登山

1.スウェーデンボルグ

2.マリア・ワルトルタ

3.ヴァッスーラ

 

 

詩篇24・3−6

 

どのような人が、主の山に上り

聖所に立つことができるのか。

それは、潔白な手と清い心をもつ人。

むなしいものに魂を奪われることなく

欺くものによって誓うことをしない人。

主はそのような人を祝福し

救いの神は恵みをお与えになる。

それは主を求める人

ヤコブの神よ、御顔を尋ね求める人。

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

天界の秘義5159[3]

 

 しかし僅かな者しかこのかんの実情のいかようなものであるかを把握できないため、それを例により説明しよう。自らが再生することに甘んじない者は身体のいくたの物を身体のために愛し、それ以外の目的からは愛しないのであり、かれはまた世を世のために愛して、それ以上高い所には登らないのである、なぜならかれは高いもの、または内的なものを凡て心では否定しているからである。しかし他方再生しつつある者も同じく身体の物を、また世の物を愛しはするが、しかしそれは高い、またはさらに内的な目的から愛しているのである、なぜならかれは身体の物を健全な精神をもつ目的から愛し、その心とその健全さとをさらに内的な目的から、すなわち、善を味わい(または善によって賢明になり)、真理を理解するために愛しているのである。他の人間のようにかれもまた世のいくたの物を愛しはするが、しかしかれは、世、その富、所有物、名誉を通して善い真のものを、公正で公平なことを行う手段を得ようとする目的からそれらのものを愛しているのである。

 

 

天界の秘義9274[2]

 

再生しつつあり、また教会となりつつある人間のもとには二つの状態が在ることはこれまで知られていなかったことは、主として教会の人間は真理と善とを、引いては信仰と仁慈とを何ら明確に区別しなかったためであり、また理解と意志であるところの人間の二つの能力を何ら明確に認めなかったためであり、理解は真理と善とを認めるが、意志は真理と善とに感動して、それらを愛するのである。同じ理由からかれは以下のことも知ることができなかったのである。すなわち、再生しつつある人間の最初の状態は真理を学んで、それを認めることであり、第二の状態は真理を意志し[欲し]、愛することであり、人間が学んで、認めた事柄は、その人間がその事柄を意志し、愛さなくては、その人間のものとはならないのである、なぜなら意志はその人間そのものであって、理解はかれに仕える者であるからである。

もしこうした事柄が知られていたなら、再生しつつある人間は主から新しい理解のみでなく、新しい意志も与えられ、もしその二つとも与えられないなら、かれは新しい人間ではないことが知られもし、認められもしたであろう、なぜなら理解はその人間が意志し、愛する事柄を見ることにすぎないのであり、かくて、前に言ったように、仕える者にしかすぎないからである。従って再生しつつある人間の最初の状態は諸真理を通して善へ導かれることであり、第二の状態は善により導かれることであり、かれがこの後の状態の中にいるときは、秩序[順序]は転倒するのであり、そのときはかれは主により導かれており、従ってかれはそのときは天界の中におり、そこから平安の静謐の中にいるのである。

 

 

真の基督教302

 

新しい誕生の第一歩は改良と呼ばれ、それは理解にかかわり、第二は再生と呼ばれ、それは意志にかかわり、そこから理解にかかわっている。

 

 

2.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P210

 

後にもおられるかた(黙示録1・8)

 

 どんなやり方で?もちろん、肉を再びとることによってではない。もし彼の再臨が確実であるなら、同じくらい確実に、もう一つ別の肉をとることは決してあるまい。彼のによってまとわされた最初の、永遠の、栄光化された完全な肉を具備しているのだから。

 

 第二の贖罪のためにキリストが来ることもないだろう。第一の贖罪はそれだけで充分であり、完璧だったのだから第二の贖罪はないだろう。その時以来、人びとは、それを望みさえすれば、再創造されたの子らの民に留まるために、また再創造から超再創造へと移行するためのすべての要素と超自然的援助を保持している。なぜなら、もし知恵をもって言われてきた、また今も言われている『人は自らを満たす器である』、またもし『恩寵は霊魂にが蒔く種』、あるいは『照らし、肥沃にするために降る一筋の光線』でもあるのなら、もし人間が神的意志と霊感に服し、を収容するためにその能力を増大し、年齢を重ねるごとに、すべてを越えて理解し、望むその能力を拡大するのは当然である。の霊的言葉を理解すること、すなわち、常に最大の正義へと、また人がそのために創造された目的に到達するための意志を導くために、が人それぞれの内部に引き起こす動きを理解することである。また同様に、恩寵の種は、もし人が恩寵に服し、律法を実践し、徳に励み、恩寵に忠実であるなら、小さな種から大木となり、永遠の生命の果実を結び、あの一筋の光線は、霊感が恩寵のうちに成長し、完徳の道に自分を高めるほどに光線の力は増大するだろう。一つの谷から一つの山の頂を目指して上る人なら誰にでも起きるように。

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音4巻下P237

 

山に上りなさい。すなわち完徳に向って上昇するのです。

 

 

3.ヴァッスーラ

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P283

‘87・7・26

 

♡ 私の手をしっかり握って登りなさい(*) 疲れてしまわないように、しばしば悔い改めなさい。

 *「登る」とは、ここでは霊的成長を意味します。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P142

‘90・4・13

 

主よ、必要とあらば私を潰して下さい、けれど小さいままでいられますように。

 

小さいままにしておく・・・さあ 手を取りなさい ともに登ろう ♡

 

 

ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・9巻P162

‘98・6・22 (つづき)

 

あなたのうちに私は増し加わり その一方であなたを小さな者にしていくという 惜しげない好意を示そう。 あなたのうちは夜明けとなり 夜闇は消えていく。