天界の秘義5948[2]

 

 聖言で媒介的なものは『器』と呼ばれ、現在の場合では『持物』と呼ばれているが、それはそれが移住について言われ、かくて家の中の物について言われているためである。しかし本質的なものは聖言では『物[品物]』と呼ばれて、媒介的なものにより活動するものである。かくて内的なものは外的なものを通して活動するため、それは相対的には本質的なものである。媒介的なものがかえりみられてはならないことにより、この媒介的なものが目的として認められてはならず、本質的なものが目的として認められなくてはならないことが意味されているのである。なぜなら媒介的なものが目的として認められるに応じて、本質的なものは後退して、消滅してしまうからである。かくてもし記憶知が目的として、認められて、真理がかえりみられないなら、真理はついには消滅してしまい、真理が何か在るか否かも認められることができなくなってしまうのである。同様に真理が目的として、認められて、善がかえりみられないなら、善もついには消滅して存在しなくなるのである。さらに、地の物、または身体の物、または世の物を目的とし、かくてそうした物のみをかえりみて、天界のものをかえりみない者らのもとでは、天界のものは消滅してしまい、ついには天界のものはほとんど何一つ承認されなくなるのである。こうした、またそれに類した事柄が『あなたの目にあなたの持物を惜しませてはならない』により意味されているのである。