鳥
1.知的な事柄、思考、真理、対立した意義では誤謬
2.おとなしい、美しい、清い鳥・・・真理
3.真理の情愛
4.貪欲な醜悪な不潔な鳥・・・誤謬
5.カッコウ
6.雀
1.知的な事柄、思考、真理、対立した意義では誤謬
天界の秘義40
『鳥』は合理的な、理知的なものを意味
天界の秘義715
最古代の人々は、自分は獣と野獣以外の何物でもなく、自分が主から得ているものによってのみ只人間であることを知り、またその事を自己を卑しくした時承認もしたため、それで自分自身に関わりのあるものをことごとく獣と鳥にたとえたのみでなく、また獣と鳥とも呼んだのである、すなわち意志の事柄をかれらは獣にたとえて、獣と呼び、理解の事柄を鳥にたとえて、鳥と呼んだのである。
天界の秘義776
最古代の人々が人間の思考を鳥にたとえたのは、思考は意志の事柄に対照すると鳥に似ているためである。ここに『鳥』と『飛ぶ物』と『翼のある物』と言われ、しかもこれらが人間の中の知的なもの、合理的なもの、感覚的なもののように継続的に言われているため、それらがこうしたものを意味していることをたれも疑わないように、聖言から若干の記事を引用して、確認しよう、そこからまた『獣』は今述べられた事柄を意味していることも明らかになるであろう。
[2]ダビデの書には以下のように記されている―
あなたはかれにあなたの御手の業を支配させたもうた、あなたは凡ての物をかれの足の下におかれた。すなわち羊と牛、まことに野の獣、天の鳥、海の魚の凡てをおかれた(詩篇8・6−8)。
これは主について言われ、人間を、また人間に属したものをことごとく治められる主の主権[支配]がこのように記されているのである。もしそうでないなら、『獣』と『鳥』を治める主権とは何であろうか。さらに―
果を結ぶ木よ、すべての香柏よ、野生の動物、すべての獣、這う物、飛ぶ鳥、かれらにエホバの御名を讃えさせよ(詩篇148・9、10、13)。
『果を結ぶ木』は天的な人を、『香柏』は霊的な人を意味している。『野生の動物』と『獣』と『這う物』とはわたしたちが今取扱っている歴史におけるように、かれらの諸善であり、『飛ぶ鳥』はかれらの諸真理であり、その凡てからかれらは『エホバの御名を讃える』ことができるのである。野生の動物は、獣は、這う物は、鳥は決してそうしたことをすることはできないのである。世俗な文書にはこのようなことが誇張から言われることもできようが、しかし主の聖言には誇張はなく、表象的なものが在るのである。
[3]エゼキエル書には―
海の魚、天の鳥、畠の野生の動物、地を這う凡ての物、地の面に在る凡ての人はわたしの前に震えるであろう(38・20)。
こうしたことがここに『獣』と『鳥』により意味されていることは極めて明らかである、なぜなら魚と鳥と獣が震えるにしてもそれはどうしてエホバの栄光になるであろうか。このような言葉に聖いものが含まれていないなら、それが聖いものであるとはたれが考えることができよう。エレミヤ記には―
わたしは見た、見よ、たれ一人いなかった。天の鳥も凡て逃げてしまっていた(4・25)。
これは善と真理そのものを示しており、人はまたここでは愛の善を示している。さらに―
かれらはやきつくされている、それでたれ一人通りすぎない、人間もまた家畜の声を聞くことができない、天の鳥と獣とは逃げてしまった、かれらは去ってしまった(9・10)。
同様にこれは真理と善そのものが消滅してしまったことを示している。
(中略)
[4]
エホバの木々は満ち足りている、エホバが植えられたレバノンの香柏も。そこに鳥は巣を作る(詩篇104・16、17)。
『エホバの木』と『レバノンの香柏』は霊的な人を示し、『鳥』はかれの合理的なまたは自然的な真理を示しており、それらは『巣』のようなものである。さらに『鳥は枝に巣を作るであろう』はありふれた形の表現であって、真理を意味したのである、例えばエゼキエル書には―
イスラエルの高い所の山にわたしはそれを植えよう、それはその枝をもたげ、果を結んで、みごとな香柏となるであろう、そしてその下には凡ゆる翼の凡ゆる鳥が住み、その枝の影にかれらは住むであろう(17・23)。
これは霊的なものであった異邦人たちの教会を意味している。さらに―
天の鳥はすべてかれの枝にその巣を作り、その枝の下には畠の野生の動物は子を生み、その蔭の下に大いなる国民はすべて宿った(31・6)。
