天界の秘義2015[]

 

『王』が真理を意味していることは、以下の記事から認めることができよう。イザヤ書には―

 

  他国者の息子らはあなたの壁をきずき、その王たちはあなたに仕えるであろう、あなたは諸々の国民の乳を吸い、王たちの胸を吸うであろう(60・10、16)。

 

 『諸々の国民の乳を吸う』ことと『王たちの胸を吸う』こととは何であるかは文字からは決して明らかではないが、内意からは明らかであり、内意ではそれはいくたの善を与えられ、いくたの真理を教えられることを意味しているのである。

 

 

天界の秘義2184[4]

 

しかし乳については、前に言ったように、これは天的なものから発した霊的なものを、すなわち、天的な霊的なものを意味している。(天的な霊的なものの何であるかは第一部の1577、1824番に、また折々の他の所にも認めることができよう)。『ミルク』が天的なものから発している霊的なものであることは『水』は霊的なものを意味しているという事実から来ているが(680、739番)、しかし『乳』は、その中に脂があるため、天的な霊的なものを、またはそれと同一の、善の真理を意味しており、またはそれと同一の、愛の信仰を、または仁慈の信仰を意味しており、またはまたそれと同一の、意志の善の理知的なものを意味し、さらにそれと同一のものであるところの、内部に善の情愛を宿している真理の情愛を意味しており、さらになおそれと同一のものであるところの、隣人に対する仁慈の情愛から発している知識の情愛[知識を求める情愛]を意味しており、この情愛は隣人を愛して、この愛を信仰にかかわる知識から確認し、またそうした理由から愛している記憶知からも確認している者たちのもとに存在しているようなものである。これらのものはすべて天的なものと同一であり、とり扱われている主題に応じて述べられている。

 

[5]こうしたことが意味されていることは聖言からもまた明白であり、たとえばイザヤ書には―

 

  渇いている者はことごとく水のもとへ来よ、銀を持たない者も、来て、買い、食べよ、しかし、来て、銀なしに、価なしにぶどう酒と乳とを買え。なぜパンでもないもののためにあなたらは銀をはかるのか(55・1、2)。

 

 ここには『ぶどう酒』は信仰にぞくした霊的なものを、『乳』は愛にぞくした霊的なものを意味している。モーセの書には―

 

  かれはその上着をぶどう酒の中で洗われ、その着物をぶどうの実の血の中で洗われた。その目はぶどう酒よりも赤くその歯は乳よりも白い(創世記49・11、12)。

 

 これはユダにかかわるヤコブの、そのときはイスラエルの予言であるが、ユダにより主がここに記されていてその『歯が乳よりも白いこと』により主の自然的なものにぞくした天的な霊的なものが意味されているのである。

 

[6]ヨエル書には―

 

  かの日山々は新しいぶどう酒をしたたらせ、岡には乳が流れるであろう、ユダの小川にはことごとく水が流れるであろう(3・18)。

 

 これは主の王国について語っており、『乳』は天的な霊的なものを意味している。聖言にはカナンの地もまた(そのカナンの地により主の王国が表象されているが)『乳と蜜とが流れている地』と呼ばれており、(たとえば民数記13・27、14・8、申命記26・9、15、27・3、エレミヤ記11・5、32・22、エゼキエル書20・6、15)これらの記事では『乳』により豊かな天的な霊的なもの以外には何ごとも意味されてはおらず『蜜』により、そこから派生している豊かな幸福以外には何ものも意味されてはおらず、『地』はそれらのものが発生してくる源泉である王国の天的なものそれ自身である。

 

 

天界の秘義6745

 

『乳を飲ませること』の意義は善を徐々に注ぎ入れることであり(それについては以下に述べよう)、パロの娘の意義は宗教であり(6729番を参照)、彼女は『私のために彼に乳を飲ませなさい』と言ったため、それはそれがその宗教に適応した善を徐々に注ぎ入れなくてはならないことを意味している。