躓く
1.主につまずく
2.人につまずく
1.主につまずく
「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」(マタイ7・13,14)
「わたしにつまずかない人は幸いである。」(マタイ11・6)
「このように、人々はイエスにつまずいた。」(マルコ6・3)
ルカ20・17−18
イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
(マタイ21、マルコ12)
サンダー・シングの講演より/徳間書店/『イエス・キリスト封印の聖書』/P340
「この盲人(マルコ8・22)と似たような人々は今もいます。目は開いていても、彼らの視力は半分しかありません。すべてをはっきり見ることができずにいます。人々が木のように見えたこの盲人と同じく、多くのクリスチャンはキリストが神であることを知らずにいます。(中略)多くの人は、イエス・キリストが今も実在すること、主が救い主であり神であることを理解してはいません。」
2.人につまずく
マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P174
キリストに近づこうとしている人たちにとって、キリスト信者たちが最悪の障害物になっていることがよくあります。言葉でだけきれいなことを言って、自分は実行していないことがあるからです。人々がキリストを信じようとしない一番の原因はそこにあります。
同P172
キリスト者であるためには、キリストに似た者でなければならないと、私は固く信じています。
ガンジーがかつてこう言いました。「もしもキリスト信者たちが、その信仰に忠実に生きていたら、インドにはヒンズー教を信じる者たちは一人もいなくなってしまっただろう」と。
人々は、私たちがキリスト信者らしく生きることを期待しているのです。
サンダー・シング/『東洋及び西洋の使徒 聖サンダー・シング』
「かれらの一人一人が、ただに彼の唇をもってのみならず、また彼の全生活によってキリストへの証人たることができる。」
「われわれインド人は教理を、宗教的教理をさえ欲しない。われわれはその種のものは十分かつ十分以上に持っている。われわれは教理に疲れている。われわれは活けるキリストを必要とするのである。インドは只に説教をしたり教えたりするところの人々のみでなく、またその全生活と性質とがイエス・キリストの啓示であるところの働き人を要求する。」
ブリージ・マッケナ/「祈り―恵みの泉―」P161
退屈な司祭だとか、司祭が聖霊による刷新された人でないとか、うるさい人だとか、臆病だとか、私たちは司祭のことをいろいろ言うのですが、自分の信仰が足りないのに司祭を非難することなどできるでしょうか。本当は、司祭が問題ではないのです。本当の問題は自分の信仰にあるのです。もし、司祭が強い信仰をもっていれば、意味ある礼拝に向かう大きなステップだということは事実です。私の司祭への奉仕において、私はいつでも司祭たちに、さらに大きい信仰へとチャレンジするのはそのためです。
ミサ聖祭の中で司祭が何を代表し、何を行なっているかを見るために自分自身や司祭の人間性を越えた向こう側を見なければなりません。カトリック信者として、ご聖体において、自分とイエスとの間に司祭を入れてはいけないのです。