これは霊的な教会であって、『香柏』と呼ばれているアッシリヤについて言われており、『天の鳥』はその諸真理を、『獣』はその諸善を意味している。ダニエル書には―
この葉は美しく、その果は多く、凡ての者の糧となった、野の獣はその下に蔭を得、天の鳥はその枝に宿った(4・12,21)。
ここにはたれにでも明白であるにちがいないように、『獣』は善を、『天の鳥』は真理を意味している、なぜならもし然うでないなら、鳥と獣とがそこに住んだということに何の意義があろうか。主が言われていることも同様である―
神の王国[神の国]は一粒の芥種のようなものである、人がそれを取って、庭にまいたところ、それは成長し、木となり、天の鳥がその枝に宿った(ルカ13・19、マタイ13・31、32、マルコ4・31,32)。
天界の秘義3219
天使たちが知識について、観念(考え)について、流入について語り合っていると、そのときはその談話の主題に順応して形作られたところの鳥のようなものが霊たちの世界に現われるのである。ここから聖言には『鳥』は合理的な事柄を、または思考にぞくしている事柄を説明している(40,745、776、991番を参照)。
天界の秘義3219[2]
このことによりわたしは思考と流入とにかかわる天界の談話は鳥により表象され、誤謬の中にいる者らのそれは黒い、醜い鳥により表象されはするが、真理の中にいる者たちのそれは高貴な、美しい鳥により表象されることを知ることができたのである。
天界の秘義5149
『鳥』の意義は知的な事柄であり、また思考であり、従ってそこから派生した事柄であり、すなわち、純粋な意義では凡ゆる種類の真理であり、その対立した意義では誤謬であり(40,745,776,778,866,988,3219番を参照)
[3]
『鳥』は知性のいくたの事柄を意味していることを知らない者は、『鳥』が聖言に言われている所では、たんに鳥が意味されているか、またはそれは日常の言葉におけるように、たとえで用いられているか、その何れかであるとしか考えることはできない。内意からでなくては、たれ一人『鳥』により理解のいくたの事柄が、例えば、思考、観念、理論、原理が意味され、従って、真理または誤謬が意味されていることを知ることはできないのである、例えばルカ伝には―
神の王国は一粒のからし種のようなものである、人はそれを取って、その庭に投げ入れたところ、それは成長して、大きな木となり、空の鳥がその枝に住んだ(13・19)。
ここの『空の鳥』は真理を意味している。
[4]エゼキエル書には―
それは成長して壮麗な香柏となり、その下に凡ゆる翼の凡ゆる鳥が住み、その枝のかげに住むであろう(17・23)。
『凡ゆる翼の鳥』は凡ゆる種類の真理を意味している。さらに―
アッシルはレバノンの香柏であった。天の鳥はすべてその枝に巣をつくり、その枝の下に野の獣は凡て子を産み、その蔭に偉大な国民は凡て住んだ(31・3,6)。
『天の鳥』も同様に真理を意味している。
[5]さらに―
その廃墟に天の鳥はすべて住み、畠の野生の動物もすべてかれの枝の上にいるであろう(31・13)。
ここでは『天の鳥』は誤謬を意味している。ダニエル書には―
ネブカドネザルは夢に見た、見よ、地の真中に一本の木があった、畠の獣がその下に蔭をえ、天の鳥はその枝に住んだ(4・10,12,18)。
ここにもまた『天の鳥』は誤謬を意味している。
[6]エレミア記には―
わたしは見た、見よ、人間は一人もいなかった、天の鳥はすべて逃げ去っていた(4・25)。
『人間は一人もいない』は善は何一つないことを意味し(4287番)、『逃げた天の鳥』は真理が消散してしまったことを意味している。さらに―
空の鳥から、獣までも、かれらは逃げてしまった、去ってしまった(9・10)。
ここでも意味は類似している。またマタイ伝には―
種まく者が出て行って種をまいた、ある種子はかたい道に落ちた、鳥が来て、それをたべつくした(13・3、4)。
ここでは『鳥』は理論を、また誤謬を意味している。その意味は他の多くの記事でも類似しているのである。
2.おとなしい、美しい、清い鳥・・・真理
天界の秘義866
天界の秘義745
清い鳥は真理の思考であり、潔くないものは誤った思考
天界の秘義3219
