天界の秘義8989

 

『戸』の意義は真理を善に導入すること(2356、2385番)。

 

『戸』は導入を意味しているため、それはまた交流[伝達、連絡]を意味している、なぜなら一つの部屋は戸によって他の部屋と連絡[交流]しているからである。

 

 

天界の秘義8989[7]

 

見よ、わたしはあなたの前に開いた戸をおいた、それはたれも閉じることはできない、なぜならあなたは僅かな力をもち、わたしの言葉を守ったからである(黙示録3・8)。

 

『開いた戸をおくこと』は天界と交流することを意味している。同書に―

 

この事の後でわたしは見た、見よ、天に戸が開いていた。わたしは聞いた、ここに上りなさい、この後起るようになるにちがいない幾多の事柄をわたしはあなたに示しましょう(4・1)。

 

ここでは『戸』は明らかに交流[伝達]を意味している、なぜならそれはかれが天界からまさに受けようとしていた啓示について言われているからである。このことからまた交流[伝達]がそこでは、前に言ったように、戸により表象されていることが明らかである。同書に―

 

見よ、わたしは戸のほとりに立って、たたく、もしたれでもわたしの声を聞いて、戸を開くなら、わたしはかれのもとへ入って、かれとともに食べ、かれはわたしとともに食べるでしょう(3・20)。

 

ここにもまた『戸』は明らかに、主がおられる天界に入って、天界と交流し、かくて主のもとに入って主と交流することを意味している。

 

[8]マタイ伝にも同じく―

花婿が来て、処女たちは婚礼に入って行き、戸は閉じられた。ついに他の処女たちが来て、言った、主よ、主よ、わたしたちに開いて下さい。しかしかれは答えて言った。まことにわたしはあなたたちに言う、わたしはあなたたちを知らない(25・10−12)。

 

これらの言葉がその内意に意味していることについては、4635−4638番を参照されたい、すなわち、『処女』は教会の中にいる者たちを意味し、『燈の中に油をもつこと』は信仰の諸真理の中の仁慈の善を意味し、『燈の中に油をもたないこと』は信仰の諸真理をもってはいるが、その中に仁慈の善をもたないことを意味し、この後の者には戸は『閉じられた』と言われている事は、かれらは天界と交流していない、すなわち、天界を通して主と交流していないためである。天界と交流し、天界を通して主と交流することは仁慈と愛との善により行われて、内に善のない、信仰の真理と呼ばれている真理によっては行われはしないのであり、それでこの後の者は『愚かな処女』と呼ばれてはいるが、しかし前の者は『思慮のある処女』と呼ばれているのである。

 

[9]ルカ伝にも同じく―

多くの者は入ることを求めるであろう、しかし入ることはできないであろう。家の主人が起きて、戸を閉じた時から、そのときあなたらは外に立って、戸をたたき、主よ、主よ、わたしらに開いてください、と言いはじめるであろう、しかしかれは答えて、あなたらに言うであろう、わたしはあなたらが何処から来たかを知らない、と。そのときあなたらは言いはじめるであろう、わたしたちはあなたの面前で食べもし、飲みもし、あなたはわたしたちの街路で教えられもしました、と。しかしかれはあなたらに言うであろう。わたしは何処からあなたらが来たかを知らない、凡て不法を働く者らよ、わたしを離れて去りなさい、と(13・24−27)。

 

ここにもまた『戸』は明らかに、前のように、入ることと交流することとを意味しているのである。戸が閉められているため、それを叩きはするが、中へ入れられない者らは、聖言から信仰の真理の中にはいるが仁慈の善の中にはいない者である事は、『主の御前で食べもし、飲みもし、主が街路で話されるのを聞き』はするが、信仰の生活に生きないことにより意味されているのである、なぜならこうした生活を送る者らは『不法を働く者ら』であるからである。

 

[10]ヨハネ伝に―

まことに、まことに、わたしはあなたたちに言う、戸から羊のおりの中へ入らないで、何か他の道からよじ登る者は盗人であり、強盗である。しかし戸から中へ入る者は羊の羊飼いである。わたしは戸である、わたしによってもしたれかが中へ入るなら、その者は救われるでしょう(10・1,2,9)。

 

『戸から中へ入ること』は、信仰にぞくした真理により仁慈と愛との善へ、かくて主のもとへ入ることを意味しており、主はまた導き入れる真理であられ、かくて同じく『戸』であられるのである、なぜなら信仰は主から発しているからである。

 

[11]『戸』により交流[伝達]が意味されていることは隠喩的な言い方に似ており、または比喩に似てはいるが、しかし聖言には隠喩的な表現とか、比喩のようなものはなくて真の相応が在るのである。その中の比喩さえもが相応している事柄から作られていることは、戸について言われたことから認めることができよう、すなわち、戸は実さい天界で天使たちと霊たちのもとに現れており、かれらが(それを)開いたり、閉じたりすることは、その交流[伝達]に応じているのである。他の凡てのものにあっても同じである。