1.馬

2.白馬

3.馬に乗る

4.馬に乗る者

5.ペガサス

 

 

1.馬

 

天界の秘義2762

 

『馬』は理解の能力[理解する能力]を意味していることは他生における表象以外の源泉からは発していないのである。

 

ある遠い世界から来ている霊たちが、理知と知恵に浸透して、霊たちの世界から天界へ上げられるとき、その者たちに火のように輝いている馬が現れてくるのもこのことに起因しているのであり、その馬もまた私は彼らがとり上げられた時眺めたのである。

 

 

天界の秘義2762 []

 

このことからわたしはエリアが旋風によって天界に登ったとき、エリシャから見られた火の戦車と火の馬により意味されていることを認めたのであり、(後略)

 

火の戦車・・・聖言から発している愛と仁慈の教義

火の馬・・・・そこから発している信仰の教義。信仰の教義は聖言をその内部の方面でまたはその内意の方面で理解することと同一である。

 

 

天界の秘義2762[]

 

さらに、霊たちの世界で理知的な賢明な者の住居が在る所には、戦車と馬とが絶えず現われているが、それは今言ったように、戦車と馬とにより知恵と諸々の事柄が表象されているという理由によっているのである。死後よみがえって、他生に入りつつある者たちは一人の青年が馬にまたがり、それからその馬から降りてくる表象を見るが、そのことにより、彼らは天界に入ることが出来る以前には善と真理との知識を教えられねばならないことが意味されているのである(第一部187、188番参照)。

 

 

天界の秘義2762[]

 

戦車と馬とがこうした事柄を意味したことは古代教会の中には良く知られていたのであって、そのこともまたその教会の書であるヨブ記から明白であり、そこには以下の言葉が記されているのである―

 

神は彼女に知恵を忘れさせ、これに理知を与えられなかった。彼女は高く自らをもたげる毎に、馬とその騎手とを蔑む(ヨブ記39・17−19)。

 

古代教会から、理解する能力という馬の意義が周りの賢人たちに拡がり、ギリシャにまでも入ったのである。ここから以下のことが起るようになったのである、すなわち、彼らが太陽を描写した時(その太陽により愛が意味されたのであるが、2441、2495番)、その中に彼らの知恵と理知との神を置いて、その神に火の戦車と四頭の馬とを与えたのであり、また海の神を描写したときは、海により全般的な知識が意味されたため、その神にもまた馬を与えたのであり、理解から知識が起ってくることを描写した時は、彼らは蹄で蹴って泉を開く飛び駆ける馬を表象したのであり―その泉には科学である処女が住んでいたのである。トロイの馬によっては都の城壁を破壊するために彼らの理解から考案されたもの以外には何ごとも意味されはしなかったのである。現今ですら知性は、かの古代の民から受けつがれた慣習に従って、飛び駆ける馬、またはペガサスの姿の下に描かれ、学問は泉として描かれているが、しかし殆どたれ一人馬は、その神秘的な意義では理解を、泉は真理を意味していることを知ってはおらず、ましてやこれらの意義は古代教会から異邦人に伝えられたものであることを知ってはいないのである。

 

 

天界の秘義3217

 

 天使たちが理解に関係している事柄について話していると、そのときは天使たちの下に在る霊たちの世界には、または彼らに相応している社会には馬が現れてきて、しかもこの馬はその天使たちが理解について抱いているいくたの考えに順応したサイズを、形を、色を、姿勢をとり、また種々の馬具をつけているのである。またやや右手よりのやや深い所に理知的な者の住所と呼ばれている所が在って、そこには絶えず馬が現れているが、これはそこにいる者たちが理解に属している事柄について考えているという理由のためであり、この主題について話し合っている天使たちが彼らの思いの中に流れ入ると、そこに馬が表象されてくるのである。このことは予言者たちの見た馬により、また聖言の他の所に記されている馬により意味されたことを、すなわち、理解に属している事柄を示しているのである。

 

 

2.白馬

 

天界の秘義2760

 

『天界が開かれること』(黙示録19・11)は聖言の内意は天界の中でなくては見られないことを、また天界を開かれる者によらなくては、すなわち、主に対する愛の中におり、そこから主に対する信仰の中にいる者によらなくては見られないことを意味しているのである。『白い馬』は聖言をその内部の方面で理解することを表象し、また意味しており、『白い馬』はそのことであることは以下の記事から明らかになるであろう。『それに座られた方』は聖言であり、主は聖言であられることは明白である。