思考と流入とにかかわる天界の談話は鳥により表象され、誤謬の中にいる者らのそれはくろい、醜い鳥により表象されはするが、真理の中にいる者たちのそれは高貴な、美しい鳥により表象されることを知ることができたのである。
3.真理の情愛
天界の秘義6767〔2〕
『草』は真の記憶知であることは、『草』を記している聖言の記事から明白であり、『畠』は教会に属しているものであることについては、2971、3310、3766番を、『獣』は善の情愛であり、かくて善であることについては45、46、(中略)、『鳥』は真理の情愛であることについては、5149番を参照されたい
4.貪欲な醜悪な不潔な鳥・・・誤謬
天界の秘義866
からす・・・理解、理性、記憶知、それに対立した理論、誤謬
天界の秘義5044
からす・・・誤謬
ふくろう
天界の秘義5044[7]
さらに―
ペリカンとさんかのごいがそれを占めるであろう、ふくろとからすとがその中に住むであろう、かれはその上に空しいなわをはり、また荒廃の下げ鉛を[下げるであろう]。そこの貴族はそこにおらず、かれらは王国と呼ぶであろう、その君たちは凡て空しいものになるであろう(イザヤ34・11,12)。
『ペリカン』、『さんかのごい』、『ふくろ』、『からす』は、聖言の神的諸真理がなんらかえりみられなくなるとき存在するようになる色々な種類の誤謬を意味している。真理の荒廃と剥奪とは、『空しいなわと荒廃の下げ鉛』により意味され、かれらには主要な真理である誤謬は『君[主]』により意味されているのである。
真の基督教334
世にいた時、大使であったある人が近くに立っていた。彼はこの主張に驚いて、論証家に語った。
「私は世にいたときこの種のことを少しく聞いたことがありますが、それでもあなたは乱心しておられる。光は暗黒であり、暗黒は光であることを証明出来るものなら証明してみなさい。」
彼は答えた。
「容易なことです。なぜなら、光と暗黒とは眼の状態以外の何ですか。眼が強烈な日光を受けて眩み、あるいは太陽を凝視するとき、光は暗黒に変わりませんか。眼の状態はその時変化し、それ故、光は蔭として現れます。しかし、眼がその前の状態を回復すると、蔭は光として現われます。からすは暗黒を光として、光を暗黒として見ませんか、太陽それ自身をも不透明な薄暗い球体として見ませんか。もし、人間が梟のような眼を持つならば、何れを彼は光と呼び、何れを暗黒と呼びましょうか。それ故、光は単に眼の状態以外の何ものでしょうか。しかして、若しそれが単に眼の状態に過ぎないならば、光は暗黒であり、暗黒は光ではありませんか。それ故、二つの命題とも真理です。」
この確証にその場に居合わせたある者達は当惑したので、私は言った。
「この論証家が真の光と偽りの光とが在り、偽りの光は真の光に較べるとき実際は、暗黒ではあるけれども、両者とも光のように現れることを明らかに知られないのです。梟は偽りの光の中におります、なぜなら、その眼の中には他の鳥を追って、これを食い尽そうとする欲念があり、この光によって彼らの眼は暗がりの中にも見えるのです。猫も同様です。鼠を追って、食い尽そうとする欲念から生ずる偽りの光によって、彼らの眼は暗がりの中にも光るのです。それ故、明らかに、太陽の光は真の光であり、欲望の光は偽りの光であります。」
この後で、大使は
「からすは黒色ではなく白色である」という命題を真として証明するように、その論証家に求めた。
彼は答えた、
「これもまた容易に証明することが出来ます。針、あるいは、鋭利な小刀を取り、からすの羽茎と毛を取り去り、からすの皮膚をごらんなさい。それは白くありませんか。それ故、それを取りかこんでいる黒色は蔭以外の何ものでしょうか。決してからすの真の色を決定しません。光学に関する著述家に尋ねてごらんなさい。彼らは、暗黒は単に蔭に過ぎないことを諸君に告げるでしょう。もし、あなた方は黒い石を、あるいは一片の黒色の硝石を砕いて粉末になさるならば、それは白くなるでしょう。」
しかし、大使は答えた、
「からすは眼には黒くは見えませんか。」
論証家は答えた。
