私の主、私の神よ
1.ヨハネ伝
2.トマス・ア・ケンピス
3.マリア・ワルトルタ
4.ヴァッスーラ
1.ヨハネ伝
ヨハネ20・28
トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
2.トマス・ア・ケンピス
キリストに倣いて/3・21・1
いとも甘美でいとも愛すべきイエズスよ、(中略)私の神よ、
キリストに倣いて/3・21・2
なんとなれば、私の主なる神よ、
キリストに倣いて/3・21・3
ああ私のもっともお愛しする浄配イエズス・キリストよ、もっとも潔い愛人よ、すべての被造物の支配者よ、飛んで行って主の裡(うち)に休むことができるように、真に自由な翼を私に与えてくれる者はだれでしょうか。ああ主のいかに甘美でおいでになるかを、ゆっくりと見ることのまったく許されるのは、いつのことでしょうか。私の主よ、私の神よ。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・34・1
御覧下さい、私の神、私のすべてよ! 私は他に何を欲しましょうか? これ以上幸福なものとして、何を望むことができましょうか?
ああ快く甘美なみ言葉よ! しかしそれはただ永遠のみ言葉を愛し、この世をもこの世にある物をも愛せぬ人にとってだけ、そうであるのであります。
「私の神、私のすべてよ!」この言葉の意味がわかっている人にとっては、こういうだけで十分でありまして、神を愛する者にとっては、これをしばしば繰り返すことは喜びであります。
なんとなれば、主がおいでになれば、すべて楽しく、主がおいでにならなければ、すべて厭わしいからであります。
主は心に落ち着きと、深い平安と、楽しい喜びとをお与えになります。
主は、私たちにいっさいをよしと思わせ、万事において主を賛め称えさせてくださいます。主がおいでにならなければ、何物も長く人の心を喜ばすことができません。これを楽しく快いものとするには、主の恩恵が必要であり、主の英知の薬味で味をつけていただかなければならないのであります。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・34・2
主を楽しみとする人にとっては、なんの楽しくないことがありましょうか? また主を楽しみとせぬ人にとっては、なんの楽しいことがありましょうか?
けれどもこの世の知者や肉の楽しみを求める者は、主の英知の前には光を失ってしまいます。なんとなれば前者にはむなしいことが多くあり、後者には滅亡(ほろび)があるだけだからであります。
これに反して、この世を軽んじ、肉欲を抑えて、主に従う人は、これこそ真に賢い者と認められるのであります。というのは、こういう人はむなしいものから真理に移り、肉から霊に移ったからであります。
かような人こそ神を楽しみとする人でありまして、かれらは被造物に何かよいところを見出すと、それをことごとく創造主賛美の材料(たね)とするのであります。
とはいえ、創造主と被造物と、永遠と時間と、造られない光と造られた光と、その味わいには相違―それも非常に大きな相違があります。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/4・1・2
「わたしのもとに来い、すべて労苦して重荷を負う者よ、わたしはあなたがたを休ませよう。」(マタイ11・28)と主は言っておいでになります。
ああ聖人の耳に甘美で、快いお言葉ではありませんか!ああ主よ、私の神よ、主は貧しく乏しい者を主のいとも聖なるお体の拝領にお招きになるのであります。
キリストに倣いて/4・1・9
しかも見よ、私の神、聖中の聖、人類の創造主(つくりぬし)、諸天使のあるじである主は、私のすぐそば、この祭壇の上においでになるのであります。
キリストに倣いて/4・2・2
ああ私の神よ、私は主をほめ、主を永遠(とこしえ)にたたえ、自分を軽んじ、私の卑しさの底から、自分を主に従わせます。
キリストに倣いて/4・2・5
驚くべきことであり、信ずべくしてとうてい人の悟り得ぬことであるのは、ああ私の主なる神よ、真の神で真の人にまします主が、パンと葡萄酒との見栄えのせぬ形色のうちに、まったくおこもりになって、拝領する者がこれを食しても、尽きないということであります。
万物のあるじなる主は、何も必要となさらぬのに、わざわざこの秘跡によって私たちの中に住まおうとなさるのであります。
キリストに倣いて/4・3・4
ああ主なる神よ、すべての霊を創造(つく)りこれを生かしたもうあなたが、もったいなくも哀れな霊のもとに来たまい、あなたの神性も人性もすべてをあげてその飢えを満たして下さるとは、ああ、あなたの私たちを顧みたもうおん慈しみのほどはなんとおどろくべきでしょう!
