天界の秘義6791

 

「彼がパンを食べるために」。これは善を確認することを意味していることは、『パン』の意義から明白であり、それは愛の善である(2165、2177、3478、3735、3813、4211、4217、4735番を参照)。『パンを食べること』が善を確認することを意味していることは、『食べること』によりここでは共に食べることが意味されているためであって、共に食べることは聖言では『宴会』と呼ばれているのである。共に食べること、または宴会は古代人の間で教会の中に連結のために、また善を確認するために行われたのである(3596、3832、5161番を参照)。

 

 

天界の秘義7093〔5〕

 

宴には喜びがなくてはならなかったこと、かくて『宴を張る』ことは喜んで礼拝することであることもまた以下の記事から明らかである。イザヤ書には―

 

宴が清められる時、あなたらは夜の時のように歌わなくてはならない(イザヤ30・29)。

 

オオム書には―

 

 良い音づれをもたらし、平安を布れる者の足を山々の上に見よ! ああ、ユダよ、あなたの宴を催し続けよ、あなたの誓いを果せよ、ベリアルは最早あなたの中を通らないであろう、彼は全く絶たれたからである(ナオム1・15)。

 

 

天界の秘義7093〔6〕

 

『宴を張ること』は、彼らがエジプトにおける苦役から解放されたために、即ち、霊的な意義では、彼らが誤謬に取り憑かれて悩まされることから自由にされたために、喜んで礼拝することを意味していることは、過越節の宴から明らかである。これは彼らがエジプトから出て行った日に年毎に催されるように命じられたのであり、それもイスラエルの子孫が苦役から解放されたためであり、即ち、霊的な教会に属した者たちが誤謬から解放され、かくて堕地獄の状態から解放されたためであり、主は来り給うことによって彼らを自由にされ、復活された時彼らを御自身と共に天界へ引き上げられたため、それでこれもまた過越節に行われたのである。このことも同じくヨハネ伝の主の御言葉により意味されているのである―

 

 今この世の審きは来た、今この世の君は追い出されるであろう。そしてわたしは、もしわたしが地から挙げられるなら、凡ての者をわたしのもとに引き寄せよう(ヨハネ12・31、32)。

 

 

天界の秘義7996

 

全般的に、饗宴は、その正餐も、晩餐も、古代では教会の中で行われたが、それは彼らが愛の方面で共に交わり、また連結し、愛と信仰とに属する事柄を、かくて天界の事柄を互に教え合うためであったのである(3596、3832、5161番)。当時そうしたものが彼らの宴会から生れる歓喜であり、またそうしたものがその正餐と晩餐との目的でもあったのである。かくて心も身体もまた(共に)一致し、相応して、栄養を与えられ、そこから彼らは健康と長命を得、またそこから理知と知恵を得、またそこから天界と交流し、ある者は公然と天使たちと交流もしたのである。しかし時が経つ中に内なる事柄はすべて消え去り、外なる事柄に移って行くように、饗宴と宴会との目的も消え去り、今日ではそれは何ら霊的な連結のためのものではなくて、単に世的な連結のためのものとなっているのである。即ち、利得のためのもの、名誉を追求するためのもの、快楽を追求するためのものとなっており、そこから身体は栄養を与えられてはいるが、心は何らそれを与えられてはいないのである。

 

 

真の基督教433

 

午餐と晩餐は凡ゆる所に通常開かれ、種々の目的のために催される。友人と親戚関係の午餐があり、午餐は楽しさを増すために、或は恩恵を得るために催される。時としては腐敗した目的を持った政治的な午餐、著名な人々のための午餐、宮廷の儀式上の午餐がある。然し、仁慈の饗宴は宗教を等しくする者の相互的な愛によって営まれる。初代教会の基督教徒は心からの喜びと親密な一致をもって共に集まるためにその饗宴を張った。