とりつかれる

 

 

 

天界と地獄257

 

自然的な形体的な霊と呼ばれている霊もまたおり、彼らは人間のもとへ来ると、他の霊たちのように人間の思考に彼ら自身を連結させないで、人間の身体の中へ入って、その感覚の凡てを占領し、その中を通して話し、その手足により活動するが、そのときその人間の凡ゆる物は自分のものであるとしか考えていないのである。これらが人間に取り憑く霊であるが、しかし彼らは地獄へ主により投げ込まれて、全く分離され、それで現在ではこのように取り憑くことは許されてはいない(*5)。

 

 

*5。外の方面で取り憑くこと、または身体に取り憑くことは今日では前のように許されてはいない、1983。しかし今日では内の方面で取り憑くこと、即ち心に取り憑くことが以前よりも更に許されている、1983、4793。人間は神と隣人とについて汚らわしい、恥ずべきことを考えて、名声、名誉、利得を失う恐れや、法律に対する恐れや、生命を失う恐れである外的な拘束によってのみ、その考えを公にするのを慎む時は、内的に取り憑かれている、5990。人間の内部に主として取り憑く悪魔的な霊につき、4793。人間の外部に取り憑こうと欲している悪魔的な霊が地獄に閉じ込められていることについては、2752、5990。

 

 

 

 

 

天界の秘義6663

 

「彼らがそれを苦しめるに従って、それは増大した」。これは諸真理は悩まされるに応じて増大したことを意味していることは以下により明白である、即ち、『苦しめること』の意義は悩ますことであり、『増大すること』の意義は真理の方面で増大することである(このことについては前の6656番を参照)。この間の実情のいかようなものであるかを述べてみよう。なぜなら他生で行われていることを経験しなくては、その何であるかを何人も今は知ることは出来ないからである。世から来て、主の戒めの生活を送った霊達の大半は、天界に挙げられて、そこの社会に加えられる以前に、彼らに属している幾多の悪と誤謬を除かれるために、それらに取り憑かれて悩まされるのである、(6639番を参照)、なぜなら彼らが身体の生命の中で取得したところの、天界とは全く調和していない不潔な幾多のものがあるからである。(その悪と誤謬とに取り憑かれて)悩まされることは彼らがその悪と誤謬との中に浸されることによって起るのであり、彼らがその悪と誤謬との中にいると、それに似た悪と誤謬との中にいる霊らがその場に現れて、凡ゆる手段を尽くして彼らを真理と善から連れ出そうと努めるのである。しかしそれでも彼らは、主から天使を通して注がれる流入が勝利を得ない程には深く彼らの悪と誤謬とに浸されはしないのであり、均衡は正確に維持されているのである。このことの目的は、(悪と誤謬とに)取り憑かれて悩まされる者が自由の中にあり、かくて悪と誤謬とに自分自身から戦うように自分自身に思われつつも、抵抗する力は凡て主から来ていることを、その時でなくても、後になって承認するためである(1937、1947、2881、5660番)。

 

 

 

たれかに憎悪を抱いている者らは人間のもとでいかような性質を持っているかについて

霊界日記4530

 

このことから、人間は、その人間に憎悪を抱いている死人に無意識の中にとりつかれて悩まされることが明らかとなるであろう。