1.真理に対する自然的な情愛の中にいる諸天界は、主を月として見まつる

2.聖母から司祭へ

 

1.真理に対する自然的な情愛の中にいる諸天界は、主を月として見まつる

 

黙示録講解527

 

(主は天使たちには陽としても、月としても現れておられることについては「天界と地獄」、116−125番を参照されたい)。

 

真理に対する霊的な情愛の中にいる諸天界は、すなわち、真理をそれが真理であるために愛する諸天界は主を陽として見まつるのである。これは霊的なものであるため、それで陽としての主から発している光は霊的なものである。

 

しかし真理に対する自然的な情愛の中にいる諸天界は、すなわち、自分らが学問のある者となって、他の者に教えるために、真理を愛する諸天界は主を月として見まつるのである。これらの者は真理が自分たち自身に役立つために真理を愛して、真理それ自身のために愛しはしないのである、それでかれらは月として主から発出している光の中にいるのである。

 

この光は陽として主から発出する光とは、太陽から発するひるの光がわたしたちの世界で月と星から発する夜の光から異なっているようにも異なっており、かれらのもとでは光が異なっていると同様に真理も異なっているのは、主から発出している神的真理は諸天界における凡ゆる光を生み出しているためである(「天界と地獄」、126−140番を参照)。

 

 

[]それゆえ、霊的な光の中にいる者たちは純粋な真理の中におり、またかれらは前に知ったこともなかった諸真理を聞くとき、すぐにもそれらを承認して、それらが真理であることを承認するのである。

 

自然的な光の中にいる者たちは異なっている。そうした者たちは諸真理を聞くとき、それらを受け入れはするが、それはかれらがそれらを見るためではなく、または認めるためではなくて、かれらが信頼している有名な人によりそれらが話されるためであり、それゆえ、そうした者たちの大半の者たちの信仰は他の者たちから発してはいるものの、それでもかれらは信仰に従った生命の中にいるのである。

 

この諸天界の中へ、良く生きはした者たちが凡て、たとえかれらは教義の誤謬の中にいるにしても、入ってくるのであるが、それでも誤謬は絶えずそこで清められ、ついにはその誤謬は真理として現れるのである。

 

 

 

霊界日記4219「天界の月について」

 

 輝いている一つの月が、同じように輝いている非常におびただしい数の小さな月に囲まれて私に示された。その光は殆ど太陽のようであり、全く生きているようであった。そのことについて尋ねて、私は以下のことを知った、即ち、霊たちは自分らがそうした光体に取り囲まれている月であると考えてはいるが、しかし彼らは私たちの地球には見えはしないのである。しかし私は以下のことを知らされた、即ち、主は霊的な天使たちにはこのように現れ給うが、しかし天的な天使たちには太陽として現れておられ、その現存する源泉から天界における、天的な者たちの光が発しており、他方霊的な者たちの光は主が月として現れておられることから発しているのである。主は実際には月として現れはされないものの、それでも彼らの光は、生き生きとして輝いている月の光に似ている一方では、天的な者たちの光は太陽の光に似ているのである。1749年[60歳]4月14日。この月は主がおられる右には現れはしないで、前面の上方に現れたのである。

 

 

 

 

 

 

2.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1975.1.4

 

私が特に愛している子どもたち、あなたがた命名の側に、母として私がいることを感じて下さい。

 

 

聖母から司祭へ1975.3.15

 

 もうしばらくは光のうちに歩むことができるでしょうが、間もなくすべては闇に覆われるでしょう。その時、私自身があなたがたの唯一の光となり、私の汚れなき心が望んでいることを完成するよう、あなたがたを導くでしょう。