忘れる
天界の秘義5170
「かれはかれを忘れてしまった」。これは遠ざけることを意味していることは、憶えないことが連結しないことであるときの、『忘れること』の意義から明白であり、それは遠ざけることである、なぜなら遠ざけることが起るのは連結しないことに従って起るからである。忘却されるものはまた遠ざけられるのである。そしてまたそうしたものが知的な部分に従属した感覚的なものの実情である、なぜなら保留されている物はそのために連結はしないからである、なぜならそれらは未だ迷妄[妄想]から清められてはいないで、それらが清められるとすぐに、連結するからである。しかしこのことについて次章にさらに多くのことを述べよう、そこではその給仕役の者はヨセフを憶出だしたと言われているのである。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/第3巻上/P110
より多く与えた者たちは、より多く自分を忘れた者たちです。
自分自身を忘れることは骨の折れることです。人は記憶の積み重ねであり、一番声高なのは自我そのものの記憶です。この自我とこの自我とを区別しなければなりません。神を記憶し、自分は神から来たという自らの起源を記憶する霊魂によって与えられる霊的自我があり、自分自身と、情念を専ら包含する無数の要求を記憶する肉の劣等な自我があります。またこの数々の情念は―一つの合唱になるほど多くの声であるから―またもし霊魂がよほど強靭でないと、神の子というその卓越性を記憶する霊魂の孤高の声を制圧してしまいます。それゆえ― 一層刺激を与え、生き生きと力強く保持していなければならないこの聖なる記憶によらなければ―弟子として完全であるために、ありとある記憶、要求、人間的自我の小心翼々たる思慮において、自分自身を忘れることが出来なければならないのです。
この最初の試みにおいて、わたしの十二人の使徒の中で一番成果を上げたのは、自分を忘れていた者たちです。彼らの過去を忘れていただけでなく、彼らの限界にある人格までも忘れてしまいました。彼らは、自分がどうであったかを最早思い出さず、何も恐れないほど神と融け合う者たちです。他の何者でもありません。