知的な真理

 

 

天界の秘義1496

 

記憶の中の真理と合理的な真理と知的な真理とは互に異なっていて、それらは互に他に継続しているのである。記憶の中の真理は記憶の知識の事柄であり、合理的な真理は理性により確認されたこの真理であり、知的な真理はそれがそうであるという内なる認識と連結しているのである。この知的な真理は主の子供時代に主のもとに存在したのであって、主のもとで天的なものに対して道を開いたのである。

 

 

天界の秘義1904[3]

 

 内なるものと中間的なもの[媒介的なもの]と外なるものとは互に区別されているように、知的な真理は合理的な真理からは区別されており、合理的な真理も記憶知の形をとった真理からは区別されている。知的な真理は内なるものであり、合理的な真理は中間的なもの[媒介的なもの]であり、記憶知の真理は外なるものである。これらのものは互に他から極めて明確に区別されているが、それは一つは他のものよりもさらに内なるものであるからである。いかような人間にあっても、内なるものであるところの、または人間の最内部の中にあるところの知的な真理はその人間のものではなくて人間のもとにある主のものである。そこから主は人間の合理的なものの中へ流れ入られるのであり―その合理的なものの中に真理が始めて人間に属しているものとして現れるのである―合理的なものから記憶知の中へ流れ入られるのである、そのことから人間は知的な真理からは自分自身から考えるものとして到底考えることはできないのであり、単に合理的な真理と記憶知の真理からのみ考えることが明白である、なぜならこれらのものはかれのものであるかのように見えるからである。

 

[4]主のみが、世におられたとき、知的な真理から考えられたのである、なぜならそれは善と連結した主の神的な真理であり、または神的な天的なものに連結した神的な霊的なものであったからであり、この点で主は他のすべての人間から区別されたもうたのである。自分自身から考えるように神的なものから考えることは人間には決して可能ではなく、また人間の中にも可能ではなく、それはエホバからみごもられた主の中にのみ可能である。主は知的な真理から、または知的な真理の愛または情愛から考えられたため、そこからまた合理的なものを欲しられたのであって、それがここに『アブラムの妻のサライ』が―彼女により知的な心理の情愛が意味されているのである―エジプト人ハガルを取って彼女をその男アブラムにその女として与えたと言われている理由である。