、そこから山の個々の場合の意味が明らかとなっている、なぜなら聖言の凡ての物は、全般的にも、個別的にも、その物が用いられているその主題に応じた意義を持っているからである。ダビデの書には―
山は平安をもたらすであろう、岡は、義をもって(詩篇72・3)。
『山』はここでは主に対する愛を意味し、岡は隣人に対する愛を意味し、その何れも最古代教会のもとに在ったようなものである、最古代教会はこうした性格のために、それは聖言では『山』と『岡』により意味されている。エゼキエル書には―
わたしの聖い山に、イスラエルの高い所の山に、と主エホビは言われる、イスラエルの家はことごとく、その全地はわたしに仕えるであろう(20・40)。
ここの『聖い山』は主に対する愛を、『イスラエルの高い所の山』は隣人に対する仁慈を意味している。
「全天の下に在った高い山はことごとくおおわれた。」(創世記7・19)
・・・仁慈の諸善がことごとく消滅してしまった。
天界の秘義795[4]
「シオンの山」・・・主、天的なもの、愛であるもの
「岡」・・・仁慈であるところの、度の低い天的なもの
ああ善い知らせをもたらすシオンよ、高い山に登れ、ああ善い知らせをもたらすエルサレムよ、力をこめてあなたの声をあげよ(イザヤ40・9)。
『高い山に登り、善い知らせをもたらす』ことは愛と仁慈から主を拝することであり、愛と仁慈は最も内なるものであり、それで最高のものともまた呼ばれているが、それは最も内なるものは最高のものと呼ばれるためである。さらに―
岩に住む者らに歌わせよ、山々の頂きから叫ばせよ(イザヤ書42・11)。
『岩に住む者』は仁慈の中にいる者たちを示し、『山々の頂きから叫ぶ』ことは愛から主を拝することである。さらに―
ああ、善い知らせをもたらし、平安を布れ、善の善い知らせをもたらし、救いを布れる者の足は山々の上で如何に美しいことだろう(イザヤ52・7)。
『山々の上で善い知らせをもたらす』ことも愛と仁慈の教義から主を宣べ伝えることであり、愛と仁慈から主を拝することである。さらに―
山々と岡々とは声をはなって御前に歌い、野の木はことごとく手をうつでしょう(55・12)。
これは『山々と岡々』である愛と仁慈から、また『野の木』であるところの、そこから派生した信仰から主を拝することを意味している。
[5]さらに―
わたしはわたしの山の凡てを道とし、わたしの大路は高く挙げられるであろう(49・11)。
ここでは『山』は愛と仁慈を意味し、『道』と『大路』はそこから派生する[由来する]信仰の諸真理であり、その信仰の諸真理は愛と仁慈をその最も内なるものとしてそこから発している時は『高く挙げられる』と言われている。
天界の秘義1691
『山』は自己への愛と世への愛とを意味していることは『山』の意義から認めることができよう、そのことについては後に間もなくとり扱うことにしよう。悪と誤謬とはことごとく自己への愛と世への愛とから生まれている、それらにはそれ以上の起原はない、なぜなら自己への愛と世への愛とは天的な愛と霊的な愛に対立するものであり、それらは対立するものであるため、神の国の天的なものと霊的なものとを破壊しようと絶えず努力しているものであるからである。自己への愛と世への愛から凡ゆる憎悪が発生しており、憎悪から復しゅうと残酷とがことごとく発し、またそれらから凡ゆる詐欺が発生しており、約言すると、地獄のことごとくが発生している。
[2]聖言には『山』により自己への愛と世への愛とが意味されていることは以下の記事から認めることができよう。イザヤ書には―
人間の高慢な眼は卑しくされ、人間の高ぶりも低くされるであろう。万軍のエホバの日は高慢であり、高ぶっているもの凡ての上に臨み、そびえている岡の凡てに、そびえ立っている塔の上に臨む(2・11、12、14、15)。
『高い山』は明らかに自己への愛を意味しており、『そびえている岡』は世への愛を意味している。
[3]さらに―
谷間はことごとく高くされ、山と岡とはことごとく低くされるであろう(40・4)。
ここにもまた『山と岡』とは明らかに自己への愛と世への愛とを意味している。さらに―
わたしは山々と岡とを荒れすたらせ、その青草をほせ上がらすであろう(42・15)。
ここにもまた『山』は自己への愛を、『岡』は世への愛を意味している。エゼキエル書には―
山は投げ下ろされ、険しい所は倒れ、壁はことごとく地に倒れるであろう(38・20)。
[4]エレミヤ記には―
ああ全地を破壊し、破壊する山よ、見よ、わたしはおまえの敵となる、わたしはわたしの手をおまえにむかってのばし、おまえを岩からころがしおとし、おまえを燃える山となそう(51・25)。
ここにはバベルとカルデアとが語られているが、それらにより、前に示したように自己と世への愛が意味されている。モーセの歌には―
わたしの怒りの中に火は点じられて、最も低い地獄にさえも燃え、地とその生産物[作物]をやきつくし、山々の基を火にかけるであろう(申命記32・22)。
