うずら
天界の秘義8431
「エホバは夕にあなたらに肉を与えて食べさせられるからには」。これは、その状態の終わりには善が歓喜により己がものとされるであろう、を意味していることは以下から明白である、即ち、『夕』の意義は状態の終わりであり(前の8426番を参照)、『肉』の意義は生かされた自分自身のものであり、または人間が主から得るところの天界的な自分自身のものであり、かくて愛の善であり(148、149、780、3813、7850、8409番)、しかしここではそれが『うずら』と呼ばれる鳥または飛び物の肉であったため、信仰の善である。なぜなら飛ぶ物により霊的なものが、または信仰に属したものが意味され、従ってその『肉』によりその性質の善が意味され、ここでは自然的な人の善、または歓喜が意味されているからである。『マナ』により内なる、または霊的な人の善が意味されているが、『うずら』により、歓喜と呼ばれるところの、外なる、または自然的な人の善が意味されていることを知られたい、それがその意義であることは、マナは朝の時間に与えられたが、うずらは夕方の時間に与えられ、朝の時間に与えられるものにより霊的な善が意味され、夕の時間に与えられるものにより自然的な善または歓喜が意味されているという事実から明白である。なぜなら他生では朝の状態は、霊的な善、または内なる人の善が明らかではあるが、自然的な善、または外なる人の善が明確でない時であるが、しかし夕の時間は、自然的な善がまたは外なる人の善が明らかであるが、霊的な善、または内なる人の善が明確でない時であるからである。こうした交替がこのように相互に継続していることもまたその人間が完全なものになされるためであり、特に善が彼のものとされるためであって、そのことは夕の状態では歓喜により遂行されるのである。