海
1.知識
2.大洋という心臓
3.天界における海
4.地獄
5.科学
6.『海』は自然的な真理を、『地』は自然的な善を意味
1.知識
天界の秘義2832
「海」と「川」は記憶知と知識を意味
天界の秘義3708
「海」は全般的に知識を意味している(28,2850)。
天界の秘義3708
『海から海へとさまようこと』は知識が在る所を尋ねることを意味し(『海』は全般的に知識を意味していることについては前の28、2850番を参照)、『北から東へまでもここかしこと走りまわる』ことは、明確でない知識から光の中に在る知識へ、を意味している。
天界の秘義6015
記憶知の集められたもの
天界の秘義9653
「西」または「海」の意義は善が明確でない状態
3708、8615
「海」は全般的に記憶知を意味し(28、2850)、記憶知は外なる、または自然的な人の中にあり、そこでは善は明確でないため、「西」は「海」とも呼ばれる。記憶知はことごとく、自然的な人のものであって、世の光の中に存在している。
天界の秘義9755
「海」の意義は真理にかかわる論究[推理]が生まれてくる源泉であるところの集積された記憶知であり、かくてまた自然的なものと感覚的なものである。なぜならこのものがその記憶知を包含しているものであるからである。西が西と呼ばれないで、「海」と呼ばれているときは、記憶知が意味され、それもまた相対的には明確さを欠いているのである。なぜなら記憶知は自然的な、また外なる人に属しており、自然的なまたは外なる人は世の光の中にいて、その光は内なる人がその中に宿っている天界の光に比較するなら陽が沈みかかっている折の宵やみに似ているから。
「西」により明確でない善が意味され、外なる、自然的な人はこの善の中にいる。自然的な人の真理は「海の水」により意味され、この真理は記憶知である。なぜなら自然的な、また外なる人における真理は知識における真理であるに反し、霊的なまたは内なる人における真理は信仰の真理であるからである。知識における真理はまたそれが自然的な、または外なる人から霊的な、たまは内なる人の中へ引き挙げられるときは信仰の真理となるのである。ここから人間のもとにその青春の項に存在している真理は知識における真理であるが、成人期にあっては、もしその人間が自ら再生することに甘んじるなら、その真理は信仰における真理となるのである。なぜなら内なる人はこの時期までさえも絶えず開かれるからである。
「海」が記憶知の集合したものを意味していることは「水」、「泉」、「川」が真理を意味しており、それで集積したものが「海」により意味されているという事実から来ている。
「舟」・・聖言から発した教義的な事柄
「海に投げ込まれる」・・記憶知の誤謬の中へ投げこまれること
「海」・・・・記憶知の誤謬
「舟の中にいる者」・・・こうしたものをもっていることを誇って、それを教える者ら
2.大洋という心臓
マリア・ワルトルタ34・13/天使館第1巻P293
彼らは、いと高き神のみ前に自分たちは無に等しいと感じています。その神は惑星とそこに生きるものを創造し、果てしなき作品を物するこの無限の彫刻家は、それを多様化し、親指の一突きで、ここには優しい丘陵の冠を、あちらには地球の背骨にも似た峠と連峰の骨格を造り上げた。そしてこの広大無辺の体に、河川、渓谷、湖沼という血管を流し、大洋という心臓を置き、大森林という衣を着せ、雲のベールをかけ、森と林と風が主を讃美する大合唱のうちに、この体を水晶の氷河と、歌うすべての水のトルコ石、エメラルド、真珠、緑柱石で飾った。
3.天界における海
黙示録講解342ロ
最低の天界に住んでいる者たちは地の上に、地の下に、海の中に住んでいる。
最低の天界の中にいる気質の善良な者たちが住んでいる海の水は稀薄で純粋。
これらの者は恰も海の中にいるかのように見えるのであるが、しかしその中にいる者たちはその者たち自身には海の中にいるようには見えはしないで、かれらが世にいる間住んでいた大気に似た大気の中にいるように見えるのであり、かれらはかれらよりは上の方にいる者たちにのみ海の中にいるように見えるのである。天界のこの最低の部分は足のうらに相応している。
4.地獄
天界の秘義1692
試練は、または試練の争闘はいかようなことを遂行するかはほとんどたれ一人知ることはできない。それはいくたの悪と誤謬とが破壊され、消散される手段であり、またそれにより悪と誤謬とに対する恐怖が生まれてくる手段であり、それにより良心が与えられるのみでなく、また強固にもされ、かくしてその人間は再生するのである、それが再生しつつある者が争闘に入れられて、試練を受ける理由であり、身体の生命の中でそれを受けない者は、もしその者が再生することができるならば、他生でそれを受けるのであり、そうした理由から主の教会は戦闘の教会と呼ばれている。しかし主のみが御自身の強さによりまたは御自身の力により試練の中でも最も残酷な争闘に堪えられたのである、なぜなら主は凡ゆる地獄に包囲されたもうて、絶えずそれらを征服されたからである。
[2]試練の争闘の中にいる人間の中で戦われて、征服される者もまた主のみである。人間は人間自身の力からでは悪い、または奈落の霊どもに対しては何ごとも些かも行うことはできない、なぜなら彼らはもし一人が征服されるならば、他の者が突入してきて、それが果てしもなくつづいているほどにも地獄と連なっているからである。かれらは堤防の凡ゆる部分に押しよせている海のようなものであり、もしその堤防がさけ目またはひびのために破られでもするなら、海は絶えず流れ込んで、溢れ、ついには何一つ立ったままに残されはしなくなるのである。主のみが人間の中に試練の争闘を支えられないかぎり、人間もそのようにあるであろう。
天界の秘義2120
『海と波がほえたけること』により、全般的には教会の中に、個別的には各々の人間の中に異端と論争とがこのようにほえたけるであろうということ以外には何ごとも意味されてはいないのである。
5.科学
霊界日記4769
教会内の無神論者の数はいかに大きなものであるかが前に示された。身体の方面では生きているこれらの者の凡ては、その霊魂の方面では、他生にいて、そこで他の霊たちと交わっているが、そのことをかれら自身は知りはしないのである。これらの霊は、すなわち、生きている人間の霊らが、右の方で、目に示されている。現今無神論者であるようなこうした者らのおびただしい群れがおり、数える事もできないほどにも大きい。それを部類で数えると、三百万にも達し、その他に、多くの者が、いわば、海から、すなわち、科学から立ち上がってくるように見えたのである。
天界の秘義2162[7]
『足』は自然的なものを意味していることは、今以下に記す記事からさらに明白となるであろう。ヨハネの書には―
私は一人の天使が雲に包まれて、天から降って来るのを見た、虹がその頭のまわりにかかり、顔は陽のようであり、足は火の柱のようであった、彼は手に開かれた小さな書物を持っていた、彼は海にその右足を、地にその左足を置いた(黙示録10・1、2)。
この天使により同じように聖言が意味されており、内意におけるその聖言の性質は、『その頭のまわりの虹』により、また『顔が陽のようであったこと』により意味されているが、しかし外なる意義は、または文字の意義は『足』により意味されているのである。『海』は自然的な真理を、『地』は自然的な善を意味していて、そのことが彼が『その右足を海に、左足を地に』置くことにより意味されていることを示している。