嘲笑
マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P30
骸骨カナニアがむかむかする笑い声を上げると、人々の間に低く不吉な笑いが広がる。嘲笑しか知らない悪魔たちの心の底からわいてくる冷笑である。微笑は明るい愛のある人のものだが、冷笑は憎しみにとらわれた人のものである。
天界の秘義1080
「そして外にいる二人の兄弟に告げた」(創世記9・22)。
これはかれが嘲ったことを意味していることは今言ったことから当然の帰結として生まれてくる。なぜなら仁慈の中にいない者らのもとには、他の者に対する不断の軽蔑があり、または不断の嘲笑が在って、機会のある毎にかれらの過誤を公にするからである。かれらが公然と行動しないのはひとえに外なる拘束物に抑制されているためであり、すなわち、法律を恐れる恐怖、生命を、名誉を、利得を失いはしないかとの恐怖、またそうしたもののために世間の評判を悪くはしないかとの恐れに抑制されているためであって、このことがかれらはうわべでは友情をつくろってみせてはいるものの、内ではそうしたものを抱いている理由となっている。
ここからかれらは二つのスフィアを得ているが、それらは他生では明白に認められている。すなわち一つは内的なもので、憎悪に満ちているが、他の一つは外的なもので、善いものを模倣している。これらのスフィアは元来全く調和しないものであるため、互に衝突しないわけにはいかないのであり、それで外的なスフィアがかれらからとり去られて、かれらがいつわることができなくなると、かれらは凡ゆる邪悪に突入するのであり、それが取り去られないときは、憎悪がかれらの語る一つ一つの言葉の中にひそんでいて、それが認められるのである。ここからかれらの刑罰と拷問とが起っている。
天界の秘義206
自分の目は開いており、自分は神のように何が善であり、何が悪であるかを知っていると、自分自身を愛すると同時に世の学問にすぐれている者にもまさって強く信じる者があろうか。しかもその者ら以上に盲目の者がいようか。彼らに尋ねてみるのみで、彼らは霊の存在を知りさえもしておらず、ましてや、そのことを信じていないことが明らかとなるであろう。彼らは霊的な天的な生活の性質を全く知っておらず永遠の生命を認めてはいない、なぜなら彼らは自分が死んでしまう獣のようなものであると信じており、また主を認めないで、只自分自身と自然のみを拝しているからである。彼らの中で、そうした表現を警戒しようとする者らは、その者らの知りもしない自然の何か最高の存在が凡ての物を支配していると言っている。それは原理であって、彼らはそれを感覚と記憶知の物により多くの方法で、確認しているが、敢えてそれと同じことを全宇宙の前にもやってのけようと試みるであろう。こうした人間は神としてまたは人間の中最も賢明な者として認められようとねがってはいるものの、もし自分自身のものを何ら持たないことは如何ようなことであるかを知っておられるかと尋ねられるならば、それは単に想像の作り事であって、無知な物を抑えつけておくのに役立つであろうと言うであろう。もし認識とは何であるかを知っておられるかと尋ねられるならば、彼らはただそれを嘲笑するのみで、それを狂的なたわごとであると呼ぶであろう。これが彼らの知恵であり、こうした『開いた目』を彼らは持っており、こうした神々が彼らなのである。こうした原理は昼よりも明らかであると彼らは考えて、それを出発点とし、歩みつづけ、そうした方法で信仰の諸々の秘義について論じるが、その結果は暗黒の深淵でなくて何であろう。これらが他の凡てに勝って世をまどわす『蛇』である。しかし最古代教会のこの子孫は未だこのような性格をもっていなかったのである。このようなものになったものは本章の14節から19節に取扱われている。
天界の秘義6907〔2〕
誤謬の中にいて、エジプトの王により表象されている者らが真理の中にいる者たちに自分自身を対立させる実情のいかようなものであるかを話さなくてはならない。世では誤謬の中にいる者らは真理の中にいる者たちに公然と自分自身を対立させはしないのである、なぜなら外なる拘束により彼らは抑えつけられているからであって、その拘束とは自分が国家と教会との律法に反抗していると見えはしないか、それで自分は善良な市民であるように見えることが出来なくなりはしないか、という恐れである、なぜならこの世ではたれでも外形では公正で真実なものであるように思われたいと願っており、邪悪な者は気質の善良な者よりも更にそのことを願っているからであるが、それは彼らが他の者の心を捉えて、利得と栄誉のために欺こうとするためである。(そうした外形)にも拘らず内部では彼らは自分自身を対立させているのである、なぜなら彼らはたれかがその務めの上からではなくて、熱意から教会の真理を告白するのを聞くと必ず、心の中で嘲笑ししており、もし外なる拘束から抑制されないときは、公然と嘲るからである。こうした者は他生へ入ると、最早外なる拘束物により抑制されはしない、なぜならこうした拘束はその時彼らから取り去られて、各自の真の性格が現れ、その時は彼らは真理の中にいる者たちに公然と自分自身を対立させて、凡ゆる方法を尽くして彼らにとりついて悩ますからである。その時そのことが彼らの生命の歓喜そのものとなり、そうしたことを為さないようにと警告されても―なぜならもしそれを慎まないなら、彼らは遂には全く引き離されて、地獄に投げ込まれるからであるが―それには一顧も与えないで、絶えず以前のように(他の者)にとりついて悩ませ続けるのであり、誤謬から発した生命の歓喜の中に甚だしく浸って、それに全くとりつかれているため、理知に属したものは何一つ容認はしないのである。これらが『エジプトの王はあなたらの行くのを許さないであろう』という言葉により意味されているものであり、パロが再三彼自身を対立させたことにより表象されているものである。こうした霊どもを遠ざけて、地獄へ投げ込むことが、パロとエジプト人とがスフの海に死滅したことにより表象されているのである。