ああ、神であらせられる主を敬虔に拝領することができ、かつ主を拝領して霊的喜びに満たされることができるのは、なんという幸福な心、なんというしあわせな霊魂でしょう!
トマス・ア・ケンピス/マリアにならう/P95
わたくしの魂は、幸福とはイエズスのみもとにしかないことを知っていますから、イエズスにおあいすると、うれしさのあまり、いきがとまりそうになります。
マリアよ、あなたがうちにひめていらっしゃるこのすばらしい宝を、お示しください。
そうです、わたくしは信じています。イエズスこそ、おん父のおんひとり子でいらっしゃることを。また、信じています。イエズスこそ、おとめであるあなたからふしぎにお生まれになった初子(ういご)でいらっしゃることを。
わたくしは知っています、イエズスこそ、わたくしの神、わたくしの救い主、わたくしの父でいらっしゃることを。また、知っています、イエズスこそ、あなたをご自分の母となさったことを。
ああ、あなたをとおして、あなたのおん子イエズスにおあいしたいのです。
トマス・ア・ケンピス/マリアにならう/19・3
わたくしが霊魂と肉身とを捧げたいと願いますのは、ああイエズスよ、ほかならぬ、わたくしの主、わたくしの神でいらっしゃるあなたにです。ああマリアよ、神のおん母、わたくしの母でいらっしゃるあなたにです。
3.マリア・ワルトルタ
聖母マリアの詩上P198
(マリアは)それからかがんで、「ヨゼフ、抱いてください」と幼な子を差し出す。
「私?私に?おお、そんなこと!私は不肖で、主を抱くに堪えない!」ヨゼフは神にさわるということを考え、恐懼(きょうく)してしりごみする。
しかし、マリアは、ほほえみながら言う。
「おお、あなたこそ、この子を抱くにふさわしい、だれよりも。このためにこそ、いとも高きものは、あなたを選ばれたのです。ヨゼフ、抱いてください。私が布を探している間・・・」
ヨゼフは真っ赤になって、寒さにひいひい泣いている、柔らかい、丸々とした幼な子を腕に抱きとり、尊敬のためにふれないという意向を捨てて、胸に強く抱きしめて、大きなすすりなきとともに言う。
「おお、主よ!私の神よ!」と、かがんで、その小さな足に接吻すると、冷たいと感じる。土間に腰かけて膝の上にすっぽりおき、栗色の服と手で幼な子を覆い、暖め、夜の肌を刺す冷たい風から守ろうとする。
聖母マリアの詩下/P367
マリアは起き上がってひざまずき、胸で手を交差させ、ほほえみながらも涙声を出した。
「主よ、私の神よ」
マグダラのマリア/P390
マグダラのマリア:「おお、わが主よ!私はあなたがだれであるかを知っています・・・」
主:「私はだれでしょうか」
「あなたは“ましますもの”であります。あなたのもう一つの人間性は、これはあなたの輝きとあなたの聖徳の上に置かれている必要な服で、あなたがこうして私たちを救うためでした。あなたは神であって、私の神であります」
「マリア、立ちなさい。いつもあなたのこの信仰を守りなさい」
マリア・ワルトルタ/受難の前日/P152
主:「あなたは、いつでも私の友人たちに対して寛大に屋根を貸してくれました。本当にありがたいと思っています・・・」
ラザロ:「これからもずっとそのようにしたいと思っています。けれども、あなたのおっしゃったことは少し違います。先生・・・私はあなたに寛大であったとは言えません・・・むしろあなたの方が私に対して限りなく寛大でした。負い目があるのは私の方です。あなたが私にくださった宝物に対して、私がお返しできるものは何もありません・・・。
いつか、あなたは言われました。『与えよ、そうすれば与えられる。押し入れ、詰め込み、あふれるほどの物を懐に入れてもらえる』と、あなたは言われました。与えれば、与えた物の百倍を返してもらえると言われました。
実際、私がまだ何一つ与えていなかった時に、すでにあなたは、百倍の百倍ものものを寛大にお与えくださいました。
セラフィムさえも近づけないあなた、ああ私の主よ、神よ、悲しみと孤独の中にいた私に、あなたは訪れてくださいました・・・(後略)」
4.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/7巻P60
イエス・キリスト、わが主、わが神よ、彼らが私に何をしようと、決してあなたを見捨てたり、売り渡しはしません。