宿る者

 

 

1.聖書 寄留者

2.宿る者

 

 

 

1.聖書 寄留者

 

 

出エジプト記23・9

 

あなたは寄留者を虐げてはならない。あなたたちは寄留者の気持を知っている。あなたたちは、エジプトの国で寄留者であったからである。

 

 

 

申命記24・17−22

 

寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質に取ってはならない。あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。

畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。オリーブの実を打ち落とすときは、後で枝をくまなく捜してはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。ぶどうの取り入れをするときは、後で摘み尽くしてはならない。それは寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのである。

 

 

 

 

2.宿る者

 

 

天界の秘義1461

 

「アブラムはエジプトにそこに滞在する[宿る]ためにくだった」。これは聖言から知識を教えられることを意味していることは、『エジプト』の意義から、また『滞在する[宿る]こと』の意義から明白である。

 

(中略)

 

外なる人は知識によらない限り、内なる人と相応し、またそれと一致することは出来ないのである。外なる人は形体的なものであり、感覚的なものであり、またそれは知識がその中に、丁度土地に植えつけられられるように植えつけられない限り、天的な霊的なものを何一つ受け入れはしないのである、なぜならこの知識の中に天的なものはその天的なものを受け入れる器を持つことが出来るからである。しかしその知識は聖言から発しなくてはならない。聖言から来ている知識は主から開いている底のものである、なぜなら聖言そのものは主から発して天界を経て来ており、主の生命は聖言の凡てのものの中に、全般的にも、個別的にも存在しているからである―たとえそれはその外なる形の中にはそのように現れてはいないものの。

 

 

 

天界の秘義1463

 

『滞在する[宿る]こと』は教えられることを意味していることは聖言の『滞在すること』の意義から明白であり、それは教えられることであるが、それは以下の理由によっているのである、即ち、滞在することと移住することとは、または場所から場所へ進んで行くことは、前に示したように(1376、1379番)、天界では状態の変化以外の何物でもないのであり、それで旅すること、滞在する[宿る]こと、場所から場所へ移って行くことが聖言に記されている時は常に天使たちにはその天使たちのもとにあるような状態の変化以外には何ごとも考えられはしないのである。思考にもその状態の変化があり、思考の状態の変化は知識であって、霊たちの世界ではこうした変化は教えられることにより示されており、それがまた最古代教会の人々が、天使たちの天界と交流していたため、滞在する[宿る]ことにより他の何ごとも認めなかった理由であったのである。私たちが今取り扱っている記事の中でも同じであって、アブラムがエジプトに下って滞在することも主が教えを受けられたこと以外には何ごとも意味してはいないのである。

 

 

 

天界の秘義1463[2]

 

これは新しいエルサレム、または主の王国について記されていて、『滞在している滞在人[宿っている宿る者]』により自分が教えられることに甘んじる者たちが意味され、従って異邦人たちが意味されており、教えられている者たちが意味されていることは、かれがそのもとに宿っている種族の中でかれの嗣業[相続財産]が与えられねばならないと言われていることが明白であり、『種族』は信仰に属した事柄を意味しているのである。

 

 

 

天界の秘義1896

 

 「その名はハガルであった。」これは外的なまたは自然的な人の生命を意味していることはこれまでに言われたことから、また『他国人』または『宿る者[滞在人]』という『ハガル』の意義からも認めることができよう。他国人は教えを受けねばならない者を表象し、宿ること[滞在すること]は、前に示されたように(1463番)、教えを受けることを、また生命の原理を表象したのである。ここに『その名はハガルであった』と言われているように、聖言の中でたれかの名前が述べられているときは、それはその名前の中に注意しなくてはならない何ごとかが含まれているということを意味している、なぜなら『名を呼ぶ』ことは(前の144、145、340番に示されたように)人間の性質を知ることを意味しているからである。聖言では一音節でも原因なしには、または内意における何か実際的な事柄の意義なしには記されてはいないのである。

 

 

 

天界の秘義2025

 

「わたしはあなたとあなたの後のあなたの裔にあなたが宿っている地を与えよう。」これは主は御自身の勢力または力により『宿っている地』であるところの凡ゆる事柄を御自身に得られたことを意味していることは『宿ること』の意義が教えられることであることから明白である(1463番参照)。そして人間は特に記憶知と教義的な事柄と信仰の幾多の知識を教えられることにより人間自身に生命を得るため、それで、『宿ること』はそのようにして得られた生命を意味している。『宿ること』は、主に適用されると、主が知識と試練の争闘とその争闘における勝利により御自身に得られた生命を意味しており、そして主は御自身の勢力によりその生命を御自身で得られたため、そのことがここに『宿った地』により意味されている。

 

 

 

天界の秘義3703(18)

 

「宿る者」により善と真理とを教えられつつある者たちが意味され(1463)、

 

 

 

天界の秘義7197

 

『宿ること』の意義は教えられることと生活である(1463、2025、3672番)。このことから『彼らが宿ったその宿りの地』により、信仰と仁慈との事柄が―その事柄について彼らは教えられ、またその事柄に従って彼らは生きたのであるが、そうした事柄が―存在した所、が意味されていることが明白である。この間の実情は以下の如くである。他生では天界は各々の者にその者の中にある信仰と仁慈との事柄に順応して与えられているのである、なぜなら仁慈と信仰とが各々の者のもとに天界を作るからである、しかし仁慈と信仰とが天界を作ると言われる時は、仁慈と信仰との生命〔生活〕が意味されているのである。しかし天界をその中に抱いている生命〔生活〕はその人間が教えられている信仰の幾多の真理と幾多の善とに従った生命〔生活〕であることに注意されたい。そうした者が彼の生命〔生活〕の規定となり、原理となっていない限り、彼はいかような生活を送ろうとも、天界を徒に探し求めるのみである。なぜならこうした真理と善とが無い限り、人間は風の吹くままに揺らぐ葦のようなものとなるからである、なぜなら彼は善と同じく悪によっても動かされるからである、それは、彼の中には真理と善とは何一つ確立されてはいないためであり、真理と善により彼は天使たちにより諸真理と諸善との中に留め置かれ、奈落の者らが絶えず注ぎ入れる誤謬と悪とから引き出されることが出来るのである。約言すると、基督教の善の生命〔生活〕が天界を作るものであって、それは自然的な生命ではないのである。

 

 

 

天界の秘義8002

 

「宿る者と雇われた僕はそれを食べてはならない」。これは単なる自然的な気質から善いことを行う者らと自分自身の利益のためにそれを行う者らとは彼らと共になってはならないことを意味していることは以下から明白である、即ち、『宿る者』の意義は単なる自然的な気質から善いことを行う者らであり(そのことについては以下を参照)、『雇われ人』の意義は自分自身の利益のために善いことを行う者らであり(そのことについてもまた以下を参照)、『それを食べないこと』の意義は彼らと共にならないことである(そのことについてはすぐ前の8001番を参照)。『宿る者』が単なる自然的な気質から発した善いことを意味していることは、宿る者は他の人々から来て、住んでいた者であり、一つ家にイスラエル人とユダヤ人と共に住み、『共に住む』は共に善の中に在ることを意味しているためである。しかし、前に言ったように、彼らは教会の外の人々から来ていたため、意味されている善は教会の善ではなくて、教会のものではない善である。この善は出生から遺伝的なものであるため、『自然的な善』と呼ばれている。更に病気と身体の虚弱との結果こうした善を持っている者もいるのである。この善が『宿る者』により意味されている者らが行う善により意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義8002〔2〕

 

 

 

天界の秘義8002〔3〕