 

 

3.馬に乗る

 

天界の秘義5895[3]

 

『(馬に)乗ること』は理解することを楽しむこと

 

 

4.馬に乗る者

 

天界の秘義2761

 

『馬』は聖言の理解[聖言を理解すること]であり、『騎手[乗る者]』は教える者である。

 

 

天界の秘義2686[5]

 

馬に乗る者の、弓を射る者のため都はこぞって逃げて行く、彼らは雲の中に入り、岩の上によじ登った。都はことごとく棄てられた(エレミア記4・29)

 

『馬に乗る者』は真理を宣べ伝える者を意味し、『弓』は真理の教義を意味し、誤謬の中にいる者はそこから逃れ、またはそれを恐れるのである。

 

 

 

 

5.ペガサス

 

天界の秘義2762[]

 

戦車と馬とがこうした事柄を意味したことは古代教会の中には良く知られていたのであって、そのこともまたその教会の書であるヨブ記から明白であり、そこには以下の言葉が記されているのである―

 

神は彼女に知恵を忘れさせ、これに理知を与えられなかった。彼女は高く自らをもたげる毎に、馬とその騎手とを蔑む(ヨブ記39・17−19)。

 

古代教会から、理解する能力という馬の意義が周りの賢人たちに拡がり、ギリシャにまでも入ったのである。ここから以下のことが起るようになったのである、すなわち、彼らが太陽を描写した時(その太陽により愛が意味されたのであるが、2441、2495番)、その中に彼らの知恵と理知との神を置いて、その神に火の戦車と四頭の馬とを与えたのであり、また海の神を描写したときは、海により全般的な知識が意味されたため、その神にもまた馬を与えたのであり、理解から知識が起ってくることを描写した時は、彼らは蹄で蹴って泉を開く飛び駆ける馬を表象したのであり―その泉には科学である処女が住んでいたのである。トロイの馬によっては都の城壁を破壊するために彼らの理解から考案されたもの以外には何ごとも意味されはしなかったのである。現今ですら知性は、かの古代の民から受けつがれた慣習に従って、飛び駆ける馬、またはペガサスの姿の下に描かれ、学問は泉として描かれているが、しかし殆どたれ一人馬は、その神秘的な意義では理解を、泉は真理を意味していることを知ってはおらず、ましてやこれらの意義は古代教会から異邦人に伝えられたものであることを知ってはいないのである。

 

 

天界の秘義7729〔8〕

 

 古代人は理知では現代人にいかほど勝れていたかは以下の事実から知ることが出来よう、すなわち、彼らは世の多くの物は天界のいかようなものに相応しているかを、従ってそれは何を意味しているかを知っていたのであり、このことは単に教会の者たちに知られていたのみでなく、教会の外にいる者にも知られていたのである、例えばギリシャに住んでいた者たちにも知られていたのであり、彼らの中で最古代の者たちは表意的なものにより物事を記したのであるが、それは現今では全く知られていないため、寓話的なもの〔作り話〕と呼ばれているのである。古代の賢人たちはこうした物を知っていたことは以下の事実から明白である、即ち、彼らは理知と知恵の起原を有翼の馬により示し、この馬をペガサスと呼んだが、この馬はそのひづめで(地を)蹴ると泉が涌き出で、その泉のあたりに九人の処女がいて、しかもそれは岡の上にあったのである、なぜなら彼らは、『馬』により知的なものが、『翼』により霊的なものが、『ひづめ』により、理知の起原であるところの、究極的な度の真理が、『処女』により科学が、『岡』により合意が、霊的な意義では仁慈が意味されているからである。他の凡ゆる物も同様である。しかし現今こうした事柄は失われたものとなってしまったのである。

 

 

真の基督教693

 

古代人は翼馬ペガサスによって智慧に到達する手段である真理の理解を意味し、その蹄によって自然的な理知の由って来る経験を意味し、而して九人のミューズ神は凡ゆる種類の知識を意味したのです。これらの物は今は神話と呼ばれていますが、しかしそれらは遠い古代の言葉から生き残った相応でありました。