ベール
天界の秘義3207
「彼女はヴェールをとって、身を蔽った」。これは真理の外観を意味していることは、花嫁たちが初めて花婿を見ると顔にかけたヴェールの意義から明白であって、それは真理の外観である。なぜなら古代人の間では花嫁は真理の情愛を、花婿は善の情愛を表象し、またはそれと同一のことではあるが、花嫁は真理の情愛から『花嫁』と呼ばれた教会を表象し、主から発している善の情愛は花婿であって、そこからすべて聖言には遍く主御自身は『花婿』と呼ばれている。花嫁は真理の外観を表象するため、初めて花婿のもとに来ると顔をベールでかくしたのである。真理の外観はそれ自身では真理ではなく、真理として見えるのであり、そのことについては下記を参照されたい。真理の情愛は真理の外観を通さなくては善の情愛には近づくことはできず、またそれは連結しつつあるまでは外観をはぎとられもしないのである。なぜならそれが連結しつつあるときそれは善の真理となり、善が純粋であるかぎり、純粋になるからである。
天界の秘義4859
花嫁は先ず花婿に近づいたときは身をヴェールでおおうたのであるが、そのことにより真理の外観が意味されたからである(3207番)。なぜなら妻は真理を意味し、夫は善を意味し、そして真理はそれがその善と連結しつつあるまではその性質を明らかに示さないため、それでそのことを表象するため、花嫁は始めてその夫を見るさいには身をヴェールでおおうたからである。ここのタマルの場合も類似している、なぜなら彼女はユダの息子のシェラを彼女の夫として認めはしたが、自分が彼に与えられなかったため、彼に代って父を夫の兄弟の義務をはたすべき者として認めたからであるそれで彼女は花嫁として身をヴェールでおおうたのであり、娼婦としておおうたのではなかったのであるが、しかしユダは、15節から明白なように、娼婦もまた当時その顔をかくすのを常としていたため、娼婦だと信じたのである。ユダが彼女をそのように認めた理由は、そこに『ユダ』により意味されているユダヤ民族は、表象的な教会の内なる諸真理を娼婦としてしか認めなかったということであり、それでユダは彼女とは娼婦と連結するように連結はしたが、しかしタマルは彼とそのように連結したのではないのである。内なる諸真理はかの民族にはそれ以外のものとして現れることはできなかったため、それであいまいなものにされた真理がここにタマルが身をヴェールでおおうたことにより意味されているのである。教会の真理はかれらにはあいまいなものにされていることは、今日でもまたかれらがその会堂で身をヴェールでおおうていることにより表象されているのである。
天界の秘義4859[2]
モーセがシナイ山から降りてきたさいその顔の皮膚は輝き、そのためかれはその民に語る時には常に身wヴェールでおおうたが、そのさいのモーセにも同じようなことが表象されていたのである(出エジプト記34・24から終りまで)。
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P143
多くの装身具がそのうちに秘めている意味に関しては、それぞれが別々にそれを有していましたが、あれから長い時が過ぎたためによく覚えておりませんので、黙することをお許し下さい。ただイエスが私の頭から足までおおって下さったベールは、悪魔にとっての恐怖でありました。彼らはといえば、イエスが私になさっていることを注意深く見守っていましたが、私があの被いで包まれるのを見るやいなや、非常に恐れおののき、あえて私に近づかないだけでなく、すっかり大胆さも無鉄砲さも失って、もう私を悩ませるどころか、すっかり驚いて逃げ去ってしまいました。