やぶ

 

天界の秘義2831

 

「後に、やぶにからまって」。これは、自然的な知識の中にもつれて、を意味していることは以下から明白である、すなわち、『からまる』ことの意義は、ここではもつれることであり、『やぶ』または『茂み』の意義は記憶知であり、そのことは下記に説明しよう。霊的な者たちは信仰の諸真理については自然的な知識の中にからまれていることは、以下のようである。霊的な者たちは、天的な者たちとは異なって、善と真理とを認識はしていないで、その代わりに、良心をもっており、それはその者たちがその両親や教師たちから幼い頃から吸収した信仰の諸々の善と真理から形作られ、後にはその者たちがその中へ生まれてきた信仰の教義から形作られているのである。善と真理とを何ら認識していない者たちは、知識により確認しなくてはならないのである。たれでも自分が学んだ事柄については、また信仰のいくたの善と真理については自ら何らかの観念[考え]を形作るのである、なぜなら観念がないなら、何一つ記憶の中には空虚なものとしてしか残らないからである。それを確認させる物が、他のいくたの知識から、実に記憶知からさえも、それに附加されて、その事柄の観念[考え]を満たすのである。その観念そのものを多くの物により確認することにより、それが[その観念が]記憶の中に密着し、かくてそれが思考の中へ呼び出されることができるようになるのみでなく、また信仰がその中へ徐々に注ぎ込まれることができるようにもなるのである。

 

 

天界の秘義2831[9]

 

イザヤ書には―

 

 邪悪は火のように燃え、茨と刺とをやきつくし、森のやぶの中に燃える(イザヤ9・18)。

 

『茨と刺』は誤謬と欲念を意味し、『森のやぶ』は記憶知を意味している。同書には―

 

 万軍のエホバは鉄でその森のやぶを切り倒し、レバノンは力強い者[丈夫]により倒れるであろう(イザヤ10・34)。

 

『森のやぶ』は記憶知を意味し、『レバノン』は合理的なものを意味している。エレミア記には―

 

 シオンに向って旗を立てよ、わたしは北から悪を、大いなる破壊をもたらすからである。ししはそのやぶから上って行った、諸国民の破壊者が(上って行った)、かれはその途にいる、その所から出て行き、おまえの地を荒れ地とする、おまえの都は破壊されて、住む人がなくなるであろう(エレミア4・6、7)。

 

『そのやぶから』は、記憶知から、を意味し、ここから上って神のアルカナに入り込むものは『地を荒らす』のである、すなわち、教会を荒廃させるのである。

 

 

天界の秘義2831[10]

 

聖言の中で記憶知が『やぶ』と呼ばれている理由は、すなわち、それが比較的そのような性格をもっているということであり、とくに自己と世を求める愛の欲念と誤謬の原理とがそれを求めるとき、そのような性格を持つということである。天的な霊的な愛は外的な記憶にぞくしているいくたの知識を秩序づけるものであるが、自己と世を求める愛はその秩序を歪曲し、その中に在るあらゆる物を混乱させるものである。こうした事にその人間は気づいてはいないが、それはその者は秩序を歪められた秩序に、善を悪に真理を誤謬においているためである。そうした理由からこれらのものはもつれこんでいるのであり、また以下の理由からももつれこんでいるのである、すなわち、これらの知識が存在している外的な記憶のいくたの物は、合理的なものが存在している内的な記憶の中のいくたのものと比較されるならば、やぶの中に、または暗い森の中に存在しているように存在しているのである。そこは比較されると如何に蔭っており、不透明であり、小暗いかは、人間は身体に生きているかぎり、知ることはできない、なぜならかれはそのときは、知恵と理知はことごとくこの源泉から発していると想像しているからであるが、しかしかれは他生において、その者の内的な記憶のいくたのものの中へ入ってくるとき、知るであろう。人間が世に生きている間人間に特有な外的な記憶の中には、理知と知恵の光ほど見られることのできないものはないのであり、そこではすべてのものは相対的には暗く、秩序がなく、もつれていることは、前に見ることができよう(2469−2494番)。