「分別のあるあなたは、物事を外観によって考察しようと欲せられるのですか。あなたは実際外観に従ってからすは黒いと語って宜しいでしょう。しかし、あなたはそれが事実であると想像することは出来ません。例えばあなたは外観に従って語り、太陽は昇り、また没すると言って宜しいでしょう。しかし、あなたは分別ある者として、そのように考えることは出来ません。と言うのは、太陽は不動であるが、地球は動くからです。からすも同様です。外観は単に外観に過ぎません。何とでも言って宜しい。からすは、全く白いのです。私自身老齢のために白くなったからすを見たことがあります。」
傍に立っていた人々は、ここで私を眺めた。私は言った。
「からすの羽茎と毛の内側は白色であり、皮膚もまた同様に白いことは真です。しかし、これは単に、からすについてのみでなく、また他の凡ゆる鳥についても言えることです。しかし、凡ての者達は鳥をその色によって区別します。もしそうでないなら、我々は凡ゆる鳥は白いと言うことでしょう、これは不合理です。」
その時、大使は彼に次の質問を提出した。
「あなたは自分が狂っていることを真として証明出来ますか。」
これに、彼は答えた。
「出来ます。しかし、やりたくはありません。狂っていない者がいましょうか。」
最後に、彼らは彼にあなたは冗談を言っておられるのか、それとも彼は人間が真理となすもの以外は何ものも真理ではないと信じておられるのか、おられないのかを真面目に告げてほしいと語った。
彼は答えた。
「私はそのように信じていることを誓います。」
この後、この万能論証家はその真の性格を験べられるために、天使達の許へ送られた。点験の後、彼の合理的な能力の上の凡ゆる領域は閉じ、ただ下の領域のみが開いている故、いささかの理解も持っていないと報告された。
「霊的な光は」と彼らは語った、「合理的な能力の上にあり、自然的な光はその下に在り、自然的な光はその欲するものを何ごとでも確証することが出来ます。霊的な光が自然的な光へ流れ入らない限り、人間は真理が真理であるか否かを、また虚偽が虚偽であるか否かを理解することが出来ません。これはただ自然的な光の中の霊的な光からのみ認められることが出来、しかして霊的な光は主にて在す天界の神から発します。それ故、この万能論証家は人間でもなく、獣でもなく、人間獣であります。」
(中略)
その後、私は「嗚呼、如何に賢明であることよ!」と叫ぶ群衆に取り巻かれた論証家の集会の方を眺めた。と見よ!暗雲が彼らを蔽い、その雲の中に梟と蝙蝠の飛んでいるのが見えた。私は梟と蝙蝠は相応であり、それ故この論証家達の思考を象徴していると告げられた。なぜなら、虚偽をそれが真理であるように見えるまでに確証することは、霊界では、その眼は内部を偽りの光によって明るくされて暗がり中に色々な物を見ることの出来る夜の鳥によって表されるからであると告げられた。これは虚偽に真理の外観を与え、後それを信ずる人々の誤った霊的光である。このような人間は前からではなく後から見ると言われることが出来よう。
5.カッコウ
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/1卷P455/50・7
あなたたちがしてほしくないことを他人にしたくなければ、盗んだり、殺したり、中傷したり、郭公のように他の鳥の巣の中に入り込んだりはしないでしょう。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/2卷P528/128・3
他の愛人たちに走る夫は、妻の、子らの、自分自身の殺人者になります。姦淫するために他人の住まいに入る者は盗人であり、最も卑劣です。身銭を切らずに他の鳥の巣を恣(ほしいまま)にする郭公(かっこう)にも等しい。男友達の信頼を掠め取る者は、実際には抱いてもいない友情を証明しているのだから嘘吐きです。このように振る舞う者は自分自身と両親の面目を失わせます。ならばどうして神を味方につけられようか?
天界の秘義6652
内なるものから遠ざかった記憶知は教会に対立した記憶知である、なぜなら教会を作る善と真理とは内なるものを通して流れ入っており、もしそれらが自然的なものにより受け入れられないなら、内なるものは閉じられ、かくしてその人間は善と真理から遠ざかり、自然的なものの中に在る記憶知は、その誤っているものを除いては、何一つ真理としては承認されはしないからである。その時はその誤った記憶知は増大し、真理そのものは戸外に投げ出されてしまうのである。
6.雀
燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや