僅かな相応の知識から

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P63

‘89・12・7

 

娘よ、能力を越えた事柄について探し出そうとはしないように あなた自身の先走りによって道を逸れ 他の人びとも誤りに導くかも知れないからです。 私に信頼しなさい そうするならあなたに吸収できて能力にあった知識を与えよう、他の人びとの言葉ではなく みことばに耳を傾けなさい、疲れたなら私の肩に依りかかりなさい、肩に頭をのせ 我が聖心を住まいとしなさい ♡ 

後ほど:

私から食べ、私に学びなさい。

 

 

 

真の基督教208

 

彼はその霊的な意義を破壊する惧れがあるのは、彼はその知っている僅かな相応によって霊的な意義を歪め、それに強いて誤ったものを確認させ、かくして彼は真理に暴行を加え、従ってその神的真理の住む天界に暴行を加えるからである。

それ故、もし何人でも主の助けを得ないで、その意義を発見しようと欲するならば、天界は彼に閉ざされ、彼はその時真理を一つとして認めなくなるか、或いは霊的狂気に陥るかするのである。

 

 

 

ペトロの手紙2・1・20−21

 

 何よりもまず心得てほしいのは、聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではないということです。なぜなら、預言は、決して人間の意志に基づいて語られたのではなく、人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです。

 

 

 

聖書26

[5]「今後聖言の霊的意義は主から純粋な諸真理にいる者にのみ専ら与えられるであろう」。

 

この理由は何人も主のみによらなくては霊的意義を認めることはできず、また主から純粋な諸真理にいなくてはそれを認めることも出来ないということである。なぜなら聖言の霊的意義は専ら主とその王国とを取扱っているからであり、これが天界の主の天使たちが認めている意義である、なぜならそれがそこの主の神的真理であるから。もし人間が相応を知って、それにより、また自己の理知から聖言の霊的意義を究めようと望むなら、彼はこの意義に暴行を加えることが出来るのである。なぜなら彼はその知っている若干の相応を通して、その意味を歪め、それをこじつけさえもして、誤ったものを確認して、そうしたことは神的真理に、また天界に暴行を加えることになるからである。それでもし誰でも自分自身からその意義を開こうと望んで、主からそれを開こうと望まないなら、天界は彼に閉じられ、そのときはその人間は何ものも認めないか、または霊的に狂うかするのである。

 

2]他の理由は主は聖言によって各々の人間に教えられ、その人間がすでに得ているその諸真理から教えられて、媒介物がなくては新しい真理を注ぎ入れられないということである、それでもし人間が神的な真理にいないなら、または単に若干の真理にいるのみで、それと同時に誤謬にいるならば、彼はその真理をその誤謬から誤謬化してしまうのであり、そのことは聖言の文字の意義について凡ゆる異端者により為されたことは良く知られている。それで何人をも聖言の霊的意義に入らせないために、またはその意義に属した純粋は真理を歪ませないために、主により警護の者がおかれており、それが聖言ではケルビムにより意味されている。

 

3]警護の者がおかれたことは以下のようにわたしに表象されたことがある― (後略)

 

 

天界の秘義1162

 

『ハムの息子たち』によりこの分離した信仰にぞくした事柄が意味されていることは以下のことから生まれている。

 

『ハム』により意味されていることが知られ、それ故『ハムの息子たち』によっても意味されていることが知られるためには仁慈から分離した信仰はいかようなものであるかが先ず知られなくてはならない。仁慈から分離した信仰は信仰ではない。信仰のないところには、内なる礼拝も外なる礼拝も存在しない。かりにも何らかの礼拝があるにしても、それは腐敗した礼拝であり、それ故『ハム』により同じく腐敗した内なる礼拝が意味されている。仁慈から分離している、天的な事柄と霊的な事柄にかかわる単なる記憶知を信仰と呼んでいる者らは誤った見解を抱いているのである。なぜなら時としては人間の中でも最悪の者でさえもこうした知識を他の者にもまさって持っているからである―たとえば絶えず憎悪と復しゅうの中に、また姦淫の中に生きており、それ故奈落的なものであり、身体の生命の後には悪魔となる者らがそれである。こうしたことから記憶知は信仰ではないことを認めることができよう。

 

しかし信仰は信仰に属した事柄を承認することであり、こうした承認は決して外なるものではなくて、内なるものであり、主のみが人間の中に仁慈を通して作り出されるものである。そしてこの承認は決して口先の事柄ではなくて、生命の事柄である。人間各々の生命[生活]からその者の承認はいかようなものであるかを知ることができよう。

 

信仰のいくたの知識の記憶知をもってはいるが、仁慈をもってはいない者らはすべて『ハムの息子ら』と呼ばれるのである。たとえそれが聖言の内的な知識の記憶知であるにしても、聖言の神秘そのものの記憶知であるにしても、または聖言の文字の意義における凡ゆる事柄の記憶知であるにしても、または呼称のいかんを問わない他の諸真理の記憶知であるにしても―その記憶知からそうした事柄が観察されるのであるが―または外なる礼拝の凡ゆる祭儀の知識であるにしても。もしその者らが仁慈をもたないならば、その者らは『ハムの息子たち』である。『ハムの息子たち』と呼ばれている者はこうした性格を持っていることは今とり扱われている諸国民から明白である。