『山々の基』は明らかに言われているように、諸々の地獄を意味しており、これらは自己への愛と世への愛とがそれらを支配し、またそれらから発しているため、山々の基と呼ばれている。
[5]ヨナ書には―
水はわたしをめぐって、魂にさえも達し、深淵はわたしをとりかこみ、海草はわたしの頭を包んだ、わたしは山のねもとにまでも下った、地のかんぬきはいつもわたしの上にあった、それでもあなたはわたしの生命を坑から救い上げられた、ああ、わたしの神、エホバよ(2・5、6)
主の地獄に対する試練がヨナにより、かれがその大きな魚の腹の中にいたとき、このように予言的に記されているのである。聖言の他の記事にも、とくにダビデの書にも同じようにそのように記されている。試練の中にいる者は地獄の中にいるのであって、場所は地獄の中にいることに何ら関係していないで、ただ状態がそれに関係しているのである。
天界の秘義4728[5]
ヨナ書に―
わたしは山々の切り取られた辺りに降った、地のかんぬきはいつもわたしの上に在った。それでもあなたはわたしの生命を坑からつれ出された(ヨナ2・6)
ここにとり扱われている主題は主の試練とそこから救い出されたもうたことである。『山々の切りとられた辺り』は最も呪われた者のいる所であり、かれらの周囲に現れる黒雲が『山』である。
天界と地獄188
*6。
天界には、世と全く同じように、山、岡、岩、谷、土地が見られる、10608。山には愛の善にいる天使たちが住み、岡には仁慈の善にいる者たちが住み、岩には信仰の善にいる者たちが住んでいる、10438。それゆえ聖言では山により愛の善が意味され、795、4210、6435、8327、8758、10438、10608、岡により、仁慈の善が意味され、6435、10438、岩により、信仰の善と真理とが意味されている。石も同じく信仰の真理を意味している、114、643、1298、3720、6426、8609、10376。ここから山により天界が意味され、8327、8805、9420、山の頂きにより天界の最内部が意味されている、9422、9434、10608.それで古代人は山でその聖い礼拝をささげた、796、2722。
2.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P7
‘99・1・20
「峰かさなる山よ、なぜ、嫉み見るのか
神が住まいに選んだ山(*1)を。
まことにヤハウェはとこしえにそこに住まわれる。」(詩篇68・17)
*1神に選ばれ ご自分の住まいと定められた者のあら探しをする権利は誰にもないと、神は仰っています。
3.ルイザ・ピッカレータ
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P80
「私は高い山の上空を散策し、そこに私の喜びを見出す。」
私にはその意味が理解できなかったので、イエズスは再度続けて言った。
「高い山とは、私をたくさん愛した聖人たちのことです。彼らがまだ地上にいても、すでに天に到着していても、その人たちは私の楽しみなのです。すべてが愛のうちにあるから。」
4.聖母から司祭へ
聖母から司祭へ1983.7.16
愛する子らよ、十字架につけられたイエズスに、完全にあやかるという聖なる山を、わたしと共にのぼりなさい。
(中略)
きょう、あなたがたは、イエズス・キリストであるこの聖なる山に、わたしと共にのぼりなさい。かれとの、親密な生活の一致にあずかることができますように。
聖母から司祭へ1990.1.1
わたしは再臨の御母です。
わたしは主の新しい到来の準備をさせます。
わたしは、光栄のうちにあなたたちの所へ戻ってこられるイエズスの道を開きます。
傲慢と憎しみと暴力の高い山をたいらにしなさい。
悪徳と邪欲と不潔によって掘られた谷間を埋めなさい。
罪と神を否定する荒れ地から遠ざかりなさい。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P160
この世には真の平和というものはない。罪のためにこの世の平和は閉ざされている。真の永遠の平和は「平和の御子」にのみ発見できる。自らは高所から流れ落ちるか、地下から噴出するかして、あるべき所に落ち着き静けさを取り戻す。それと同じく、人もあるべき所に落ち着き平和を回復するには、高慢の高みから落ち、罪の奈落から引き上げられる必要がある。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P162
何も知らない旅人は、山を登り下りするのに疲れて、神は間違って山を造ったに違いない、平地だけ造ってくれていればずっと楽なものを、と考える。それは、山が沢山のことに役立ち沢山の宝を秘めていることを知らないからである。例えば、山は水を循環させ続けているが、水の循環は体内での食物の循環と同じほど、世界にとっては大切である。同じように、人生の浮き沈み、十字架を負うことの辛苦がわたしたちの霊的生命を循環させ続け、それが淀むことを防いで、魂に限りない祝福を与えてくれるのである。